第18話 灰色の水塊

 深い海底を揺蕩っている―――それだけが理解できた。

 海面に向かって立ち上る水泡が僕の横を通り過ぎていく。上を見上げると、波によって微妙に濃淡を変えながら水面が有機的に蠢いている。

 この世界の色彩は単純そのものだった。黒と白と、その間の色だけだ。だけど、完全な黒も完全な白も、見える範囲には存在しない。ただただ、灰色の濃淡だけが、この死臭のする海底の像を形成していた。

 両手で一掻き、海底に向けて体を推進させる。

 海底は驚くほど綺麗だった。ゴミや漂流物などは微塵もない。その代わり、真っ新な砂地にぽこぽこと大小の凹凸があるのが見えた。

 僕はもっと近づいた。そして、思わず小さく叫び声を上げた。

 大小の凹凸だと思っていたのは、全部水生生物の死骸だった。魚や貝、ヒトデなどがぴくりとも動かず静止し、海の中の泥に降り積もられるがままになっている。最近死骸になった生き物は積み重なる泥も少なくまだ何とか特徴を押さえることができる。だが、随分前に死んだと思しき生き物の上には分厚い泥が堆積され、存命中の形状をひどく曖昧化して山を成している。

 海の底に行くにつれて、腐臭が凄まじい。海の中なのに僕は何故か嗅覚を感じ、鼻を捩らせた。先程の生物の死骸からは、時折ポコポコと小さな泡が浮かび上がってくるのが見える。恐らく、あれは死体から生成されるメタンガスか何かなのだろう。それであればこの激臭にも得心がいった。

 

 ふと、海のずっと向こう側を見た。

 はるか遠くには、真っ青な海が広がっている。そこには鮮やかな熱帯魚や、イルカやウミガメなどの大型の水生生物が悠々と泳いでいる。それだけではなく、海底に広がるサンゴ礁は、自然ではなかなか見られない明るい色合いで海を彩っている。ここに比べると楽園のように思えた。


 よし、僕もあそこに行こう―――先程と同じように、僕はまた両手で一掻きした。

 だが、推進力を得た体は見えない何かにぶつかった。もろに頭をぶつけたので、くらくらと眩暈がした。そこは色の無い世界と色のある世界のちょうど狭間だった。その変遷はあまりにも明確で、まるで液晶画面の隣り合う素子のようにまったく違う色合いだった。

 見えない透明な何かがあると思える位置に、両手を突き出してみた。すると、手の先からは確かに何かの感触が伝わってきた。それは冬の日の硝子のようにひんやりとしていた。どこかに抜け穴があるのではないかと海底の上下左右に体を動かして手を突き出してみたのだが、穴らしきものはどこにも認められなかった。

 見えないゆえに断定はできないが、この見えないガラスのようなものは、僕がいる海底のはるか上方と見えないほど遠方の左右方向に隙間なく伸びているらしい。


 僕は見えない何かに体を寄せて、握り拳でそれを何度か叩いた。低く短い音が、灰色の水を震わせた。だけど、幾度かの打撃だけでは僕を阻んでいる何かを打ち壊すには至らなかった。僕が行き方も分からず、理由も分からずに立ち入れない向こう側には、なおも僕を幻惑して止まない真っ青で透き通った世界が広がっている。

―――僕はどうしても、あそこには行けないのだろうか?

 悔しさのあまりに喉の奥から潰れた声が流れ出てきた。あちらの世界のことはわからない。だけど、こんな死骸だらけで臭いもきつい澱んだ海の底よりは、よっぽどいい環境だということだけはわかる。心の中ではあそこへ行きたいと思っているのに、僕にはどうしてもこの見えない壁のような何かを通り抜ける術が分からないのだ。


 そのうち、息が苦しくなってきた。思わず開いた口から、無数の水泡が吹き出し、水面へと上っていく。半乱狂になってじたばたもがいてみるけれど、それはまったくの無意味だった。だんだんと、灰色の海が、その向こう側の真っ青な世界の区別無く、視界がぼやけていく―――。



「うわぁっ!」

 僕は自分が発した大声で目を覚ました。

 そこは海の底などではなかった。いつも僕が寝て起きて日々を過ごしている僕の部屋だ。今何時なのかは分からないが、まだ深夜か早朝であることには間違いない。部屋の中はのっぺりとした黒で覆われている。

 あれは夢だったのか―――僕は掌でごしごしと自分の目を擦って、髪をばさばさと掻いた。まだ少しだけ、自分の息が荒いのがわかった。

 部屋の空気はほんの少し蒸し暑さが感じられたが、換気のためにわずかに開けていた窓からはひんやりとした風が流れ込んできて心地よい。外からは、雨が地面を打つ音がかすかに聞こえてきた。どうやらこの夜半も雨が降り続いているらしい。

