第19話 ごみ拾い
「今日の連絡事項は―――まず、放課後に学校周辺のごみ拾いがあります。学級委員として蓮田が参加する予定だけど、できればクラスから何人か出してほしいそうです。それから」
朝のホームルームが淡々と続いている。担任の葛西さんが事務的に連絡事項を伝え、クラス員たちはそれを欠伸を噛み殺しながら聞いている。中には机の下でスマホをいじっている強者もいた。
今日は珍しく雨が降っていない。太陽の明るさも少しではあるが感じられた。だけど、厚い雲が空を覆い尽くしていて、未だにしっかりと日の光が見えずにいる。
目の前には、金森君の背中が見える。いつものように、先生が話をしている最中に足や指先を動かしたりどこかをコツコツ叩いていたりする。
前までは最低でも挨拶くらいはしていたのだけど、あの一件以来一切話をしなくなった。当然、僕の記入済み宿題の無心をすることもない。
僕も何か動かないと駄目なんだろうか―――そういう得体の知れない焦りのようなものが仄かを沸き立った。
話を聞いていると、突然教室の前方のドアが開いた。
「朝礼中すみません、葛西先生ちょっと」
ドアの間から顔を覗かせていたのは、学年主任教諭の児玉先生だった。いつもは厳しくも明るいおばさんという印象だが、今日は少しだけ表情が固い。
「みんな、すまん。ちょっと待っててな」
葛西先生は眼前で片方の手をかざして朝礼中断の意を告げ、児玉先生とひそひそ話を始めた。
一体何事だろうか―――クラスの中が少しだけざわめく中、葛西先生が驚いたような表情で呟いた言葉が耳に入った。
「え・・・井原先生が?!―――はい、今日はお休みですか。分かりました―――生徒たちにはそのように伝えておきます」
僕は体育館ステージの縁に腰を下ろし、欠伸を一つした。昨晩もまた、例の悪夢にうなされていたらしい。今日の夢のお題目がどんなだったかは思い出せないけど、それで夜半に目を覚ますくらいに酷いものだったということは分かる。そのせいか、このところ若干睡眠不足だ。
今は体育の時間だ。男子側はバレーボールで、事務的に割り振られたチームでローテーションを組み、交流戦をしている。本当は僕らの体育の教師はあの井原先生なのだけど、朝に急にお休みすると告げられ、他学年の体育担当教師が活発に動き回る生徒たちに目を配っていた。
クラスの運動好きな連中はそれぞれのチーム内で必勝を旗印に気炎を上げている。でも、僕はそんなに運動が得意な方ではないし、闘争心も無いので、あまり熱意もない。
ぼんやりとした意識の外で、バレーボールが弾むゴム質の音、そしてクラスの男子たちが囃し立てる声が混じり合い、高校生に相応しい溌剌とした空気を引き立てていた。
前であれば、暇を持て余した楠木や上村が下僕を引き連れてきては何かしらちょっかいを掛けていくのだが、二人が不在の学校は平和そのものだった。二人のその後についてはーーーまあ噂レベルではどうも二人とも今はおとなしくしているらしいということは耳に入って入るがーーーよく知らない。あまり興味もない。だけど、結果として学校の雰囲気が良くなるなら万々歳だ。
僕がぼーっとしてボールの撃ち合いをしているのを見ていたら、隣に誰かが来た気配がした。
「酒匂君、今休憩中?」
遠ざけられた僕の横へ誰かが来ることがそもそも稀なことだ。そして親しげな声音で僕に話しかけてくる女子は思いつく限り一人しかいない。
「蓮田さん。そうだよ、さっきまでずっと出ずっぱりだったけど、今はお休み」
「私も今は休憩中。他の子たちにバド教えてたら何だか疲れちゃって」
そういえば蓮田さんはバドミントン部所属だったな―――髪を束ねて露わになったおでこを手の甲で撫ぜる彼女を見て、思い出した。
