第16話 女王

『水塊と呼ばれる範囲では、溶存酸素量や塩分濃度等がほぼ同等である。水塊と周囲の海水の間は、急激に特性が変化する不連続な境界となっている』


 そこまでをノートに書き、僕はペンを置いた。この章はいちいち訳が長いし難しい語句も多い。僕は指先の筋肉に溜まった疲労を、手首から先をばたばたと振ることで逃がした。本当にそれで疲労が無くなるかどうかは知らないけれど、何だか疲れが早く消える気がする。

 僕は賑々しい昼休みの向こう側にある外の景色を見た。今日もまた、天気は雨だ。窓の桟に当たって跳ねた雨がガラスに張り付いている。梅雨だから仕方がないけれど、こうもどんよりとした空ばかりでは気が滅入ってくる。そろそろ太陽の光が見たいところだけど、週間天気予報ではここから数日先もずっと傘マークが並んでいたのを出がけのニュースで確認済みだ。

 まだまだ梅雨明けは先か―――僕は小さく溜息を吐いた。


 再度日本語訳に移ろうとペンを持ち上げた僕の席に、上村とその付属物がやってくるのが見えた。

「あはは、あんた休み時間も勉強してんの?ホントつまんない男だよね」

「俺、こんなに勉強するくらいなら死んだ方がマシだよ」

「あ、それ言えてるかも。まぁ、魔術を使って騒ぎを起こした奴にはこれくらい惨めな日常がちょうどいいかもね」

 僕の自席の前に立ち、上村が手を叩いて笑いを上げると、周りの人間もそれに準じて哄笑を上げた。気付いた時には、僕の前方百数十度はすべて上村一派が尊大に僕を見下す視線に囲まれていた。

 ここのところ、上村は僕を小馬鹿にするのが日課になりつつあるようだった。

 各教科毎の休み時間、体育の時間、放課後など連中が来襲してくる場面を挙げれば枚挙に暇がない。気が向いて時間が少しでもあれば、僕のところへやってきて何か癪に障ることを言って自分たちへのこびへつらいを強要してくる。どうやら完全に目を付けられたらしい。

 だけど、僕は取り合えず一旦はそれを突っぱねることにしている。

「———何か用?」

 奴らの態度に腹が立ったので、僕は持っていたペンを乱雑に放り投げた。

「ねぇ、あんた次の古文の予習やってきてるでしょ?それ寄こしてよ。私がやってきたことにしてあげる」

「やってきたけど、それは嫌だよ」

 僕が拒否の意思を示すと、当然のように上村も怒りを露わにし、歯をむき出しにした。

「はあ?!あんた今誰と話してると思ってるの?私が寄こせと命令してるんだ、あんたはおとなしく課題を差し出せばいいんだよ!」

 自称女王の怒りに同調するように、近くに侍っていた男子生徒が僕の胸倉を掴み、そのまま上方へ引き上げた。

「俺は前に言ったはずだぞ!今後綾音ちゃんに対して身の振り方をよく考えろとな」

 その男子生徒のちょっとだけイケメン風な顔が僕に迫った。違うクラスの生徒なのは間違いないのだが、いまいち名前が分からなかった。これといった特徴も無さそうだが、楠木よりは間違いなく美形なので、上村にとってはイケメン枠として採用された生徒なのだろう。しかし、今はまるで縄張りに侵入してきた者へ威嚇するサルのように顔を歪ませており、イケメンらしさが感じられる部分は少ない。

 僕がそいつを睨みつけていると、イケメンは得意げに言った。

「おいおい何だよその目は。お得意の魔術でも披露しようってのか?それはやめといた方がいいぜ!こんなところで魔術を使ったら、お前は間違いなく停学だ」

 またしても、嘲笑に包まれる僕。

 魔術という言葉は―――学校の中でも間違いなくそうだろうが―――僕の中で今最もセンシティブな話題だった。東雲さんに言われたことすらも十分に咀嚼できないままでいる。

 だけど、こいつらはそこにずかずかと入り込んできて、それをネタにして馬鹿にしてくる。

「さぁ、それが分かったならさっさと古文の課題を寄こしなよ」

 怒りはあった。手の先に魔力の疼きが感じられる。

 イケメンの煽り文句にあったように、僕はいっそのことレベル5のスクウォートでこいつらを皆殺しにしたい気分だった。だけど、そんなことをしたとして、僕も父と同じ末路を辿るのは目に見えている。それに、この前の鍛錬の時に東雲さんにできるだけ感情のふり幅を減らして平常心でいることがリミットブレークから遠ざかるための有効な方法だ、ということを教わっていた。

