第11話 怒り

 上村綾音たちからの仕打ちの後、張り手を受けたところが気になったので、一旦トイレに寄って鏡を見た。

 水垢で汚れた鏡面には、血色の悪い僕の顔が映っている。片方の頬は、わずかに赤くなっている。そこを触れると、ピリピリと痛みを感じる。痣があったり血が出たりしていたらもっと目立つだろうが、それほどではないので取り敢えずは良かった。

 その間トイレに入ってきた生徒たちの冷たい視線が、鏡に反射して何度か僕に刺さった。

 こうなることは多少想像していたけれど、思っていたよりもよっぽど酷い―――これが僕の正直な感想だった。

 

 これまでの僕は、せいぜいクラスの無口で愛想のない奴、といったところで、ほとんど見向きもされてこなかった。それが今はどうだ。廊下を歩くと、誰もが僕を無表情で凝視していく。教室に入れば、朝の楽しげな雰囲気は一変し、誰もがおしゃべりの声を押し殺して僕を睨んでいる。教師たちは露骨に嫌そうな顔はしないものの、ほとんどの者はぎこちない笑いを浮かべて気まずさを緩和することに努めているようだ。魔術能力者は異端―――そういう目で見ているのは明らかだ。異物感が侵入してきた時の気まずさのようなものが、瞬時に凝固して沈殿していく。僕のまわりで常にそれが起こっていることが、僕には痛いくらいに分かった。


 精神面でボロボロになりながらも教室に戻ってきた僕は、周りの人間の軽蔑した視線に気付かないふりをしながら、一時限目の準備を始めた。

 誰もが僕を避けているなか、蓮田さんが僕のところへ歩み寄ってきた。

「おはよう、酒匂君」

「あぁ、おはよう蓮田さん」

 彼女が近寄ってきたとき、ふわりとしたいい匂いがした。僕は普段接する女性が母くらいしかいないのであまりよく分からないけど、さっきの上村の時に匂ってきた鼻孔を痛めつけるようなものとはまた違うものだなぁというは分かった。

 片手を上げてあいさつをした彼女もまた、偽善の教師たちと同じく小さな笑顔を浮かべている。だけど、それはそういった類の教師たちが僕に向ける取り繕いの模造品とは違うということはすぐに分かった。

「昨日はお休みだったみたいだけど、何かあったの?」

「うん。ちょっと急に具合が悪くなっちゃって、休んだ。でももう大丈夫だから」

「そう・・・それなら良かった。いきなりだったから、少し心配しちゃって」

 本当は具合なんてどこも悪くはなかった。少なくとも身体的な部分については何も無かった。だからといって、ありのままのことをそのまま蓮田さんに話すわけにもいかないので、適当に嘘をついた。

「酒匂君」

「うん?」

「一昨日はどうもありがとう」

 僕の前にいる女子は、小さく、だけど丁寧に僕に頭を下げた。

 何に対して礼を言っているのかは、大体察しが付いた。だけど、僕の中には怪訝な思いがした。

「楠木とのこと?僕、蓮田さんに何か感謝されるようなことしたっけ?」

「うん、まぁ直接的には、確かにそうなんだけど・・・」

 蓮田さんは、首筋の辺りを手で擦り、少しだけ間を作ってから話し始めた。

「魔術を使って、楠木君の暴走を止めてくれたことに感謝したいと思ってさ。レベル3の魔術ってかなり強いんでしょ?前に海外のニュースで見たことあるよ。レベル3のMAPが魔術を暴発させて大きな事件になったこともあるみたいだね」

 確かに、昔からMAPによる殺傷事件は多い。他の国では、そのような事件が起きるたびにMAPをもっと厳しく管理すべきだ、と市民団体が抗議するデモが起こったりもしているらしい。夜のニュースなんかではよくその様子が報道されていたりする。

「僕もあんまり知らないけど、そうみたいだね」

「うん。もしもあの時、酒匂君が魔術を使って楠木君の魔術を打ち消さなかったら、きっと大きな事件になってたと思う。先生も言ってたよ。軽傷者が数人しか出なかったのは奇跡だって。これくらいの被害で済んだのは、本当に酒匂君のお陰だと思う。改めて、ありがとう」

 再度、彼女は深々と礼をした。

「いや、まぁ、どういたしまして」

 確かに、あのまま楠木から放たれたレベル3の火球が学校内のどこか、あるいは誰かにまともにぶつかっていたならば、そこそこの爆発が引き起こされていただろう。多数の怪我人、大規模な校舎の破損、あるいはそれ以上のことが起こっていたであろうことは、容易に想像が付く。

 そんな最悪の結末が多少マシな幕切れとなったのは、僕の苦し紛れの魔力の放出があったからというのも、確かにそうなのかもしれない。それに対して、学級委員たる蓮田さんが代表して僕に謝意を伝えるというのも、まぁ筋としては通っている。

 だからほんの少しだけ僕の心には小さな喜びがやっては来たものの、今の僕はそれを手放しに喜べるような心情では到底なかった。

 レベル5への格上げ、リミットブレークへの恐怖、上村綾音からの罵り、冷たい視線―――魔力を持つがゆえの辛さが、僕の心の中に鉛のように沈下していく。

 

