恋愛針筵 篇

~朝~

 朝5時。

 立神家、寺院。


 緑色の火が猛々たけだけしく燃え上がる祭壇さいだんの前で夜通し座り、火守りの経を唱えていた立神かすみと銀次ぎんじは、その場で仰向けにひっくり返った。


「終わり、ましたね」


 かすみの紺色の和装わそうは汗でびしょ濡れになり、その色合いは黒に近くなってしまった。肩からうっすらとき出た〝塩〟が、かすみがながした汗の量を物語る。脱水状態だっすいじょうたいなのは間違いなく、給水きゅうすいをしたいが、それすらもめんどくさいと思うほど、全身に力が入らない。


「秋はいったい、何と闘かったんじゃ」

「長い闘いでした…」

「一回、終わったよな…」

「終わってから、急に火が揺れて…、それからが長かった」

「ありゃ、悪魔と闘ったわけでは、ないかも知れんの…」

「悪魔以外の悪魔?」

「〝災魔さいま〟やもしれん…」

「さいま…?」

「となると、白魔はくまが出おったか」

「そんな…、何百年も前にほろんだはずでは…」


しゅうがここまで手こずるなら十分じゅうぶんにありうる、それにの…」銀次は小さな身体をヒョイッと起こし、わしゃわしゃと両手で毛繕けづくろいをした。「血が騒いで仕方ないのじゃ。わしの化石みたいに凝り固まった、悪魔祓いの血がの」


 かすみも、なんとか身体を起こした。今は坊主頭ぼうずあたまだが、以前のように長い髪の毛がもし生えていたらしていそうなほどにの抜けた顔をしている。「かすみや」銀次が至って真面目まじめなトーンで話しかける。


「…はい」

くらの鍵はもっとるな?」

「はい、金庫の中にあります」

「いよいよ〝アレ〟をしゅうに見せる時かもしれん」

「アレと言うと?」


 銀次は、祭壇さいだんともる緑色の炎を見上げた。


刀闘記とうとうきを。秋に見せる時が来たやもしれん」


 かすみの顔つきが変わった。全てをさっしたような、何かを覚悟したような顔。あえて今はそれ以上いじょう銀次ぎんじに深くたずねようとはしなかった。


「ひとまず、お水を飲んで、お風呂に入らないと…」

「じゃの。さすがにわしも、がきみたいになってしまうて」

しゅう怪我けがしてますよね、きっと」

「いや、なおったよ」


 まるで自分の事のように銀次は言う。

 

「なぜ、おわかりになるのですか?」

「一回、ものすごく体が軽くなった瞬間があったじゃろ?」

「あぁ…、そういえば…」

「その時に秋の傷もえたのでしょうか?」

「じゃと思う。なーんじゃ、いろいろ出てきおったのぉぉ」

「いろいろ…」

白魔はくまに、災魔さいまに、巫女みこさんも——か」

「巫女? 何だか、あたまがグルグルしてきました…」

「それはアレじゃよ、ただの脱水症状だっすいしょうじょうじゃよ。はよ、水を飲め」

「そう…ですね、そう、します…うぅ」


 銀次は目を閉じて仏のような顔をした。この顔の時は大概たいがい、人生訓的を語り出し、しかもその話が長いので、かすみはいつも——あ、お洗濯が…、と言って逃げるのだが今は脱水で意識すら失いそうなので、銀次が語り出す予兆——その仕草に全く気づいていない。


「あまり硬く考えんでもいい。こっちの心をやわらかく構えておれば硬いもんがぶつかってきても大丈夫じゃて。逆にの、こっちがイライラのカチカチに構えとると、かたいもんがぶつかった途端とたんに心が割れてしまう。しんどいと思う時こそ、深く、ゆっくりいきを吸って、ゆるーく構えとるんじゃよ。そんでの、昔の偉人に——」


 ハムスターサイズの座布団ざぶとんの上で、銀次ぎんじがしんみりと長話を始めた。かすみは、なんとか立ち上がり、その場でよろめく。銀次の話を無視するつもりは無いが、聴く余裕も無い。


「は、はいぃ。今、お水を…、かぶり…ます」

「かぶるんじゃなくて、まずは飲むんじゃよ」

「はいぃ——…」かすみはフラフラと台所へ向かった。

「あんだけやわらかけりゃ、何がぶつかっても大丈夫じゃの……」


 軟体生物なんたいせいぶつみたいに歩くその背中をみた銀次ぎんじは優しい顔をして独り言をこぼした。——寺院の中に朝陽がし込んだ。涼しげでしっとりした夏の朝風あさかぜが、颯爽さっそうと寺の中をとおり抜ける。ジリジリと鳴くセミと、軽快な歌を口ずさむスズメ達の合唱がっしょうが、銀次の小さくて、ぴんと立った耳に優しくひびいた——。