―――そう、今は雌伏の時なのだ。ここは我慢するよりほかない。

「・・・わかったよ。手を放してくれよ」

 僕は机の中から古文の問題集を取り出し、上村に差し出した。

 それを上村は乱暴な手つきで奪い取る。

「そうそう、そうやって初めからおとなしく私に従っていればいいんだよ。ったく妙な抵抗見せやがって、いちいちやりとりが面倒なんだよ」

「酒匂、今度から無駄な抵抗はよしておくことだな。次に余計なことを話したら、その口を縫い合わすぞ」

 上村は問題集で僕の頭をばさばさと幾度か叩いてから、騒がしさを随伴させたままどこかへ行ってしまった。


「なぁ!酒匂君!君このままでいいのか!」

 一時限目終了後、朝の一部始終を見ていた金森君が声を上げた。それだけではなく、身振り手振りを使ってどうにか自分のどうにも処理しきれない怒りを表現している。

「何をそんなに怒ってるのさ」

「君はちゃんと古文の課題をやってきていたじゃないか!それなのに、先生に当てられたとき忘れてきましたって言ってただろ?しかもその時の上村たちの様子を見たかい?あいつら君のこと笑ってたんだぞ?そんなんで悔しくないのかい?!」

「そりゃあそうなんだけど・・・まぁいいじゃない」

 金森君は僕の机をパンパン叩いて捲し立てた。確かにこの出来事は圧力によって道理が叩き潰された末の歪な状態であることは間違いないから、金森君が激昂するのは当たり前だし、同時にそれに対して僕は取るに足らない逃げ口上を考えるしかないこともわかった。

「あんな奴ら、君の魔力でやっつけてしまえばいいだろ?!折角能力を持っているのだから、あんな馬鹿女の言うことに従うことなんかないよ!」

「あのね金森君・・・」

 僕はばさばさと頭を掻いた。

「この前の一件で、学校の中でみんな魔術に敏感になっている。そんな時に、軽々しく魔術なんか使えると思うかい?この前も先生に注意されたし、今度は僕が楠木たちと同じように停学になっちゃうよ・・・」

「だけどさぁ、僕は悔しいよ!だって、君が上村に攻撃を受ける理由なんてどこにもないじゃないか」

「まぁいいじゃないか。上村の言うことを聞いて機嫌を取っておけば、そこまで酷いことにはならないと思うしさ」

 またしても、場を誤魔化すための情けない笑いを垂れ流す。こうしていれば相手も呆れて追及する気がなくなるし、僕自身も僕の中で破裂しそうな情けなさをどうにか宥めることができる。決して最高とは言えないが、それでも現時点では最善の方法だった。

 それを見て、金森君は明らかに眉をひそめた。

「・・・なんか、最近の酒匂君はちょっと変だよ」

「え?」

「前に楠木に僕が絡まれている時は、奴に立ち向かっていったじゃないか。それなのに、あの一件からすっかり弱腰になっちゃってさ」

 金森君は何かを言いたげにぼそぼそと独り言をしゃべっていたが、そろそろ次の授業が始まりそうだったので前を向いて机をガサゴソやり始めた。

 

 金森君の言い分は、金森君らしからぬ精度で真理を突いていた。

 僕は完全に萎縮していた。MAPであることがバレてから、周囲の視線も辛い。上村の言われのない攻撃もきつい。何より、それを乗り越えたり受け入れたりする術を何も持たぬ僕自身が許せなかった。

 彼はそんな僕の様子を感じ取り、見咎めてきた。僕の中で抑え込もうとしていた不安や心配、葛藤の類が、目に見える表層部分に浮き出てきているのは明らかだった。


 不安の真っただ中にいる僕とは対照的に、上村の増長は留まるところを知らないようだった。

 この前のスクウォートとエクスプロードの衝突の件で、どういうわけか上村に対して実害的な罰則がほとんど加えられなかったのが、彼女の舐めた態度を一層助長させてしまったらしい。

 私はかわいいから、みんなのアイドルだから―――。

 その理論を振りかざせば何をしても許されるんだという歪んだ意識を、上村の中により一層濃密な形で宿らせることになった。

 だけど、浮かれ上がる上村は、遂にその日の昼に専制的女王の座をはく奪されるに至ったのだ。

 

 事の発端は、ある日の昼休みだった。

 上村は相変わらず反省の白一つ見せず、クラスの中で騒いでいた。校則を完全に無視したスカート丈や髪色で、周囲の迷惑を顧みることなく好き勝手におしゃべりに興じている。その傍らには、上村を褒めることしかしないいつもの傀儡系男子もいる。