 

 額に手を当ててみる。微かであるが、少し汗ばんでいる。もしかしたらうなされていたのかもしれない。それにしても、このところこういう感じの夢ばかり見る。

 夢の中の僕はどこか密閉空間に閉じ込められている。外には―――それはさっきみたいな真っ青なきれいな海だったり、夢の中で恋人だと設定づけられた女の子だったりするのだが―――僕がどうしてもたどり着きたいと思う対象がいる。当然のようにそこへ向かおうとするのだけど、どうしても何かに阻まれてそこへ辿り着けない。そのうちに息が苦しくなって、夢の中で死を迎えたところで現実に戻る、というのがお決まりの流れだ。

 何でこういう夢を見るようになったかはわからない。だけど、この前の金森君とのケンカ以降、こういう夢を見ることが多くなった気がする。

 今の夢は、僕の現状を示しているのだろうか。

 僕は魔術という束縛から逃れることができず、自分の思い通りには何も行かず、ただ命のタイムリミットを迎えて、生を終えていく。意識すらしていないところで、僕は強くそれを恐れているのか?


 僕は自己暗示をかけるようにかぶりを振り、ぐちゃぐちゃに乱れた掛け布団や毛布をかき合わせ、その中へ頭の天辺まですっぽりと潜り込んだ。マットレスと毛布の間で、早い呼吸がより騒々しく感じられた。

 そう、今の僕はどうしたって、あの青い海には行けないのだ。レベル5の強大な魔法を内に秘めて、灰色の水塊の中で無様にもがくだけの存在だ。だけど、いつまでもそこにいるわけにはいかない。東雲さんから自分自身を受け入れて自己肯定感を強めるように指示を受けている。僕が進化を遂げるためのグレートフィルターとも言える大きな壁だが、どうであれそれを乗り越えぬ限りは明るい未来は無いのだ。

 このまま夜が空けるまで、どうやって灰色から色のある世界へと脱出できるのか、考えを巡らした。だけど、当たり前のようにそんな答えは出てこなかった。


「うーむ、そうか。それで君は友達とケンカをしてしまったというわけだね」

 何度目かの魔術訓練の時、東雲さんは顎髭をなぞりながら唸った。手には直接経口で水分補給できるタイプの水筒が握られている。

 もう何度目かの来訪となる東雲邸は、初めに訪れた時と何ら変わっていない。北欧を連想させるセンスの良い家具類、巨大なテレビと豪華なホームシアター、木材から放たれる落ち着きをもたらす香りなど、全てが前と同じだった。

 ついでに言えば、窓の外で踊る雨粒も最初に東雲さんと出会った時と一緒だ。もう七月に突入したというのにこのところほぼ毎日雨が降っている。間違いなく、今年の梅雨はここ最近で一番長い。

「その後、金森君が口を聞いてくれなくなってしまって。蓮田さんは―――この子は学級委員で、さっき言った事件の被害者なんですけど―――僕らを取りなしてくれるよう色々とやってくれてるんですけど、梨の礫みたいで」

 近くにあった丸椅子に腰を下ろし、僕は事の顛末を東雲さんに話した。僕の手は、手に持ったスポーツドリンクを無意識のうちにくるくると回していた。そうやって何かで気をまぎらわさなければ、辛さで涙腺が緩みそうだった。

「東雲さん、やっぱり僕はその時に魔術を撃つべきだったんでしょうか?」

「いいや、それは違うよ」

 東雲さんはどこか別の方を見ながら、首を横に降った。

「その蓮田さんという女の子が言った通りだ。安易に魔術を乱用して事態を収めるというやり方は感心できないね。魔術を使わないという君の判断は正しい。きっと、金森君という友人もそれは先刻承知のはずさ」

「―――僕は、彼が何に対して怒りを感じているのか、よくわからないんです。僕が魔術を操る自信が無いから魔術を使えないんだと言っても、そんなことは関係ないとばかりに僕に怒鳴ったんです」

「うーん、そうだね・・・」

 しばしの空隙を会話に挟んだ後、目の前の初老の男性は言葉を繋げた。

「多分、金森君はある種君に対しての羨望があるのだろうね」

「え?」

「MAPである君に対して、ヒーロー像を重ねているのかもしれない。魔術を使ってどんな困難もたちどころに解決する―――そういう幻想を見ているんだとすれば、なるほど彼の感情はわからなくもない」

 確かに、思うところはある。

 ハンバーガーショップで、幼い頃は魔術を使うことに憧れていたと語っていた。そして僕が魔術を使用したことに眉をひそめる者も多いなか、彼は僕の行動を褒めちぎった。

「恐らく、彼は君には魔術を持った強い存在でい続けてほしいと、そう思っていたのだろうね。しかし、その一件で幻想は崩れ、期待は裏切られた。その怒りを、君にぶつけたんだ」