    *


 その頃——しゅうみおは、須賀すがの車に運ばれていた。助手席じょしゅせきには澪が座り、後部座席こうぶざせきの真ん中に秋が座っている。


「あの、すいませんでした」澪は横を向き、運転する須賀に話しかけた。「スクーター、学校に置いてきちゃって…」


 澪が小学校に駆けつけた時に乗っていたスクーターは、警察けいさつがトラックを手配し、澪の自宅に運ぶながれになった。「つかれているだろうから、なんもかんがえずに俺の車に乗って帰ったらいい」——そう言った須賀すが配慮はいりょだった。


「俺たちみたいなもんは悪魔にからんだことになると〝手伝い〟しかできねぇんだ。こんなことしかできなくて、情けねぇくらいだ」そう言いながら一瞬険いっしゅんけわしい顔をした。銃創じゅうそうを負った右肩が痛むようだ。「右肩…大丈夫ですか?」察した澪が、須賀を心配した。


「なぁに、これくらい、刑事デカならに刺されたようなもんだよ」

「あの時、秋の身体をなおしたのは私…なのかな」


 須賀と澪は、緑色の光につつまれたしゅうが、またたに身体を治癒して全快した時を思い出す。


「ありゃ間違まちがいいなく澪さんの能力ちからだと思うんだがな」

「そう…なのかな。確かに、体が勝手に動いたような気も…」

「何か、心当たりはないのか?」

「うーん…、父が鍛冶屋かじやだけど、鍛冶屋かじやの力ではない…はず」


 口籠くちごもる澪に対し——おそらく誰しもが疑問ぎもんに思うだろうことを、須賀はあえて投げてみることにした。


「ちょいと気にさわるかもしれんが、いてもいいか?」

「え? あ、はい」

「おふくろさんの方ってことは…、ないか?」

「……母…かぁ」澪の顔がくもった。

「あ、いや、すまん。いてはいけなかった申し訳ない」

「い、いや、全然大丈夫です、こちらこそ気をつかわせてしまって…」

みおさんが、生まれる前だったか?」

「はい…、私が生まれた後も、母はしばらく家にいましたけど…離婚自体は、私がまだ母のお腹にいるうちに成立してたとか…」

「要さんとは、そのことはあまり話したことはないか?」

「うーん…、深くは知らないんです」

「親としては、子供に余計な心配をかけたくない。だから理由は言わなかったのかもな」

「そうですよね、物心ものごころついてから母がいないのが普通ふつうだったし…、おばぁちゃんが母のわりをしてくれたから。それにしても、なんで私、離婚の理由も知らないんだろ…」


 須賀すがは市街地から山道さんどうに入るカーブをがるため、ハンドルを大きく回しながら「そりゃみおさんが〝いい子〟だったんだよ」と言った。「いい子? そんな、私はダメな子です…」澪は視線を車窓の景色から足元に落とした。


「こらこら、自分をそんな風にいうもんじゃねぇよ。きっと『なんでおかぁさんがいないの!?』って、かなめさんにめたりしなかったんじゃないか?」


 みおは軽く幼少期を振り返った。おさなころのどの場面を思い返しても、祖父そふ怒鳴どなられる要の姿ばかりが浮ぶ。「お父さんは、おじいちゃん——鍛冶屋かじや師匠ししょうに、怒られてばっかりでした」澪は再び、視線を車窓に向ける。「そうか——」須賀は軽く座り直し、運転姿勢を正した。


「おじいちゃん体が悪くて、余命よめいも少なくて、限られた時間——命で、自分の技術を全て、たたむようにお父さんのこと毎日怒鳴まいにちどなってました」

「そいつぁ、過酷かこくだったろうな」

「おじいちゃんは血を吐いていたし、お父さんは火傷やけどだらけ…。子供ながらに、これはただ事じゃないって、思った記憶があります」

「死ぬ気で教える師匠に、かなめさんも、死ぬ気で応えたんだなぁ…」


 澪はふとサイドミラーをのぞき込んだ。刀を抱っこして、すわりながら頭を垂れて寝息ねいきを立てるしゅうの姿がうつった。「寝てるか?」須賀が澪にいた。「はい、ぐっすり…」バックミラーしにしゅうをみる須賀は、頑張がんばったな…、と言いたげに微笑ほほえんだ。