 その輪の中心に、蓮田さんが切り込んでいくのが見えた。

「ちょっと、上村さん」

 いつも通り冷静そのものな蓮田さんの凛とした表情を見るにつけ、上村は大きな舌打ちをした。

「なんか用?」

「あなた、まだこの前の事件の反省文提出してないよね?早く出してくれないかな?私、井原先生からあなたに催促するようにお願いされてるんだよね」

 真剣な態度で、上村たちを囲む低俗な一団に向かい立つ蓮田さんとは反対に、上村は安いアメリカ映画のように掌を天井に向け、おどけてみせた。

「反省文て・・・あんたさ、勉強のしすぎで馬鹿になったんじゃないの?」

「どういうこと?」

「何度も言ってるのにまだ分からないのかな?私は何も悪くない。悪いのは馬鹿な二人。だから私が反省文を出す必要はない。おわかり?」

 周りの人間が満面の笑みを浮かべてその意見に同調した。本当に、上村の周囲には馬鹿しかいない。どう考えても無理のある理論だというのに、上村が言ったというだけで首を縦に振る以外の選択肢が見えなくなっているみたいだ。

 その無茶苦茶な話を聞いて、蓮田さんは遠方からでも分かるような大きな嘆息を吐いた。

「あのねぇ、そんな幼稚園児みたいな言い訳が通じると思ってるの?確かに魔術を使ったのは楠木君と酒匂君だけど、元はと言えばあなたが楠木君を焚き付けたのが原因でしょ?」

「ええ?私そんなこと言ったっけ?まぁそんなことはどうでもいいけど、とにかく私が怪我させたり物を壊したわけじゃないし、やっぱり私は何の罪もないのは明らかだよね?」

「普通、一般社会ではあなたみたいな人は共犯といって咎められる対象になりうると思うんだけど。高校生なんだから、もう少し常識的に考えたらどうなの?」

 上村は相変わらず煽り調子で蓮田さんに応対していた。だが、蓮田さんは蓮田さんで上村への傍若無人な振る舞いには腸が煮えくりかえっていらしい。彼女は、明確に上村を嘲る趣旨の言葉を憚ることなくレシーブしている。

 そんな“反逆”を、女王である上村綾音がおとなしく聞いているわけがなかった。

 上村は乱暴に机を叩き、椅子として使用していた机の座面から勢いよく立ち上がると、集団にたった一人で対峙していた蓮田さんに詰め寄っていく。

「ゴチャゴチャうるさいんだよ。あんた、私をどこまでムカつかせたら気が済むわけ?」

 上村は声を張り上げた。蓮田さんと上村たち一派のいざこざは教室の前方出入り口付近で行われている。教室の隅っこであるけれど、クラスのなかにいる生徒たちはお喋りの声を潜ませ、その小さな紛争に視線を配っている。

 首領である上村綾音がずんずんと進み出ると、彼女と同じく不遜極まりない態度を取っていた男たちも彼女の傍らに並び、壁のようになって蓮田さんを取り囲んだ。あの状況は、僕が楠木たちにやられたのに似ている。

 あの時、僕は多かれ少なかれ怯えがあった。だけど、蓮田さんはいつも通り毅然とした態度で自分を取り囲んで威圧感を放つ一団に向かい立っている。

「そんな大きな声出したって何も変わらないんじゃないかな?男の子たちを従わせて脅したり、道理の通らない持論を喚いたところで、学校としてはあなたにも大なり小なり責任があると思って反省文の提出を求めているわけでしょ?あなたも北高生である以上それには従うべきなんじゃない?」

「だぁ、かぁ、らぁ!私は何もやってない。私は何も悪くない。訳のわからん難癖を付けて私を辱めたのは私じゃなく、井原だ!」

「井原先生、でしょ?呼び方に気を付けなさいよ。とにかく、ここまで言っても反省文提出が承服できないなら・・・別に藍沢市にも杜山市にも高校はいくらでもあるわけだし、ここに拘泥することもないと思うし」

「はぁ?!あんたあたしに転学しろとでもいいたいわけ?私は嫌だからね!」

「だから、そうしたくないのであれば、おとなしく反省文を出しておいた方が身の為なんじゃないかと言ってるの」

 足を激しくスタンピングさせ、上ずりながら言葉をぶつける上村に対し、蓮田さんはスカッシュで使うコンクリートの壁の如く硬い言葉を跳ね返す。彼女の冷静さと比べると、上村が頭に血が上った末に見るに堪えない感情論をぶちまけているだけなのは火を見るより明らかだった。今の上村綾音は、駄々をこねる三歳児がナイスプロポーションになっただけの存在でしかなかった。

