~爪~


 かすみは座布団に正座をし、祭壇の上でゆれる緑色の大きな火を前に、火守りの経を唱えていた。そのひたいには自然と汗が流れる。それを拭いてくれる人はいない。


 かすみのそばに老人ハムスターがひょこっと座る。しばらくして、かすみの経が止まった。数珠じゅずをからめ、合掌している両手の指先に額を当てるようにして、少しうつむいた。よくみると泣いているようだ。


「経をつっかえるなぞ、珍しいのぉ」老人ハムスターが優しく声をかける。

「おじいさん」

「ん?」

「私はどうしても、後悔をぬぐえないのです」

「あの日の事は、わしが悪いんじゃよ。妻の体の事もわからんかった、わしがな」

「いえ……」


 かすみは顔を上げた。

 祭壇さいだんの火を涙目で見つめている。


「私がもっと早くに、火守りになる覚悟を決めるべきだったのです」

「血縁でない者が火守りになるのは、並ではないよ。わしも、直之も、経は唱えられたしの」

「私は、恐かったのです」

「じゃろうの……。それが普通じゃて」


 火守り人になると、その霊力の強さ故か、様々な霊が見えるようになってしまうのだ。霊力れいりょく覚醒かくせいを恐れ、火守り人を継承けいしょうすること自体をためらう悪魔祓いの妻がいる。それは、かすみのみならず、日本の各地でよく耳にする話だった。


「無理もない」銀次の優しい口調だ。「悪霊あくりょうやら、霊魂れいこんやら、地縛霊じばくれいやら。見えるようになるのは誰だってこわいと思うよ」


 ハムスターらしく、両手でわしゃわしゃと毛繕けづくろいをした。


「今は……。後悔はあっても、迷いはありません」


 かすみは、火守り人としての覚悟から、自身の頭髪をもり上げ、神事に身をささげることを誓った。


「わかっとるよ。みんな、わかっとる」銀次の言葉に、かすみの涙腺があつくなる。奥歯に力を入れた。目溜まった涙が落ち、若々しい頬にせんを描く。「秋が一番、わかっとる」


 悪魔祓いが闘っているとき、火守り人の想いはそのまま、緑色の火に大きな力を与える。その力は、遠く離れた悪魔祓いと疎通そつうし、悪魔と闘う者をより強くする。


「なぁ、かすみや。わしは見たことがないんじゃよ」銀次は、火を見上げて、じっと見つめる。「こんなに大きく、美しく、力強い。立神の火を。わしは、見たことがないんじゃよ……。今、花山峠で闘う秋に、お前の想いと力はしっかりと届いておるよ。大丈夫じゃて」


 かすみは、顔を上げる。経を唱え直した。

 緑色の火は力強く、暖かい光で更に高々と燃え上がった。


    *

 

 カズマは、バイクの上で言葉にならない何かを怒鳴りちらす。彼の中では、秋との闘いはすぐに決着するはずだったのだ。かなり苛立っている。


 二本の爪をアスファルトに何度も叩きつける。その様はさながら、おもちゃを買ってもらえなかった子供のようだ。ヘルメットはもちろんしていない。頭からは真っ黒な角が二本生えている。レーサーが着るタイツのような服のせいで全身は見えないが、顔色はわかる。うす紫の、いかにも血色悪そうな顔だ。


 秋は、相変わらずピンと伸びた背筋を維持し、胸の前で片手の合掌をしている。刀は右手の中に静かに収まり、秋が深呼吸をする度に刀すらも呼吸をしているかと思うほど、秋の周囲だけに落ち着いた空気が漂う。


 コロスだの、アアだのと、カズマはでたらめに叫ぶ。アクセルをふかし、緑色のレース用バイクを走らせる。左手の中指と小指から伸びた長刀の様な爪で、もう一度、秋を斬り裂くつもりらしい。一直線に向かってくるバイクの左側では、硬い爪がアスファルトを削って、火花を散らしている。


 一度目よりも速い速度。

 一度目と全く同じ技。

 勢いよく秋に斬りかかる。

 二本の爪は空を切った。

 今度は、何にも当たらない。


 秋は体を横にずらし、その体をバイクから振られた爪よりも低く、身をかがませた。秋のアゴが地面につきそうになった。かなり柔軟じゅうなん関節かんせつをもっていないと、成せない姿勢だ。