「あ、あの…、いてもいいですか?」

「お? なんだ? おっさんに分かることなら、なんでも訊いてくれ」

「え、えっと…」


 須賀を人生の先輩と見込みこんで、澪は相談そうだんをしてみることに決めた。「と、東子とうこさんは、しゅうのこと、本当に好きだと思いますか?」澪がもじもじとずかしそうに声をしぼり出すと、須賀は真面目まじめな顔つきになった。ここは真剣にしっかりと相談にのらなくては——おとこすたる。


「可能性はあるな。だが、あの子はどこまでが冗談じょうだんなのか、わからん」

「私には『そんな気は無い』と言いました。でも、かえぎわのアレはなんですか…っ。もう…、よくわからない」


 みおは口をむすんで不機嫌な顔になった。東子とうこのセリフ、「結婚けっこんしたいくらい好きな人をうしなったら、私まで白魔はくまになってしまいそうだもの」が、否が応にも脳内にこだまする。その声をかき消すように、須賀すがの声が澪の鼓膜を揺らす——。


「澪さんは、澪さんで、東子さんがどう思おうかかまわずにすすんだら、いいんじゃねぇか…?」

「私には…、何も無い、何もできない」


 東子とうこのような悪魔祓いでも、鍛冶屋をいでいるわけでも、秋と結婚をして火守ひもびとになる予定があるわけでも無い。しゅうの幼なじみで、父が鍛冶屋と言う接点せってんがしか無いことを、澪はコンプレックスに思っている。


「何にも無いなんて言うんじゃねぇよ。あるじゃねぇか。誰よりも負けないもんが、澪さんの中に、ちゃんとあるだろ?」


 頭の上にハテナを作って澪はなやんだ。ピンとこない。須賀はバックミラーを見た。しゅうが寝ているのを確認かくにんしてから、「秋を好きだって気持ちなら誰にも負けないって、言えるだろ? 言えねぇのか?」——少し強めに言った。澪は気づかされたようにハッ…と顔をあげた。

 

 東子よりも秋の事を知っている。

 東子よりも秋の近くにいた。

 東子よりも秋のことが、好きだって言える。

 好きだって言ってやる!


 澪の胸は——漠然ばくぜんとした不安ふあんかかえながらも、少し軽くなった。しかし、その〝漠然とした不安〟の正体が、この車内で今すぐに明らかになるとは、思わなかった。


「だがな…、おれぁ東子とうこさんよりも恋の障害になりかねないのは——秋、自身だと思うんだがな…」

しゅう、自身?」


「あぁ。俺もそんなに恋愛だのにくわしいつもりぁ無いんだが、秋ほど〝鈍感どんかん〟な男は、半世紀近はんせいきちかく生きちゃいるが見た事がねぇ」須賀の言葉に、澪はそうだった…、と思った。時間が停止したように可愛らしい表情がかたまってしまう。「秋は悪魔のことになると、えらく敏感びんかんなんだ。バイクの悪魔とやりあった時も、そいつの感情か何かをさっしたのか、何度も刀が止まる事があった。その後、無人駅むじんえきにいる悪魔をだいぶ遠くから察したりもした」


「私も、縁側えんがわで寝ている秋が、何を言っても起きない事がありましたけど、『悪魔よ!』って、わざとらしく騒ぐまで全く起きませんでした…、起きる気配もありませんでした」澪も〝悪魔に関しては敏感〟ということにかんしてはかなり心当たりがあった。「——んは!?」後部座席のしゅうが一瞬だけおきた。少し周りを見渡みわたしてから、またすぐ——寝た。澪はサイドミラーをのぞき込み、「こんな感じに…」と小声で言ってから苦笑にがわらいをした。


「それでだ、秋は悪魔そっち神経しんけいとがらせている分、恋愛あっちの方の神経しんけいが、すっぽり抜けちまってるんだと思うんだ」


 サイドミラー越しに、みお半目はんめしゅうを見て、おそるおそる「ま、まさか、男の方が好きなんて、無いですよね」と須賀に尋ねる。須賀すがは少し考えてから、核心かくしんに満ちた声で「それは無いな」とこたえた。