蓮田さんは多量の運動をしたからか、シャツの短い袖を肩の辺りまで捲くり上げている。真っ白な肌が見えて、僕は少しどきっとした。
いつもは頭脳明晰ぶりを発揮してやまない蓮田さんだが、今は運動部らしい溌剌さも垣間見える。こういうのを文武両道というのだな、と思った。
「へえ、男子はバレーボールかぁ。楽しそうだね」
蓮田さんはにこにこした顔を崩さず、両コートのボールの行方を追っている。互いに声を掛け合い、プレイしている連中は確かに楽しげな雰囲気だ。
だけど、僕なんかはスポーツそのものにあまり関心が無いから何とも思わなかった。
「・・・僕は別に」
「えー、バレーボールなんて間違いなく楽しいじゃん」
「体育の時間が楽しいのは、どんな運動でもそつなくこなせる器用な連中だけさ」
「へえ、ってことは酒匂君は運動得意じゃないんだ」
「まあね」
話をしているうちに、蓮田さんは僕から1メートル程度離れたところで立ち止まり、ステージの垂直部に背中をくっつけて体重を掛けた。どうも休憩中は僕の近くで過ごすらしい。この体育館の中でもっと楽しそうな場所はいくらでもありそうなもんだが、一体どういうつもりなんだろうか。
蓮田さんは少しの間男子のバレーを見て、適当に声を掛けたりしていたが、ほんの少しの空白が生まれた。
「ところで、あれからどうなの?」
「どうって、何が?」
「金森君と仲直り、できたの?」
位置関係的に、蓮田さんは首を捻ってこちらに視線を向けた。
「いや、まだ。あれから全然話してくれなくてさ」
「ええ、まだなの?ちょっとお互いに意地張りすぎじゃないの?」
僕らの険悪なムードが冷戦のごとく尾を引いているのに驚いたのか、蓮田さんは信じられないといった様子で手で口を抑えた。
「う、うるさいな」
「きっと、金森君だってあの日は言い過ぎだと思って、また仲良くしたいと思ってるよ。ただ、なかなかきっかけが無いだけでさ。それだけあなたが大事なんだよきっと」
「うーん、そうかな?」
「そうだよ。だから彼だって、あなたに対してあんなに怒ったんじゃない?普通、どうでも良ければそんなことしないよ、エネルギーの無駄だもん」
無意識のうちに、僕の目は金森君を探す。
視界に彼の姿を認識した時、彼はコートの中にいた。そして試合中にも関わらずこっちを見ていたらしい。僕らは寸分違わぬタイミングと焦点距離でばっちりと目が合った。そして、よそ見をしている彼の横を緩慢な放物線を描いてバレーボールが通り過ぎていくのが見えた。
「へへ、そんな馬鹿な・・・僕なんか―――」
僕はいつものひねくれた感じ自嘲を込めて低調な笑いを放った。これが、僕の本心だった。僕みたいな奴と本気で友達になろうとする奴なんていない。そういうネガティブな感情は僕の人生を成す根幹だ。前もだし、今もだ。
だけど、僕のやや捨鉢な態度は蓮田さんの口を尖らせることになってしまった。
「酒匂君、あなたの悪いところはそうやって真っ先に自己否定するところだよ?人に褒められたり求められたりしたとしても、それを素直に受け入れられないというのは良くないよ。もっと自信を持って」
蓮田さんは文節の度に握り拳を小さく振り、僕を鼓舞した。だけど、その励ましはむしろ僕の屈曲した思いを加速させた。
「自信か・・・僕からは一番遠いところにあるものだな」
「そう、その気持ちは変わらずなのね」
「残念ながらそうだね」
「それは、あなたがMAPだからってことに関係してる?」
蓮田さんは体重を掛けていたステージの縁から体を起き上がらせ、僕に体の前部を向けた。金森君と喧嘩した時に見た優しくも真摯な視線が、僕に突き刺さる。
「まぁね。でも、それだけじゃないんだ」
「ねぇ、それって一体―――」
「陽菜ちゃーん、ちょっといい?」
