-3- 糧となるもの
ダルシュアン城下町。
今や完全に“もう一人の人格”と
聞くに不愉快な
自身が王女である事は、城の者以外ではごく一部の人間にしか明かしてはいない。本来なら顔を隠したい所だが、覆えばそれだけで怪しまれる。紫紺の髪色も特に珍しくは無い。遊び
嘲笑し、民家の屋根から
「……ルーナさま?」
と、突然真後ろで響く、聞き慣れたか細い声。驚き振り返ると、路地裏で幼き少女が顔を
暗がりにあるその眼を捉えた途端、向こうも目が合った事に気付いたのか、こちらへ向かい駆け出す。
「リリス!? どうした、何かあったのか!」
飛び付いてきた彼女を抱き止め、問い掛ける。上流階級に属す
彼女はその目に大粒の涙を浮かべ、小さな肩を震わせていた。
「ぅっく、母さまが
「それで屋敷を飛び出して、このような場所まで?」
「だってすごく怖かったんだもん! あんなの、いつもの優しい母さまじゃない……。お屋敷にいないって分かったらお役人さんに知らせたの! 助けてルーナさま! リリス、ころされちゃう!」
耳を疑うような言葉を放ち、強い力でしがみ付く。
「落ち着け、母君がそのような事をするものか。見つからなければ心配で
「いや! いやよ怖いっ! おねがい、リリスをおそばに置いて、ルーナさま!」
「リリ、……うぁ、な、に」
その頭を撫でた途端、吐き気であり、渇望のような気味の悪い感覚が沸き起こる。
妙だ。一度融合して静まれば、もう苦しみは起こらぬはず……。
「ルーナさま? どうしたの? どこか痛いの……?」
「やだっ、ルーナさまご病気? 死んじゃうの? どうして? リリスが悪い子だから? ねぇ、ルーナさま……」
小さな手が頬に触れ、リリスは遂に大粒の涙と共に泣き出してしまった。
「リ……ぅ、ぐ!」
するとひとたび、心臓の音が大きく跳ね上がる。
途端に、今まで
後に残ったのは何故か至福。この上の無い
……そして知る。
この意識は自身でありながら、別のモノだという事を。
「リリス、良い子になる……それで、ルーナさまとずっと、ずっといっしょにいるからっ……だから死なないで、死なないでぇ!」
ぐ、と頬にあった小さく白い手を、無造作に引っ
泣き顔が瞬時に止み、潤んだ目が見開いて私を見る。
「ルーナさま? だいじょうぶ?」
違う、“私”ではない!
「この身に死など訪れぬ。穢れ無き御子の願いだ、喜んで
「……? ルーナさま?」
理解出来ぬまま小首を傾げる少女の腕を引き、我が胸に抱き止める。頬、瞼、耳……と唇を滑らせ、首筋に強く愛しく吸い付いた。
……やめろ、そのような事、望んではいない!
「えへへ、くすぐったいよぉ」
これから身に起ころう事など知る由も無いリリスは、
……早々に気付くべきであった。“もう一人の人格”、融合していたのでは無く、徐々に侵食されていたという事に。今まで顔を出さずにいたのはこの時を待っていたからだ。リリスを手中に収めるこの時を。此奴はずっと待っ……“此奴”?
何を言う、これも私ではないのか。
……ずっと目を背けてきた、
「おやすみ、リリス」
頭で
味見の如き口付けを落とし、果てには緩りと、
「っ……、ルーナさ、ま? あ、ぅ……」
小さき体に我が
かつて、これ程までに甘美な味わいはあったであろうか。待ち焦がれていただけあって、柔らかな血は私を存分に満たしてくれた。
ただ
「おい嬢ちゃん、そんなとこで何やってんだ?」
「……え?」
喉を通る流れが
吐き気や渇望感はもう無い。鋭かった爪や牙も鳴りを
……そして腕の中には、青白い顔で
「ぁ、リリス?……リリス!」
揺さ振り、呼び掛ける。身を放して支えを解けば、人形のように
「リリ……」
ちらりと見えた首筋には、無造作に開けられた噛み傷と、薄く残る
「どうした? 大丈夫か?」
立ち上がる事も出来ず、情け無く
「こ、子供?……え? おい、まさか、死ん……!?」
疑心に満ちた眼に、捉われる。
“殺したのか”……目はそう語っていた。
ああ、間違いなど無い。リリスを殺めたのは他でも無い、この私……。
「ちがっ……違う!」
しかし、口をついたのは、この期に
手が……手だけが、男を消してしまえば良いのだと、思い至ったようであった。
「違う、駄目だ……私は、何を……」
呪いの如きそれを慌てて引込め、
男は何かに気付いたのか、視線を我が後方へと移し、大声で助けを求める。ぞくりと身の毛立つ感覚と共に振り向けば、そこには役人が四人。カンテラで
「こいつを捕まえてくれ! 人殺しだ!」
まばゆいそれに目が
――人殺し。
「リリス! ああ、なんてこと!」
そして、戸惑う役人の後ろから
「許して! 髪飾りは見つかったの! リリスは悪くなかったのよ……!」
全てが遅かったのだと、少女に泣き
「……ル、ナ王女!」
「何だって?」
耳元で響く、男の声が鬱陶しい。一人、また一人と増えてきた役人も、笛で合図を送っては周囲を取り囲む。
……諦めるか。もはや逃げる気力も失せた。いずれにせよ処刑は
「吸血鬼か?」
しかし、全く……予期などしていなかった言葉を役人が吐く。私は何も応えない。否、驚きの余り応えられない。
この内の何者かに“食らう様”など、見られてはいないはずなのだ。
「数年前……いや、思えば王妃が外出されなくなった時期から、血の無い死体が発見されるようになった。噂では王族が全員、吸血鬼に成り代わったと聞く。姫よ、それは
……。
否定なら即座に出来たはずであった。しかしふと、忌むべき
確かに、全ての王族が吸血鬼などという事実は無い。だが、もはや
役人は探すはず。確かな証拠を。そして行き着くであろう。憎き怪物に血を変えられ、“同胞”となった母上に。
マリエ=クア=ダルシュアン。十六でケトネルム王家よりダルシュアンへ
以来、悲運の王妃は永久にその姿を留める事となり……あと僅かの月を経れば、私はその母の齢を越える。本来なら四十路になる彼女の齢を。
数十年も姿変わらぬ王妃が、言い逃れ得ぬ証拠となる事は明白であった。
「……母上」
ぽつりと呟いたその声は、思うよりも低く、
途端、体中に命令が行き渡るかのような感覚が湧き上がる。
取り押さえにやってきた役人共に触れられる直前で
「何だあの脚力は……」
「油断するな! 術使いかも知れん!」
口々に叫び、
「逃げる気だ!」
「くっ、姫! その行動は肯定と取るぞ!」
この場に留める口実か、役人が悔しそうに吐く。それにすら耳を貸さず、屋根伝いを跳び、王宮へと急いだ。
今は何より危険に晒されてしまった母の元へ、一刻も早く向かう事が先決であった。
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