第9話 レベル5
その後、少し金森君と話をして、僕らは解散した。
今は国道沿いの道をとぼとぼと歩いている。薄暮の街には、ヘッドライトを煌々と光らせた車たちが長い列を成してのろのろと走っていく。道路端のショッピングセンターや紳士服店の看板が、それぞれのコーポレートカラーに準じた色の光を発し、道ゆく人間に自分たちの存在を喧伝していた。
今日初めてゆっくりと金森君と話をした。今日の昼間に起こったあの事件のこと、今度の試験のこと、金森君が所属する卓球部のこと、名作ゲームシリーズの新作が今度出るんだという話―——本当に、他愛もないことを話した。
このハンバーガー店で分かったこと。それは、金森君は僕が思っていたよりも、そして僕なんかよりも遥かに自分を肯定して生きている、ということだ。
彼には障害がある。そしてそれは実生活にも明らかに悪影響を及ぼしている。本来であれば自己嫌悪に陥りそうなものだが、話してみると彼の話ぶりからはほとんどそんなことは感じられなかった。もちろん、自分の性状を隠しているところは多かれ少なかれあるだろう。だけど、むしろ自分の圧倒的な欠点と真正面から向かい合い、それらが金森君自身に牙を剥いたとて、それすらも笑って受け入れている。そんな印象を強く受けた。
それに対して僕はいつだって自己否定に走る。自分と現実の不和に悩み、それに任せて頭を両手で掴み、ばさばさと掻きむしる。
僕もある意味では金森君と同じだ。生まれつき高レベル魔術者である、というどうにも自分ではコントロールしきれない厄介ごとを抱えている。そして彼と同じように、そのせいで冷たい視線を浴びたり、心無い言葉で罵られることもされてきた。
僕と金森君とで決定的に違うのは、僕が持つ魔術能力という他人との差異を、何一つ肯定できていないということだ。僕は魔術能力を心底憎んでいた。そして、ただただ消えてなくなってしまえと、醜く無意味な呪詛を繰り返し投げかけてきた。この異能と共存していこうなどとは微塵たりとも考えもせず。
しかし、だからといって、僕が自分の魔術能力を肯定できる明らかな理由もまた見つけられなかった。僕が持つ高レベルの魔術能力はただただ、人命に危機を与えうる能力。そういう認識が、何をどうやっても拭えない。
そんなことをうだうだと考えていると、また悪いことが起こった。
もうそろそろ家に着こうかという時、発作がやってきた。手の先に暖かいものが流れていき、服の裾の内側からぽたりぽたりと水が滴り落ちる。
実のところ、こういう場面は最近特に多くなってきていた。自分が意図しないタイミングで、僕の能力であるスクウォートが勝手に発動しそうになるのだ。
こういう時、僕は体に力を入れてそれを押し留める。それだけでは収まらない時は体をよじらせてエネルギーを心臓の方へ押し戻す。あまりにも体が強張りすぎて、ぶるぶると震えるのが分かった。
ここはまだ一車線道路の路肩で、帰宅ラッシュを回避してきた車が走り抜けていく。ちょうど電信柱に据えられた街頭の下でそれが起こったので、道を走っていく車の中から、搭乗者たちが怪訝そうな顔で僕を睨んでいく。だけど、僕としてはそんなこと気にしていられない。こんな街中でスクウォートを発動させるわけにはいかないのだ。
上と下の歯をぎしぎしと噛み合わせる。歯と歯が擦れ合う雑音が、体の中で増幅されて耳に入り込んでくる。このまま歯を噛み合わせ続けていたら、そのうち上下どちらかの歯が砕けてしまうかもしれない。それほど、力を込めた。
いつまでこれが続くのか―――そう思っているうちに、どうにかこうにかエネルギーのようなものは減衰し、消えていく。
僕はアスファルトに突っ伏し、激しく呼吸をした。
一体、これは何なのだろか。情けないことに、この時の僕はまだ、この発作の意味するところを把握できていなかった。