僕が低調子で受け応えをしている最中、バレーボールのコートを挟んで向こうにいる女子数人が蓮田さんを呼んだ。彼女たちは一様にバドミントンのラケットを手にしているので、恐らく蓮田さんに技術指導を受けたいのだろう。
「はーい!ちょっと待ってー!」
凛と響く声で返事をして、蓮田さんは小走りでそちらへと走っていった。
再び、僕はひとりぼっちになった。
コートでは、男子たちがバレーボールに興じている。両方のチームには皆藤と長嶋というスポーツ大好き男がおり、絶対に勝つぞとメンバーたちに活を入れている。コートの周りには休憩中の生徒
たちが集まってきて、それぞれに声援を送っている。僕も彼らくらい力量や才覚に応じた程度に自分を疑いなく信用できればな・・・屈託ない笑顔でゴムボールを打ち合う彼らを見てそんな偶感が浮かんだ。
結局、その日も蓮田さんから金森君との和解を促されはしたものの、何にも解決しなかった。僕も金森君もお互いに意地を張っていた。彼がここまで強情だと思ってなかった。
何だか疲れたな―――そんな気持ちがして、体育終わりの汗と制汗剤の匂いが充満したロッカールームから出た。
「あ!いたいた!酒匂君!」
僕はまたしても蓮田さんに呼び止められた。
声のする方を向くと、そこには蓮田さんがいた。
「どうしたの?」
「さっき言い忘れたんだけど、今日の放課後って空いてる?」
「え?まあ少しくらいなら」
僕はドキッとした。
絶対にそんなことないとは分かっているのだけど、もしかしてデートでも誘いに来たのだろうか。そんな馬鹿なことを考えてしまう。
「いやあ、実はね。朝言ってた放課後のごみ拾いなんだけど、さっぱり人が集まらなくってさ。もし時間あるなら協力してくれないかな?」
そういえば、朝に葛西先生からそんな連絡があった気がする。でも、正直面倒だった。
「うーん、でもなぁ」
「おねがーい!私を助けると思って、協力してくれないかな?ね?」
目の前の女子は、悪戯っぽい笑顔でばちんと両の掌を重ね合わせた。それを見て、何だか分からないけどはっとした。面倒だけど、断ったらすごく後悔しそうな気がしたのだ。
蓮田さんにはいつも何だかんだで気にかけてもらってるしな―――たまには協力するのも悪くはないか。
「うーん、まあ、あんまり遅くならなきゃいいよ」
「ありがとう!じゃあ宜しくね。4時10分に昇降口に集合だからね!私はちょっと部活に連絡してから行くから!」
簡単に連絡事項を告げて、彼女は教室をあとにした。
僕は一旦バッグを机の上に置きっぱなしにし、のろのろと昇降口に向かった。校内は生徒たちが活発に行き交っている。既に部活動のユニフォームを着て用具を運んでいる一団もいる。それに比べると、何だか自分には拠り所がない気がして、急に寂しい気がした。
昇降口に行くと、既に何人か生徒が集まっていた。下校や部活動をする人々の邪魔にならないよう、昇降口の端の方に一団は集まっている。
外靴に履き替えてそこへ近づくと、知らない上級生から用具を取るようにと言われた。見ると、床に直置きされたダンボールに軍手とトングが分別されていくつか入っていた。僕は適当に選び、軍手をはめる。何だか土臭い匂いがした。
取り敢えず、準備はできた。あとは始まるまで待てば良いのだろうか?
そんなことを思っていると、バタバタとした足音が後ろから聞こえてきた。
「すいませーん!僕もごみ拾い参加しまーす」
聞き覚えのある声。
振り返ると、そこには金森君の姿があった。
「さ、酒匂君?!」
「金森君!」
賑々しさが増す昇降口で、僕らは固まった。
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