-3- 糧となるもの

 ダルシュアン城下町。

 今や完全に“もう一人の人格”と融合ゆうごうした私は、夜のとばりを背に、ランプの明かりが漏れる酒場を見下ろしていた。


 聞くに不愉快な喧騒けんそうが風に乗り、煙のように消えゆく。不規則に、しかしそれは頻繁ひんぱんに幾度も繰り返される。それこそが、求むモノの存在を示すあかし。……口角が笑みを形作り、舌が唇をった。


 自身が王女である事は、城の者以外ではごく一部の人間にしか明かしてはいない。本来なら顔を隠したい所だが、覆えばそれだけで怪しまれる。紫紺の髪色も特に珍しくは無い。遊びの真似事でもしてやれば、れつな男どもが正体など知る由も無く寄り付く。それさえ叶えば良い。我が姿捉えるやからは、いずれにせよ肉塊となる。

 嘲笑し、民家の屋根からび下りると、酒場への小さな階段に足を掛けた。


「……ルーナさま?」


 と、突然真後ろで響く、聞き慣れたか細い声。驚き振り返ると、路地裏で幼き少女が顔をのぞかせていた。

 暗がりにあるその眼を捉えた途端、向こうも目が合った事に気付いたのか、こちらへ向かい駆け出す。


「リリス!? どうした、何かあったのか!」


 飛び付いてきた彼女を抱き止め、問い掛ける。上流階級に属すのポリアンダ家の令嬢が、このような場に居るのはあまりに不自然な事。そうでなくとも、幼子が一人で出歩くには危険な夜である。

 彼女はその目に大粒の涙を浮かべ、小さな肩を震わせていた。


「ぅっく、母さまがしかるのっ……。リリス、なんにも悪い事してないのに!」

「それで屋敷を飛び出して、このような場所まで?」

「だってすごく怖かったんだもん! あんなの、いつもの優しい母さまじゃない……。お屋敷にいないって分かったらお役人さんに知らせたの! 助けてルーナさま! リリス、ころされちゃう!」


 耳を疑うような言葉を放ち、強い力でしがみ付く。


「落ち着け、母君がそのような事をするものか。見つからなければ心配でしらせるのも当然だ。さあ、屋敷まで一緒に帰ろう」

「いや! いやよ怖いっ! おねがい、リリスをおそばに置いて、ルーナさま!」

「リリ、……うぁ、な、に」


 その頭を撫でた途端、吐き気であり、渇望のような気味の悪い感覚が沸き起こる。

 妙だ。一度融合して静まれば、もう苦しみは起こらぬはず……。


「ルーナさま? どうしたの? どこか痛いの……?」


 おびえを滲ませる青い瞳が、地に手を着く私の顔を覗き込む。心配させぬよう言葉を投げ掛けてやりたいが、もはや荒い息だけが口をつく。


「やだっ、ルーナさまご病気? 死んじゃうの? どうして? リリスが悪い子だから? ねぇ、ルーナさま……」


 小さな手が頬に触れ、リリスは遂に大粒の涙と共に泣き出してしまった。


「リ……ぅ、ぐ!」


 するとひとたび、心臓の音が大きく跳ね上がる。

 途端に、今までむしばんでいた苦しみが失せる。

 後に残ったのは何故か至福。この上の無いよろこび。


 ……そして知る。

 この意識は自身でありながら、別のモノだという事を。


「リリス、良い子になる……それで、ルーナさまとずっと、ずっといっしょにいるからっ……だから死なないで、死なないでぇ!」


 ぐ、と頬にあった小さく白い手を、無造作に引っつかむ。

 泣き顔が瞬時に止み、潤んだ目が見開いて私を見る。


「ルーナさま? だいじょうぶ?」


 違う、“私”ではない!


「この身に死など訪れぬ。穢れ無き御子の願いだ、喜んでもらい受けよう。私の命となり、永遠となれ。尽く事無き愛でいつくしもう」

「……? ルーナさま?」


 理解出来ぬまま小首を傾げる少女の腕を引き、我が胸に抱き止める。頬、瞼、耳……と唇を滑らせ、首筋に強く愛しく吸い付いた。


 ……やめろ、そのような事、望んではいない!


「えへへ、くすぐったいよぉ」


 これから身に起ころう事など知る由も無いリリスは、屈託くったく無い笑みを漏らす。

 ……早々に気付くべきであった。“もう一人の人格”、融合していたのでは無く、徐々に侵食されていたという事に。今まで顔を出さずにいたのはこの時を待っていたからだ。リリスを手中に収めるこの時を。此奴はずっと待っ……“此奴”?