 僕がネガティブな感情に囚われていると、蓮田さんは机の方に体を寄せ、辺りをちらちらと見回しながら話し始めた。

「あ、あのさぁ・・・私さっき聞いたんだけど・・・上村さんに色々と言われたでしょ?」

 やおら声のボリュームを絞り、僕にしか聞こえない音量で彼女は話す。ぱっちりとした瞳は、まっすぐこちらへ向けられている。

 本当は、心配をさせないように方便でも何でも使って誤魔化せばいいのだろうが、上村の暴言の数々は少なからず僕を傷つけていた。そんな弱った心は、僕の口をして蓮田さんへ本音を差し出させしめた。

「・・・あぁ、そうだよ。今日、学校に来てからすぐにね」

「やっぱり・・・彼女、昨日は大荒れで大変だったんだ。自分が悪いのに、酒匂君が断罪されないのはおかしいって大騒ぎして。しまいには職員室に乗り込んでいったりして・・・一体、どういう神経してるんだろ」

 なるほど。僕は納得した。

 恐らく、楠木たちと一緒になって叱責を喰らい、自分の女王的立場が揺らいだことの腹いせに僕への厳罰を求めたのだろうが、生徒指導の教師に門前払いされて訴えを取り下げた。恥に恥を重ねた上村は、自分の中で抑えきれない理不尽な怒りを僕にぶつけた―――こんなところが相場だろう。

 冷静沈着な語り口で上村さんを非難しているけれど、蓮田さんの中にも抑えようのない怒りが渦巻いているのはすぐに分かった。正直、目の前にいる清純無垢と呼べる女子が、少しだけ恐い。

「大丈夫?怪我とかしていないかな?」

「———大丈夫だよ。ちょっとどつかれたりはしたけど、どうってことない」

「え?嘘?!」

 突如として大きな声が上がった。周りの人間は一斉に蓮田さんを見たが、彼女は上手いことそれを宥めた。

「そんなの暴力じゃん!そんな自分勝手な振る舞い許せない!」

 彼女は口を尖らせたまま、くるりと教室出入り口の方へ向き直った。

「私、生徒指導の井原先生に今のこと話してくる!」

「ちょっと、蓮田さん!」

 熱血極まれり蓮田さんの行動に僕は焦った。柄にもなく声を張り、彼女を止める。

「なんで止めるの?」

「先生に話すのは、辞めてほしいかも」

「何でさ?このままじゃあ、また上村さんたちに酷いことされるよ?こんな理不尽なこと、許されるべきじゃないよ!」

 彼女は怒りに満ちていた。事を荒立てたくない僕は、どうにかしてそれを収めたかった。

「うーん、まぁ、確かに理不尽ではあるけどね。でもまぁ、知っての通り僕はMAPだから、人から罵られることは仕方ないことだよ」

 蓮田さんの顔が強張っていた。僕は少しでも彼女の顔を柔らかにしようと、取り繕いの笑いを作った。

 だけど、むしろそんな僕の態度は彼女の怒りを助長してしまったらしい。

「ねぇ酒匂君。君がそうやって下手に出ていると、上村さんはますます増長するよ?自分の変えられない性質に対して攻撃の矛先を向けられるのは辛いかもしれないけど、自分からへりくだって認めるのは良くないと思うけど」

 蓮田さんの言葉は真理を突いていた。

 僕はMAPだ。普通の人たちとは違う。だから彼らが僕を罵るのは当たり前だ。

 この三段論法を駆使し、力の強い多数派に迎合することは簡単なことだ。彼らに対して僕は阿呆で情けない弱者を演じていればいい。そうすれば連中は満足する。少なくとも耐え難い暴力や恥辱を受ける可能性は減る。

 だけど、上村綾音たちは自省するということをしないだろう。自分とは違う弱い立場の人間には、いくら人としての尊厳を踏みにじっても許されると思っている。そんな人間は自分の愚行を恥じるなんてことは無く、むしろ蓮田さんの言う通り、どんどんつけ上がっていくに違いない。

 それでも、上っ面の僕は平然と嘯く。

「それはそうだけど、実際に僕は騒ぎを起こしてしまったわけだし、やっぱり仕方ないよ」

「あなたは良いことをしたんだよ?それなのに何で君が萎縮して上村さんは傍若無人な振る舞いをしているわけ?私はこんなの狂っていると思う」

「それは・・・」

 確かにそこに対して不平不満はある。だけど、僕は僕自身が高レベルMAPである、という負の自意識に囚われて、身動きが取れない気がしていた。まるで、水の塊に突き落とされて溺れかけているように。

 僕が弱気になっていると、蓮田さんはさらに続ける。

「なんだったら、私はこの学校の雰囲気にも頭に来ているよ。あなたのおかげで金森君や他数人以外は怪我人も出ずに済んだ訳でしょう?それなのに、あなたが少しレベルの高いMAPってだけで誰もあなたを助けたりフォローしようとしないじゃない!こんなのおかしい」