 抑えきれない怒りが漏れ出そうになる代わりに、上村は付近の物に怒りをぶつけている。そこに、無表情な蓮田さんの追撃が浴びせられる。

「本当だったらあなたも楠木君たちと一緒に停学になるはずだったんだよ?だけど、実際に実行したわけじゃないし、あなたが女子だからと慮って、教頭先生が何とか反省文だけってことで方々にお願いしたそうじゃない。それなのに、あなたはそれをないがしろにし―――」

 滔々と説教めいたことを述べる蓮田さんは、突如として言葉を遮られた。

 遂に上村がブチギレたのだ。

 まず上村は怒りに任せて蓮田さんの顔に一発、張り手を喰らわせた。どうにも、あのビンタは彼女の得意技らしい。僕もこの前やられたのだが、今回のはどうも威力が違うらしい。上村の掌の骨ばったところがもろに蓮田さんの顔を捉えたらしく、短く鈍い音が聞こえた。

「———っ!ちょ、ちょっと上村さん、暴力は・・・」

 流石の蓮田さんも、冷酷無比な暴力には恐怖を覚えたらしい。打たれた頬を手で抑えながらよろめき、ぼそぼそと何かを上村に言っている。が、僕の席からは聞こえなかった。

 臨界点を突破した上村の怒りはまだまだ収まらないらしく、一瞬怯んだ蓮田さんの首を鷲掴みにして強引に後ろへ押し込み、クラスの連絡事項を張り付ける掲示盤に蓮田さんの小さな体を叩きつけた。その衝撃で、一部のプリントや画鋲がパラパラと床に落ちた。

 僕はあっと口の中で叫んだ。それと一緒に席から立ち上がった。

「うらあ!蓮田陽菜!あんた誰に口聞いてると思ってるんだ!そんなふざけた態度であたしに説教とか何様のつもりだ!」

 怒声はさらにボルテージを高めた。いつもの憎たらしいほど軽い雰囲気の上村綾音ではなく、鬼気迫るものが感じられる。首根っこを押さえつけられた蓮田さんは苦悶の表情を浮かべて腕を引き剥がそうとするが、上背のある上村との体格差もあってかジタバタするくらいしかできていない。

 これは命の危険すらある。冷や汗が毛穴から大量に滲み出てくる。

 僕は今すぐに蓮田さんのところへ行かなくてはならない。多勢に無勢かもしれないが、上村の一党と一戦交えなくてはならない。

 だけど、僕の中の思考回路がそれを強烈に阻んだ―――もしもその中で魔術が暴発したらどうする?

足が震えている。どうしても体が動かない。

「ちょっと!やめてよ!苦しい・・・」

 蓮田さんの細々とした声が聞こえた。もう顔が真っ赤だ。

 だが、怒りと殺意に満たされた上村は攻撃の手を緩めなかった。蓮田さんの首を捕まえたまま、掲示板に何度も蓮田さんの小さな体を叩きつけた。教室には、乱暴な打撃音と蓮田さんの小さな悲鳴が断続的に響いた。

「うるさい!前々から馬鹿真面目なあんたがウザかったんだ!今日!この場で!絶対に殺す!」

 その殺気に対して、周りにいる男子たちも流石にドン引きしたらしく、真っ青な顔になって二人から一歩離れている。

 傀儡の男子たちが上村から一歩距離を置いている今が蓮田さんを助けるチャンスなのはわかっているのだけど、僕にはそれができない。“魔術”という事実が、僕の足に楔のように打ち込まれている。


 上村の怒りが収まるか、あるいは蓮田さんの意識が無くなるかのどちらかでしかこの修羅場は終結しそうにないと思った。

 だが、暴力を振るう一団に、教室の反対側から突進する誰かの姿が見えた。

「おい、上村ぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 獣に紛うような雄叫びを放ち、荒々しい足音を上げながら突き進む猪の如きその姿を見た。その声の主は金森君だった。

 上村の脇を固める男たちがその野性味溢れる突進にうろたえていた。彼らは、弾丸の如き彼の着弾地点にならぬよう、後ろに飛び跳ねて進路を譲る。ぽっかりと空いた空間のその先には、女王であり今は暴君である上村綾音がいた。