気力だけでアパートの階段を上がり、ゾンビのような足取りで部屋の前に辿り着く。キーホルダーの付いた銀色の鍵で、家のドアを開錠し、中へなだれ込む。
家の中はもう電気がついていて、ドアの方へつま先が向けられた母のビジネスシューズが玄関の端に置かれている。どうやら今日は僕の方が遅かったらしい。
どうにかこうにか靴を脱いだところで、母の姿が見えた。
「おかえり、瑞樹」
「あぁ、うん、ただいま。今日は遅くなってごめん」
「うん、いいのよ」
母の声音を聞いて、すぐにわかった。いつもより声のトーンが低い。
肩越しに母を見上げる。その顔はいつもより少し老けて見えた。照明の影響だろうか、とも思ったが、明らかに母の顔は暗い。
「どうしたの?」
流石に気になったので、僕は単刀直入に疑念をぶつけてみた。
「実はね、瑞樹・・・これが、今日届いたみたいなの」
明らかに自然な笑いではない表情の母は、エプロンのポケットから封筒を取り出し、それを僕に見せる。
真っ白い封筒の表面に、ここの住所と酒匂瑞樹という僕の名前が記されている。そして封筒の右下には、「日本魔術規制員会」のロゴマークが描かれている。そして何より目立つ、朱色の印鑑で押された「至急開封願います」の文字。
間違いない。これはこの前の魔術能力テストの結果だ。
「これは、この前のテストの・・・」
思わず腰が抜けた。手の震えが止まらなかった。
僕は知っている。委員会が至急対応してくれ、と言ったときは大抵良くないことだ。例えば、自分の魔術がどこかで悪影響を及ぼしたとか、健康上重大な魔術的弊害が発見された時、またはレベルが上がったときなどだ。
泣きっ面に蜂とはまさにこのことだった。さっきまで自分の魔術能力についてさんざん悩んでいたのに、家に帰ってきてこれではたまったものではない。
僕の心は、鉄槌で砕かれて散らばった破片と化した。
「母さんごめん、それ別の日に見ていいかな?」
思わず弱腰になった。しかし、帰ってきたのは厳しい言葉だった。
「いいえ、今すぐに見なさい」
「だけど」
「駄目よ!あなたの気持ちは分かる。だけど、いつかは見なくちゃならないのよ?!」
「でも」
臆病風に吹かれた僕に、先延ばしという安易かつ愚かな逃げを選ぶことを母は許さなかった。母のあまりにも筋の通った正論に対し、僕は詭弁の一つも思い浮かべることはできなかった。
結局、荷物を自室に置いて着替える時間は与えられたものの、それが済んだらほぼ強制的にリビングに連れて行かれた。決して広くはない間取りのまったく長くはないその道程だというのに、僕の心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、足は力を失ってふらふらとなった。
いつものリビングでは、対面の椅子に座った母が無言のままこちらを見据えている。テーブルの上には先程見せられた封筒とハサミが置かれている。頭上の蛍光灯のじりじりという鳴き声が、不安という火種で延焼を続ける僕の内側を情景描写しているようだった。
僕は封筒とハサミをそれぞれの手で掴む。鼓動の高まりで上手く手が動かなかった。弱腰になって母を見ると、やはり鋭い視線はそのままだった。どうにもこうにも、この快適とは言い難いひりついた空間から解放されるためには封筒を開けて中身を確認するよりほかなさそうだ。
「じゃあ、開けるね」
自分の中の弱い部分を押し殺すために、僕は母にそう宣言してハサミを取る。一度深呼吸をして、封筒の折り口の隙間からハサミの刃を差し込み、小刻みに動かしながら封筒を裂いていく。僕の乱れきった精神状態とは裏腹に、ハサミは一直線の切り目を残して滑っていき、危なげもなく封筒を開封させた。