 蓮田さんは柄にもなく熱くなっていた。周囲の人間は、こちらの様子を伺い、そして僕らと目が合わないようにどこか違う方向を向く、という行為をそれぞれの周期で繰り返している。

「・・・なんで君がそんなに怒ってるの?これは、僕と上村たちとの問題だろう?」

「だって!」

 蓮田さんは怒りを抑えられず、まだ何かを言いたそうだったが、急に我に返ったらしい。一つ溜息をして、手をばたばた仰いでその風を顔に当てる。

「・・・ごめんなさい、君の言う通り、ちょっと冷静じゃなくなってたみたい。とにかく、上村さんからのあなたへの仕打ちを見過ごすわけにはいきません。意地でも、彼女に痛い目を見せてやるんだから」

 蓮田さんはバツの悪そうな顔をして、自席へ戻っていった。僕は僕で、自分がめちゃくちゃに叱られたような気分になって、思わず俯いた。

 それと引き換えのような形で、金森君が慌てた様子で自席へ飛び込んできた。

「おはよう、酒匂君。昨日は大丈夫だったかい?」


 朝の授業が緩慢に進んでいる。灰色の空、灰色の校舎の中で、淡々と教師の声が流れていく。

 僕は先程蓮田さんに言われたことを考えていた。 

 そう、確かに僕は高レベル魔術能力者だ。本来であれば、学校という大人が保護すべき対象が集まる場所にいてはいけないくらいの危ない人間だ。だからこそ、決して安くはない金を払ってそれを押さえつけている。学校で魔術を使ったのは良くなかったが、ここまで睥睨されるのはおかしいのではないか。

 だが、一方でそれを仕方ないんだと思う自分もいた。いくら道理の通らないことをやられたからといって、僕は高レベルMAPだ。誰かを傷つける危険を内に秘めた、他人から排除されるべき人種だ。そんな人間が何かを訴えたところで、誰かが耳を傾けるのだろうか?もちろん、蓮田さんや金森君、また母親は僕に理解を寄せているようだが、逆に言えばそれくらいの少人数の人間しか僕を分かろうとしていないということでもある。

 やはり、僕が周囲とは明らかに違う人間なのが悪いのか?僕はずっと、内に煮えたぎる魔術を否定し生きねばならないのか?

 閉鎖された灰色の箱の中で、僕の朝は自問自答の終わり無い円環を周回する。それだけでただただ時間は過ぎていった。


 その日の帰宅時も雨が降っていた。どうやら本格的に梅雨に突入したらしい。このところ太陽を見ていない気がする。

 帰る途中、またしてもスクウォートの暴発が起きそうになった。心臓の辺りにある温かい何かが漏れ出し、手先の方へ集まっていく心地がする。そして、指の先からはぽたぽたと水が滴り落ちる。

 これはまずいと判断して、僕はコンビニに駆け込み、男女共用の広めの個室で魔力の抑制をした。便座の前にかがみ、便器の蓋に頭を押し当てて手先に力を込める。少しの間手から水が落ちて、制服のズボンを濡らした。しかし、少しだけ我慢していると、徐々に魔力は無くなっていく気がした。流石にレベル5用のリングだ。魔力を抑え込む時の労力が、段違いに少なく済む。

 ほっと胸をなで下ろし、僕はコンビニでタブレットとジュースを買って店を出た。

 だけど―――僕は先程の出来事を思い出した。

 新しいリングでもこのようなことが変わらずに起こっているということは、恐らく僕の魔力のレベルに対して完全にリングでは抑え込めていないということだ。つまり、リミットブレークの危険が完全に拭い去られたわけではない、ということだ。

 帰り道の途中、またしても僕は不安に苛まれた。


 その日、帰宅するとリビングの方から母が電話している声が聞こえてきた。普段通っている病院か、あるいは役場の手続きで何か不備があってその連絡だろうか。そういったところであたりを付けて、僕は自室に戻り、部屋着に着替える。

 昨日あたりからずっと、家に帰るとへとへとに疲れているということが多かった。それだけではなく、心にも疲労感が溜まっている気がする。

 僕はベッドの上に飛び込み、そのまま目を閉じて力を抜いた。母の電話の声が、さっきより鮮明に聞こえてくる。だけど、詳しい内容まではあまりわからない。

 母親の電話の音が消え去ると、母はスリッパの擦過音を伴って僕の部屋へやってきた。

「瑞樹、ちょっといい?」

 ドアの向こうから、母のくぐもった声が聞こえてきた。

「うん、どうしたの?」

 僕から了解を得たと判断したのか、母はドアを半分だけ開けて部屋の中を覗いた。

「瑞樹、調子はどう?」

「うん、まぁまぁいい感じ」

 ベッドの上で体を横たえていた僕は、上半身を持ち上げる。調子は全然良くないのだけど、母に心配を掛けたくないからまた適当に嘘をついた。

「あなた、今度の土曜日、空いてる?」

「うん、空いているけど?」

「そう・・・実はあなたに会って欲しい人がいるの」

 母は静かに告げた。

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