第3話
研究室の中で、年老いた製薬開発者が頭をかかえ、呻いていた。
「うーむ、なぜどの薬も効かないんだ! たった1ミリの変化もないとは!」
何百回投与しても、マウスから取り出された細胞に変化は見られない。彼が抗ウイルス薬を開発し続けて1年経つが、研究室から生還した実験用のネズミはこれぽっちもいない。つまりまだ何の成果も得られていないということだった。
「ひゅう、これだけ試しても駄目だなんて、お手上げですね」
後輩の研究者が顕微鏡から目を外し、降参のポーズを取った。
「これまで万能と言われてきた、我社の秘蔵っ子をこれだけ試しても、まったく歯が立たないとはなあ」
「きみ、私の開発した抗ウィルス薬『カイエタナビル』をポンコツ扱いしないでくれ!」
年老いた研究者は憤慨した。
「でもデータが全てですから。他にまだ改良の余地があるというんですか?」
最近の若い者はおべっかも、にべもない。
老研究者は徹夜でしばしばする目を擦った。長椅子に腰掛け、その勢いで建材むき出しの天井を仰いだ。
世界に新種のウィルスが蔓延してはや2年。この厄介者は浅く広くが特徴で、ほとんどの人間に無害な毒素と、強烈な感染力を備えていた。
この『ほとんどの』が厄介なのだ。『ある種の人間には致命的な殺傷力を持つこと』が、このウィルスの最大の武器でもあった。
このまま人類は対抗するすべもなく、正体不明の目に見えない存在に消されてしまうのだろうか?
「ようし、今日は先生のおごりだ!」
「「キャー!!」」
研究室の重い雰囲気をかき消す黄色い歓声が、廊下から聞こえてきた。
どうやら近くの研究グループの若いチームと助手たちらしい。向こうのチームには女性が多かった。
一瞬同僚が羨ましそうな顔をしたのを老研究者は見逃さなかった。
「きみも安っぽい風邪薬を作るチームに行きたいかね。推薦状なら書いてやるぞ」
「や、やだな! 何を言ってるんですか!」
彼は気まずい顔で咳払いをした。必死に取り繕う。
「なんですかね、あいつら……まるで新薬でも発見した
「いま、なんて言った?」
「え?」
彼は教授の瞳にある、異様な光を見て驚いた。
「新薬でも? 新薬……そうか……そうだったのか! 私は間違っていた!」
老研究者は立ち上がり、震える手を伸ばして机に向かった。マウスを何回かクリックすると、薬の設計図ともいえる六角形を組み合わせた化学式が画面一杯に映し出される。
「ああ!」
老研究者は声を震わせた。もうとっくに記憶しているはずの我が子たち、それが今は別物のように感じられたからだ。彼は目をしばたかせた。見間違いではない。特定の部分の記号だけが色づいている……早く解へ導いてくれと手招きしているように思えた。
「見える……見えるぞ。あそこと、あそこ、それにこっちも! 余分な物を極限まで削ぎ落とせば、新しい構造が浮かび上がって来るじゃないか!」
「あの……どういう意味ですか?」
「『カイエタナビル』の成功が眩しすぎて、私は自分が発見した薬を改良することだけに、この2年を費やしてしまった。そのアプローチがそもそもの間違いなのだよ。最初からまったく新しい種類の薬を作り出す、それが正解だったのだ!」
老研究者は同僚の存在も忘れ、未来の発見を予見して恍惚の笑みを浮かべた。
「はっきりと見えるぞ! われわれを希望へと導く、新薬への階段が!」
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