「言い切れます?」

「多分、だが、無い。しゅうが5歳くらいの時だったか。保育園の先生にやたら求婚きゅうこんしてこまるって、しゅうのオヤジさんが言ってたからな」

「え、想像つかない」

「もし、そっちのがあるなら、女の先生にれたりしねぇとは、思うんだが」

「やっぱり7歳頃をさかいに、しゅうの内面に変化があったんですよね、きっと」

「秋自身、子供の頃から人間不信にんげんふしんだったしな。恋愛こいだなんだって考える余裕よゆうも無いくらいに、悪魔あくまかたなの事、考えて生きてきたんだろう。実際、中学生の頃には既に立派な悪魔祓いだったからな」


 とてつもなく高い山に登ろうとしているような——何万キロもあるマラソンのスタート地点に、たった一人でポツンと立たされたような感覚かんかくが澪を襲った。気が遠くなった。秋と結婚など一生無理なんじゃないかと思った。


「……ん?…おっさん、ここ、どこ?」


 しゅうが起きた。みお須賀すがは、んんっ!と、のどを整える。「お、おう、秋、起きたのか。もうすぐ澪さんち、着くぞ」須賀が軽い気の動転どうてんを交えながら言ったが、秋の耳に須賀の声が入っていないのか、秋は、ぼーっと車窓の景色を眺めている。澪が後部座席こうぶざせきに振り向き、「秋、体は? なんともない?」と話しかけた。


「ん? あぁ、なんともない」

「そ、そう? なら、よかった」


 澪は少し顔をあからめて、前を向き直す。すぐさま、「あ、澪、ありがと。助かったよ」と秋がさらっと言った。こーゆうさらっとしたとこがあるんだよなぁ…! と思いながら、須賀が苦めに笑って歯を見せる。「え、あ、うん。なにゃり、何にもしてない、です、けど、ど、どうも——」ドキッとしたのか、澪は明らかに動揺どうようした。車は澪の自宅に近づいた。するとしゅうが、とある事を思い出した。


「あ、そう言えば澪、あれ決めたのか?」

「あれ…、って?」


 しゅうはいたって普通に。

 日常会話の延長で。

 今日は天気がいいね、くらいの感覚かんかくで——


「ほら、婿むこに鍛冶屋にいでもらうって話。要さんだって弟子でしができたら嬉しいだろうし、澪も鍛冶屋かじやに乗り気じゃ無いなら、それが一番いいんじゃないか?」


 しん…としずまり返る車内しゃない。このバカ…! と言いたげに須賀は顔を潰した。泣きそうな顔になり、先ほどの嬉しくて赤くなった顔とは真逆に、いきどおりに震えて澪の顔は赤くなる——そして勢いよく後部座席を振り向いた。「ん?」秋は至って普通の顔で澪を見る。


しゅうのばかばかばかぁぁぁっ!」


 澪はおこりながら秋のふとももをベシベシと叩いた。「いってっ!なんだよ急に!」「うるさい!ばか!しらないっ!」ぷん! と前を向き直す澪。「なんなんだよ……」秋は短パンをめくって赤くなった太ももを診た。もし今、二人きりだったら間違いなくただの喧嘩に終わり、険悪なムードは避けられないが、須賀の暖かい笑い声が車内の空気をなごましてくれた。


しゅう、お前…、剣術以外けんじゅついがい勉強べんきょうしないと、だな」

「秋なんか、東子さんの家でイチャイチャしてればいいんだよ!」


 澪の売り文句もんくを聞いた秋の顔面が突然蒼白とつぜんそうはくした。「あ、そうだ……。行かなきゃいけないんだ。めんどくさい…」秋はけたアイスみたいに脱力だつりょくしてしまう。眉間みけんにシワを寄せながら澪は須賀の方を見た。須賀も険しい顔をしている。二人は、暗黙あんもくで同じことを思った。


(まずこの男の社会性しゃかいせいの部分を育てないと…、恋愛れんあいどころじゃないぞ…こりゃ)


 澪の気が更に遠くなった。まいったな…、そう思った須賀の顔は苦笑にがわらいをしっぱなしだったので、表情筋が疲れてきた。謎の疲労感を抱えた二人——その背中に向かって、秋が言ったひと言は爆弾バクダンみたいだった。


「澪、学校に好きな奴とか、いないのか? 俺は学校とか嫌いだけど…、澪はちゃんと通ってるのに彼氏いたとか聞いた事ないな……お前、モテないのか?」


 須賀は、お前のことがずっと好きなんだろー! この鈍感爆弾男どんかんばくだんおとこがー! と思い、そして、爆弾バクダン投下とうかした秋の太ももが更に真っ赤になったことは、言うまでもないことであった。


「いってぇっ!」「ばか! 知らない!」




 刀闘記


 ~朝~

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