~爪~
かすみは座布団に正座をし、祭壇の上でゆれる緑色の大きな火を前に、火守りの経を唱えていた。その
かすみのそばに老人ハムスターがひょこっと座る。しばらくして、かすみの経が止まった。
「経をつっかえるなぞ、珍しいのぉ」老人ハムスターが優しく声をかける。
「おじいさん」
「ん?」
「私はどうしても、後悔をぬぐえないのです」
「あの日の事は、わしが悪いんじゃよ。妻の体の事もわからんかった、わしがな」
「いえ……」
かすみは顔を上げた。
「私がもっと早くに、火守りになる覚悟を決めるべきだったのです」
「血縁でない者が火守りになるのは、並ではないよ。わしも、直之も、経は唱えられたしの」
「私は、恐かったのです」
「じゃろうの……。それが普通じゃて」
火守り人になると、その霊力の強さ故か、様々な霊が見えるようになってしまうのだ。
「無理もない」銀次の優しい口調だ。「
ハムスターらしく、両手でわしゃわしゃと
「今は……。後悔はあっても、迷いはありません」
かすみは、火守り人としての覚悟から、自身の頭髪をも
「わかっとるよ。みんな、わかっとる」銀次の言葉に、かすみの涙腺があつくなる。奥歯に力を入れた。目溜まった涙が落ち、若々しい頬に
悪魔祓いが闘っているとき、火守り人の想いはそのまま、緑色の火に大きな力を与える。その力は、遠く離れた悪魔祓いと
「なぁ、かすみや。わしは見たことがないんじゃよ」銀次は、火を見上げて、じっと見つめる。「こんなに大きく、美しく、力強い。立神の火を。わしは、見たことがないんじゃよ……。今、花山峠で闘う秋に、お前の想いと力はしっかりと届いておるよ。大丈夫じゃて」
かすみは、顔を上げる。経を唱え直した。
緑色の火は力強く、暖かい光で更に高々と燃え上がった。
*
カズマは、バイクの上で言葉にならない何かを怒鳴りちらす。彼の中では、秋との闘いはすぐに決着するはずだったのだ。かなり苛立っている。
二本の爪をアスファルトに何度も叩きつける。その様はさながら、おもちゃを買ってもらえなかった子供のようだ。ヘルメットはもちろんしていない。頭からは真っ黒な角が二本生えている。レーサーが着るタイツのような服のせいで全身は見えないが、顔色はわかる。うす紫の、いかにも血色悪そうな顔だ。
秋は、相変わらずピンと伸びた背筋を維持し、胸の前で片手の合掌をしている。刀は右手の中に静かに収まり、秋が深呼吸をする度に刀すらも呼吸をしているかと思うほど、秋の周囲だけに落ち着いた空気が漂う。
コロスだの、アアだのと、カズマはでたらめに叫ぶ。アクセルをふかし、緑色のレース用バイクを走らせる。左手の中指と小指から伸びた長刀の様な爪で、もう一度、秋を斬り裂くつもりらしい。一直線に向かってくるバイクの左側では、硬い爪がアスファルトを削って、火花を散らしている。
一度目よりも速い速度。
一度目と全く同じ技。
勢いよく秋に斬りかかる。
二本の爪は空を切った。
今度は、何にも当たらない。
秋は体を横にずらし、その体をバイクから振られた爪よりも低く、身を
勢いあまって秋から離れてしまったバイクは、すぐさま小さい
エンジンを吹かす。
再び秋に向かう。
攻撃は左の爪。
相変わらず、左の爪。
それしかない。
馬鹿の一つ覚えだ。
秋はすでに体を整えている。
右足は少し前屈。
左足を後ろに引く。
刀の切っ先をバイクに向ける。
姿勢良く。
中段の構え。
深呼吸。
カズマの爪を迎え討つように、秋は走り出す。すれちがいざまに左の爪が振られる、そのタイミングに合わせ、右足を蹴り出してスライディング。秋の身体は、低い姿勢のままアスファルトの上を滑る。
アスファルトと秋の間には風の能力により、非常に濃い密度の空気層が生成されている。秋の身体は、アスファルトすれすれを浮いたまま進む。ホバークラフトなどの原理に近い。
そのまま振られた長い爪の下をくぐる。
通り抜けながら。
右手の刀を上方向に振る。
爪を下からこじ開ける。
刀身が当たり、
バイクは大きくバランスを崩した。
長い爪が思わぬ方向にはじかれ、遠心力が生まれる。
車体の制御を失い、カズマはバイクごと転倒。
緑の塗装がアスファルトに削られる。
もバイクと共に仲良く転がる。
カズマは情けない声を漏らしながら、慌ててバイクに近づく。大切なバイクがどれほど傷んでいるのかも確認せず、あたふたとバイクを起こして座り直した。「オリナイ、オリナイ、オリナぃ……」その様は哀れにも見える。カズマは悪霊に取り憑かれているが、同時にバイクにも取り憑かれている。
再びバイクを走らせる。
秋に向かってもう一度。
左手の爪を当てようとする。
それは何度か見た光景だった。
秋は両手で握った刀を足元に向けて下ろす。
切っ先を地面に向ける。
下段の構え。
足は直立。
少し俯く。
『
小さい声で術を唱える。
カズマから見たら、ただ突っ立っているだけだ。すれちがいざまに、再び左の長爪を振る。
秋はその瞬間、左足を一歩引いた。刀の柄を顔より少し上まで持ち上げ、切っ先を真下に向ける。刀身の背中(峰)に左手を添え、横に思い切りふられた爪を、その刃で押し返すように受け止める。金属と金属が
高速で走っていたカズマは、そこに立つ秋の身体にひっかかったようにバランスを崩した。また横転を余儀なくされる。さながら、石の
秋は、素早く駆け寄る。
秋はいない。
何にも当たっていない。
似たような状況をカズマは知っている。
真上を見た。
秋が真上から斬りかかる。慌てて、自身の顔を守るように、左手の爪を持ち上げる。
カズマは右手で拳を作った。
秋の腹を殴ろうとする。
少し後ろに身を引く。
拳を避けてから、爪を思い切り弾く。
巨腕がふわりと浮く。
爪先が天を向く。
よろめく。
横断歩道を渡る子供の挙手のようだ。
無防備、極まりない。
カズマが殴ろうとしてから、ここまで一秒。
「いい子だ」
秋がつぶやく。
軽くジャンプ。
飛びながら刀を横に水平に、
爪に強く斬り当てる。
これで三秒。
混じり気のない、綺麗な
腰が砕け、すくんでいるカズマの
「あと、一本だ」
刀の切っ先を敵に当てたまま、秋は前髪から綺麗な
「オレジャナイ! オレジャ……、ナイ! コロソウトしたのはシンジだッ!」
カズマは、刀に怯えながら汚いよだれを撒き散らし、声を荒げる。
刀闘記
~爪~
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