 何を言う、これも私ではないのか。根底こんていで常に彼女を狙っていた浅ましき思考。“もう一人の人格”などと教えられてはきたが、そのじつただの欲望。

 ……ずっと目を背けてきた、みにくい己。


「おやすみ、リリス」


 頭でたくを並べ続けるも、身体は目前の至高を求め、本能のままに動き続けていた。

 味見の如き口付けを落とし、果てには緩りと、いとし子の首筋に鋭くとがった自身の牙を穿うがつ。


「っ……、ルーナさ、ま? あ、ぅ……」


 小さき体に我がどくは強過ぎたのか、リリスはすぐに身を預けてくる。間も無く舌に触れたかぐわしい蜜を、この身はいやしく音まで立てて吸い上げた。


 かつて、これ程までに甘美な味わいはあったであろうか。待ち焦がれていただけあって、柔らかな血は私を存分に満たしてくれた。

 ただしむらくは、幼体故の微量さ。


「おい嬢ちゃん、そんなとこで何やってんだ?」

「……え?」


 喉を通る流れがかいとなる頃、不意に掛かった声で我に返る。男が一人、酒場から出てきていた。


 吐き気や渇望感はもう無い。鋭かった爪や牙も鳴りをひそめている。先程まで明るく感じていた夜も今やただの闇。路地裏に積まれていたはずの木箱すら鮮明に映らない。

 ……そして腕の中には、青白い顔でうなれる少女。


「ぁ、リリス?……リリス!」


 揺さ振り、呼び掛ける。身を放して支えを解けば、人形のようにくずれ、地へと倒れ込んでしまった。


「リリ……」


 ちらりと見えた首筋には、無造作に開けられた噛み傷と、薄く残るくれない

 のうに、忘れていた……あるいはみずから忘却を望んだひと時がよみがえる。唇が乾き、歯がまるで極寒に晒されたかのように音を立てていた。


「どうした? 大丈夫か?」


 立ち上がる事も出来ず、情け無く後退あとずさる私に再び声を掛け、男はリリスに歩み寄る。そして気付いたであろう。そこへ横たわるのはもう、永遠とわに動かぬむくろだという事に。


「こ、子供?……え? おい、まさか、死ん……!?」


 疑心に満ちた眼に、捉われる。

 “殺したのか”……目はそう語っていた。

 ああ、間違いなど無い。リリスを殺めたのは他でも無い、この私……。


「ちがっ……違う!」


 しかし、口をついたのは、この期におよんでうつつから目をそむける醜い言い訳。非難と畏怖いふに色付くその目がわずらわしくなり、ついには男へと腕を伸ばす。

 手が……手だけが、男を消してしまえば良いのだと、思い至ったようであった。


「違う、駄目だ……私は、何を……」


 呪いの如きそれを慌てて引込め、ふるう足を立ち上がらせる。罪も無い人間をと、うわ言のようにあい滲む口が呟いていた。


 男は何かに気付いたのか、視線を我が後方へと移し、大声で助けを求める。ぞくりと身の毛立つ感覚と共に振り向けば、そこには役人が四人。カンテラで銘々めいめい私の顔を照らし出していた。


「こいつを捕まえてくれ! 人殺しだ!」


 まばゆいそれに目がくらんだせつ、男により羽交はがめにされてしまう。役人へ知らせる為に放った声が、絶望にまみれていた頭へと食い込んだ。


 ――人殺し。


 くちしい程にその言葉は脳内で反芻はんすうされ、簡単に振り解けるはずの男の腕を重く感じさせた。


「リリス! ああ、なんてこと!」


 そして、戸惑う役人の後ろからなり良い婦人が現れ、こちらへ向かい駆けてくる。若きその女性は、少女の面影を強く残していた。


「許して! 髪飾りは見つかったの! リリスは悪くなかったのよ……!」


 全てが遅かったのだと、少女に泣きすがるポリアンダこうしゃく夫人に見当違いな恨みをせる。彼女も、憎しみ宿る眼でこちらを見つめ返し、そして瞬時に驚愕へと塗り変えていった。


「……ル、ナ王女!」

「何だって?」


 耳元で響く、男の声が鬱陶しい。一人、また一人と増えてきた役人も、笛で合図を送っては周囲を取り囲む。

 ……諦めるか。もはや逃げる気力も失せた。いずれにせよ処刑はまぬがれん。この身一つで済むのなら、もう何も――


「吸血鬼か?」


 しかし、全く……予期などしていなかった言葉を役人が吐く。私は何も応えない。否、驚きの余り応えられない。

 この内の何者かに“食らう様”など、見られてはいないはずなのだ。


「数年前……いや、思えば王妃が外出されなくなった時期から、血の無い死体が発見されるようになった。噂では王族が全員、吸血鬼に成り代わったと聞く。姫よ、それはまことなのか!」


 ……。

 否定なら即座に出来たはずであった。しかしふと、忌むべき思惑おもわくが脳裏を掠める。

 確かに、全ての王族が吸血鬼などという事実は無い。だが、もはやれに非ずは父王エルドランただ一人。それすら、証明する事やすくは無い。


 役人は探すはず。確かな証拠を。そして行き着くであろう。憎き怪物に血を変えられ、“同胞”となった母上に。

 マリエ=クア=ダルシュアン。十六でケトネルム王家よりダルシュアンへとつぎ、僅か半月の間に、その身を魔物の毒牙にかけられてしまった。


 以来、悲運の王妃は永久にその姿を留める事となり……あと僅かの月を経れば、私はその母の齢を越える。本来なら四十路になる彼女の齢を。

 数十年も姿変わらぬ王妃が、言い逃れ得ぬ証拠となる事は明白であった。


「……母上」


 ぽつりと呟いたその声は、思うよりも低く、めいりょうに響いていた。

 途端、体中に命令が行き渡るかのような感覚が湧き上がる。いで、羽交い絞めにしてきた男の顔面に自身の後頭部を思い切りつけ、ひるんだ隙に振り解いた。

 取り押さえにやってきた役人共に触れられる直前でちょうやくし、近くの屋根へと飛び乗る。


「何だあの脚力は……」

「油断するな! 術使いかも知れん!」


 口々に叫び、警笛けいてきが鳴らされる。それに一瞥も与えず、私は駆け出していた。


「逃げる気だ!」

「くっ、姫! その行動は肯定と取るぞ!」


 この場に留める口実か、役人が悔しそうに吐く。それにすら耳を貸さず、屋根伝いを跳び、王宮へと急いだ。

 今は何より危険に晒されてしまった母の元へ、一刻も早く向かう事が先決であった。



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