封筒の中からは、三つ折りにされたA4用紙が数枚出てきた。僕はその中の一枚を取り出す。
今一度、母を見た。母は一度だけ首を縦に振る。
もう、戻ることはできない。
僕はその紙の上下端を指でつまみ、勢いよくそれを広げた。
※
魔術能力テストの結果
拝啓 梅雨の候、ますますご隆盛のこととお喜び申し上げます。
さて、先日実施された魔術能力テストの結果、当委員会が定めるMAP分類規定に則り、貴公の魔術能力レベルを以下の通り変更することが妥当であると決定しました。
変更 レベル4→レベル5
つきましては、添付届け出用紙に必要事項を記入し、以下の期日までに関係機関へ提出をしていただきますよう、お願い致します。
※
僕は頭が真っ白になった。背中の毛穴全部から冷や汗が噴き出されるのがわかった。今手にしている書類に並ぶ文字の意味を咀嚼するので精一杯だった。
魔術能力レベルの変更―――もちろん、いつかは必ず来ると覚悟はしていたつもりだった。だけど、こんなあっさりとその時が訪れるとは思わなかった。
必要書類とその提出期限、そして形式ばった結びの言葉と続き、淡々と僕に絶望を植え付けてこのこの手紙は終わった。
何だか頭が痛くなってきた。僕は片方の掌で両目を覆い、がしがしと擦った。辛くて涙が出てきそうだった。
「ねぇ、瑞樹。一体何の連絡だったの・・・?」
真っ暗な視界の中で、母の心配そうな声が聞こえてきた。
少しの間、自分の中で涙腺から出てきそうなものを押さえつける戦いをした後、ぼんやりと輪郭を結んだ母にさっきの紙を渡した。
母は紙を手に取ると、一言も発さずに静かに文面を読んでいる。母の細くて長い指の力の入れ具合によって、時折紙が乾いた音を立てる。
僕は何となくその様子を直視できなくて、うつむきながらちらちらと母の様子を見た。この結果に対して、一体母はどんな反応を見せるのだろうか。
ややあって、母は大きく深いため息を吐き、テーブルの上に静かに紙を置いた。
「なるほど・・・魔術レベルが変更されたのであれば、早速手続きしないとね」
返ってきたのは、さっきより少しだけ上調子の母の声だ。しかし、内容はいたって事務的なものだった。
「悪いけど、明日は学校お休みしましょう。市役所に行ってこの書類を提出するの。その後は魔術装具品店に行って、新しいリングを作ってもらいましょう。お店には母さんが連絡しておくわ」
母は手早く必要事項をまとめて告げた。
だけど、僕はとてもじゃないがそんな簡単に気持ちの整理がつかなかった。
今まで定期的に検査を受けてきた。薬だって欠かさず服用してきた。八方手を尽くし、魔術の増大を少しでも食い止めようと努力してきた。そのせいで母には経済的負担を負ってもらった。だから、何が何でも結果を出して母を安心させたかった。
だけど、そんな僕らの努力を嘲笑うかのように、僕はまた上のレベルに上がってしまった。まるで僕らが怠惰のままにそれを許したかのように。これが当然の帰結なんだと言わんばかりに。
「母さん・・・ごめんなさい」
ひどく申し訳ない気持ちになった。それと同時に、虚しさや惨めさに僕は苛まれた。あまりにも強い感情のせめてもの捌け口として、僕は謝罪の言葉を垂れ流していた。このまま押し黙っていたら、精神が弾け飛んでしまいそうだった。
「僕はやっぱり、このまま使いきれない魔力を抱えて、リミットブレークを起こすしかないのかな・・・」
テーブルを挟んだ母は、僕の言葉を静かに、真剣な眼差しで聞いていた。視界が本格的に滲み始めた頃、母はこちらに回り込んで来て、椅子に座る僕の体を包み込むように腕を回してきた。
「大丈夫・・・大丈夫だから瑞樹」
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