 金森君は自動追尾式スティンガーミサイルのような狂いなき精度で、蓮田さんを痛めつける上村に突っ込んだ。

「ぬおぉぉぉぉぉぉ―――っ!」

「きゃっ!」

 女の子らしい短い悲鳴を上げた上村は倒され、二度三度としたたかに体を打った。鉄砲玉である金森君も同様に、勢いそのままにごろごろと転がり、教室の引き戸に派手にぶつかった。盛大で乱暴な音の連なりが、二年四組の教室の内外にいる人間の注意を引き寄せた。

「か、金森君!」

 僕も思わず金森ミサイルの爆心地近くに駆け寄った。上村の首締めから開放された蓮田さんは、壁に背中を擦りつけながらへたりと床に崩れ落ちた。一方で、衆人環視の最中で金森君と上村がよろよろと立ち上がり、眦を決してお互いを睨み合っている。

「いってて・・・もう!何なのよあんたは!女子にこんな乱暴していいと思ってるの?!」

「うるさい!誰が女子だ、笑わせるな!」

「はぁ?!」

 こんな金森君は今まで見たことがなかった。未だに収まらない呼吸のせいで肺からは変な音が漏れ出ていて、酸素と二酸化炭素の収支を行うたびに大きく方が上下している。

「お前!酒匂君や蓮田さんが仕返ししないからってやりたい放題やりやがって!これ以上二人に何かしてみろ!僕がお前ら全員をぶっ殺すっ!」

 ぶるぶると震えた人差し指を上村たちに指し示し、目の前にいる一団への敵愾心を隠しもせず明確に表明していく。

 そんな金森君の様子を見て、上村も頭の血が上ったらしい。

「んああ!どいつもこいつも私に盾突きやがって!おいあんたら!」

 髪を振り乱した上村の形相を見て、周りの男たちは呆けていた表情を正し、我に返ったように臨戦態勢に移った。

「こいつらを全員殺せ!肉の塊も残らないくらいにぐちゃぐちゃに潰せ!」

 自分に抗う人間がいるのがよほど許せないらしい。上村はほとんど錯乱状態だった。そのせいか、日常生活ではまず使用機会のないであろう汚く残虐な言葉が迸った。

 男子生徒たちはなおも上村を行動指針の根幹に据えて動いているらしい。上村と対峙していた金森君を複数人で取り囲み、体を押さえつけたり、頭や体をどついたりした。

「うわぁ!ちょ、ちょっと辞めてくれよ!」

 いくら強い言葉を使って上村たちを煽ったとて、やはり金森君はひ弱な男子に過ぎない。一切の反撃を相手に与えることもできず、あっという間に大柄な男子生徒たちの思うがままにされてしまう。

 男たちにもみくちゃにされながら、金森君は僕を見つけて叫ぶ。

「さ、酒匂君!頼む!魔術を使ってこいつらを黙らせてくれ!じゃないと本当に僕は死んじゃ―――うわぁ!」

 最後の言葉を言い終わるか言い終わらないかのうちに、金森君は遂に床に打ち倒された。その救済の懇願を湛えた目は、いくら乱暴されてもまっすぐに僕を向いている。

 僕の中は怒りと恐怖でないまぜになっていた。考えるより先に、体はいつの間にか魔術を凝集する態勢に入る。

 だけど、魔術は一向に集まらない。それどころか手の先に魔力が流れていく気配もない。

 理由はわかっている。僕の体は未だに言うことを聞かなかった。怒りと恐れで魔道が細くなって上手く魔力が流れていってないのかもしれない。

 蓮田さんが恐怖でぶるぶると体を震わせ、上村たちはなおも暴力で理不尽を押し通そうとし、金森君は暴力に晒されているというのに、僕は魔術を使うかどうかぐるぐると逡巡をし続けている。そんな場合でもなければ、時間もないというのに。ただただ暴力で支配されたこの場を、僕は震えて見ているしかできない。

「僕は―――僕は・・・っ!」

「酒匂君、助けてくれっ!」

「は、ははっ!まったく馬鹿な男だねぇ!私に歯向かうとこういうことになるのよ」

 やっと不遜な態度を取り戻した上村が、倒れている金森君に近づいてきた脇腹に蹴りを入れた。

 金森君の悲痛な叫びが、ただ耳の中を通過していった。このまま、金森君は本当に殺されてしまうのか? 

 そう思った時だった。

「おい上村ァ!お前何やってんだぁ!」

 生徒指導担当の井原先生の腹の底に響くような裏低い怒鳴り声が、こちらに近づいてきたのが聞こえた。

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