 勢いあまって秋から離れてしまったバイクは、すぐさま小さい半径はんけい旋回せんかいをする。片足を地面につけて、体勢を立て直す。もう一度斬りかかるつもりだ。


 エンジンを吹かす。

 再び秋に向かう。

 攻撃は左の爪。

 相変わらず、左の爪。

 それしかない。

 馬鹿の一つ覚えだ。

 秋はすでに体を整えている。

 右足は少し前屈。 

 左足を後ろに引く。

 刀の切っ先をバイクに向ける。

 姿勢良く。

 中段の構え。

 深呼吸。

 

 カズマの爪を迎え討つように、秋は走り出す。すれちがいざまに左の爪が振られる、そのタイミングに合わせ、右足を蹴り出してスライディング。秋の身体は、低い姿勢のままアスファルトの上を滑る。


 アスファルトと秋の間には風の能力により、非常に濃い密度の空気層が生成されている。秋の身体は、アスファルトすれすれを浮いたまま進む。ホバークラフトなどの原理に近い。


 そのまま振られた長い爪の下をくぐる。

 通り抜けながら。

 右手の刀を上方向に振る。

 爪を下からこじ開ける。

 刀身が当たり、

 バイクは大きくバランスを崩した。

 長い爪が思わぬ方向にはじかれ、遠心力が生まれる。

 車体の制御を失い、カズマはバイクごと転倒。

 緑の塗装がアスファルトに削られる。

 もバイクと共に仲良く転がる。


 カズマは情けない声を漏らしながら、慌ててバイクに近づく。大切なバイクがどれほど傷んでいるのかも確認せず、あたふたとバイクを起こして座り直した。「オリナイ、オリナイ、オリナぃ……」その様は哀れにも見える。カズマは悪霊に取り憑かれているが、同時にバイクにも取り憑かれている。

 

 再びバイクを走らせる。

 秋に向かってもう一度。

 左手の爪を当てようとする。

 それは何度か見た光景だった。

 秋は両手で握った刀を足元に向けて下ろす。

 切っ先を地面に向ける。

 下段の構え。

 足は直立。

 少し俯く。


重根花じゅうこんか


 小さい声で術を唱える。


 カズマから見たら、ただ突っ立っているだけだ。すれちがいざまに、再び左の長爪を振る。


 秋はその瞬間、左足を一歩引いた。刀の柄を顔より少し上まで持ち上げ、切っ先を真下に向ける。刀身の背中(峰)に左手を添え、横に思い切りふられた爪を、その刃で押し返すように受け止める。金属と金属がけずり合うような音が鳴った。


 高速で走っていたカズマは、そこに立つ秋の身体にひっかかったようにバランスを崩した。また横転を余儀なくされる。さながら、石の大木たいぼくでも斬ろうとしたようだった。相手は、身体の線がほそいただの高校生なのに。


 秋は、素早く駆け寄る。追撃ついげきをしてくるのを悟ったカズマは、尻餅しりもちをついたままだ。近くで横転しているバイクを右手でどこともなく握り、その怪力でバイクを投げつける。バイクは地面すれすれを舐めるように飛んだ。ただ単に飛んで、ただ単に転がった。

 

 秋はいない。

 何にも当たっていない。

 似たような状況をカズマは知っている。

 真上を見た。

 

 秋が真上から斬りかかる。慌てて、自身の顔を守るように、左手の爪を持ち上げる。たよりなく座り込むカズマの爪に、上から覆いかぶさるように刀を当ててられる。秋は柄を握りしめ、強く押し付ける。爪と刀との鍔迫つばぜり合いが生じた。


 カズマは右手で拳を作った。

 秋の腹を殴ろうとする。

 少し後ろに身を引く。

 拳を避けてから、爪を思い切り弾く。

 巨腕がふわりと浮く。

 爪先が天を向く。

 よろめく。

 横断歩道を渡る子供の挙手のようだ。

 無防備、極まりない。

 カズマが殴ろうとしてから、ここまで一秒。

 

「いい子だ」


 秋がつぶやく。

 軽くジャンプ。

 飛びながら刀を横に水平に、

 爪に強く斬り当てる。

 これで三秒。

 

 混じり気のない、綺麗な剣戟けんげきの音と共に悪魔の自慢の長爪はまた折れた。折れた爪は宙を舞う。そのまま、秋から少し離れたアスファルトに突き刺さる。ただの棒っきれのように。


 腰が砕け、すくんでいるカズマのあごに、ひやりと冷たい物が当たった。


「あと、一本だ」


 刀の切っ先を敵に当てたまま、秋は前髪から綺麗な瑠璃色るりいろ片瞳かためを覗かせる。


「オレジャナイ! オレジャ……、ナイ! コロソウトしたのはシンジだッ!」

 

 カズマは、刀に怯えながら汚いよだれを撒き散らし、声を荒げる。




 刀闘記


 ~爪~





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