「そんな勝手な!それは彼の一方通行な思い込みじゃないですか」

「そう。まさしくそれは考えの押しつけだ。だけど、見方を変えれば、それだけ君に対して誠実な思いを持っているということでもある」

 あくまで推量に過ぎないけど―――と、東雲さんは末尾に付け加えて謙遜したのだけど、その意見はもっともらしく聞こえた。

 確かに彼は弱い存在かもしれない。学級の中で無視できぬ存在感を放っているわけでもないし、忘れ物や勘違いも多い。学業はまあまあ良いはずだが、それが強みだと喧伝するには心許ないと言わざるを得ない。でも、僕はそれでもいつも笑顔で明るい金森君の振る舞いは素晴らしいと思っていた。

 だけど、彼は彼で心のどこかで理想とは違う自分に一抹の苦悩を抱えていたのかもしれない。そして、彼にとっての理想の一つが僕が悩んでいるような他を圧倒する魔力なのかもしれない。

 なんというか、これが無いものねだりというのかもしれないが、どうにも噛み合わないなあと思った。

 だからといって、僕は魔術を使うことができない。先程東雲さんが賛同したように、強すぎる魔力で人を傷つける危険がある。

「東雲さんは・・・」

「うん?」

 雨が降りしきる外の景色を眺めていた東雲さんは、気の抜けた声を漏らして僕に視線を向けた。

「東雲さんには、僕みたいに、魔術のせいで人との関係が壊れたことはあったんですか?」

「あるよ。数えきれないくらいにね」

 返ってきた声は、あまりにもあっさりしたものだった。だけど、そのせいか心に重たい一撃を食らった気がした。

「私がMAPで、しかもかなり強大な魔力を持っているんだということを告げると―――妻や君のお父さんや、他にもごく数人は理解を示してくれたが―――ほとんどの場合は私の前から去っていった。その場を誤魔化すための愛想笑いを浮かべ、まるで私が不治の病原菌でも持っているかのようにね」

「それは、辛くなかったんですか?」

「もちろん、辛いさ。まるで体が半分に切り裂かれたように心が痛んだ。自分は死ぬべきなんじゃないだろうか―――そういうことをまんじりともせず考えたりもした」

 僕は自分で聞いておきながら質問をしたことを猛烈に後悔した。

 僕にとって東雲さんは、魔術を扱うということについて何から何まで先輩だ。こうしてレベル5の魔術を孕みながら、身体的にも精神的にも生きていけているのは、間違いなく東雲さんの指南によるところが多い。

 魔術を完全に支配下に置いていると思われる東雲さんですら、自分の過去を語る時には遠くを見るような目で、拳を強く握りしめている。きっと、長い人生の中で多くの罵倒や蔑視を被ってきたのだろう。そして、それはこれから僕が歩いていく道程そのもののように思えた。

「———それじゃあ、一体どうすれば」

「話すしかない。彼が真摯な態度で君に自分の弱みを打ち明けたように、正々堂々丁寧に相手に説明するんだ。高レベルの魔術を使えなくとも、せめて態度では、彼の思いに応えるべきだろう」

 東雲さんはそう言い切った。

 だけど、僕の中には一種の反感が生まれた。

 そう、すべては僕のことを相手が知らないことが原因で起こったことだ。だけど、それを持っている僕が自分の能力を持っていない状態でまともにそれができるのだろうか―――そんな一抹の疑問が体の中に残った。

「やはり、僕には自信がありません。自分の能力について、相手にわかってもらうように説明することもできないかもしれません」

 思わず、弱音が漏れた。

 それを静かに見ていた東雲さんは、再度小さな声で唸った。

「・・・そうだ、瑞樹君。ちょっとお遊びしようか?」

「え、お遊び?」

 東雲さんは急にいたずらっぽい顔になり、指先に魔力の凝集体を生み出した。

 すると、次の瞬間には球体のエネルギーの塊はなくなり、代わりに指先からガスバーナーのように小さな炎が放射された。炎が勢いよく酸素を貪る低い音が聞こえた。東雲さんが手の形を変えると、今度は細長い何かが掌に浮かび上がり、それが強く、淡い光量を持ってじめじめとした部屋の中を照らした。

「す、すごい・・・魔術にこんなことができるなんて」

 思わず感嘆の声を漏らしている間にも、東雲さんが自分の魔力で作り出したエネルギー体を色々な形にして見せた。まるで手品師のようだ。

「MAPが持っている魔術を、ほんの少しだけ面白く、人の役に立てるようにするためのテクニック―――これでちょっと遊ぼうじゃないか」





















 


 









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