第6話 ラストウィザード
その日は、朝からしとしとと雨が降降っていた。
梅雨だから仕方ないと言えば仕方ないのだが、どうであれこういう日は気が滅入ってくる。いくら窓の外を眺めても、雨水で彩度が薄まったモノクロの街がずっと先まで続き、その上には灰色の重苦しい雨雲が覆いかぶさっている。どこをどう切り取っても陰鬱とした雰囲気が漂っている。
太陽が顔を見せていないから暑さはそれほどでもないが、こういう日は湿気が辛い。教室の窓は全て開け放っているが、新陳代謝盛んな高校生数十人が詰め込まれている教室の不快度を下げるにはあまり意味を成していなかった。むわっとした生ぬるい空気が、常に肌にまとわりついて不快極まりない。
今は昼休みだ。
ある者は教室にいてそれぞれが最適だと思う方法で昼時を過ごしていたし、またある者は委員会や部活動の会合に出かけて行った。
僕は例によって、予習を進めていた。これも湿気のせいだと思うが、ノートと肌が触れ合う部分が気持ち悪い。気になって集中力が途切れがちだったが、どうにかこうにか次の次の授業の予習分を終えられそうだ。僕は何とかあたりを付けたので、問題集を閉じてスマホを眺める。
藍沢市の週間天気予報、新型スマートフォンのレビュー記事、ドイツの高級車メーカーのティザーサイト―――いつものネットニュースで最新の記事を見ていると、教室の前方で大きな笑い声が巻き起こるのが聞こえた。僕には関係ないことだと思ったので無視しようと思ったが、あまりにも騒々しいので自然とそちらに視線が向いた。
教室前方の教卓付近には、楠木と、奴を囲むお馴染みのメンバーたちが集まっている。それに加えて、今日は楠木たちと近しい間柄の女子たちもいる。恐らく、あの一団の誰かの席が教卓の近くにあるからあそこにいるのだろう。でも、教室のどこにいてもあの下品な輩の姿が目に入るというのは、愉快なことではない。
楠木はいつもの下品な笑いを浮かべ、一団の中心地で自慢げに話をしている。
「へっへっへ、遂に買っちまったぜ。ラストウィザードの魔力増強リング!」
ごつごつとした楠木の手首にリストリングが巻かれている。色合いとしては、赤を基調としてところどころに金ピカの装飾が添えられるという派手なものだ。ずっと見ていると目が痛くなってきそうなカラーリングだが、これがいわゆる「ラストウィザード・カラー」と呼ばれるブランドカラーなので仕方がない。
楠木はそれを誇らしげに掲げ、その場にいる全員にしっかりと見えるように見せびらかしている。
「え?!それマジでラストのリング?」
「うわいいなぁ!結構高かったんじゃないの?」
「通販サイトで安くなってたから、思わず買っちゃったよ。値段は・・・大体これくらいかな」
楠木は右手で三本の指を立て、周りの人間に示した。
統計によれば、世の中には何かしらの魔術能力を持っている人間が二、三割程度は存在していると言われている。だから、MAPの購買を狙った商品というのもまた存在するのはある意味当然だ。先程から楠木が自慢している魔力増強リストバンドもその中の一つだ。僕が普段から装着している魔力抑制リストバンドとは反対に、あれは自分の魔力を増強するための代物だ。ラストウィザードはアメリカの魔術系装飾品の会社で、押しも押されぬ高級ブランドとして世界中で愛好されている。当然、その製品はどれもが高額である。
楠木の家は、親が会社を経営しているとかで裕福だというのをどこかで聞いたことがある。高校生にとってあの三本指が示す額はかなり高いと思うが、それを安いと言ってしまう辺りに奴の金銭感覚が伺い知れる。
「これを手首に付けるだけで、二段階分の魔力向上が見込めるんだってさ!これで俺は、いまレベル3と同じ魔力を持ってるってこったな」
よほどお気に入りらしく、楠木はうっとりとした目でリストバンドを矯めつ眇めつしている。
恍惚とした顔をしていた楠木に、女子グループで最も権力があり、最も派手な見た目の上村綾音が楠木にすり寄った。
「ねぇ駿哉。折角だし、そのリストリングを着けてなんかやってみせてよ」
「え、ここでかい?うーんどうすっかなぁ」
上村はさりげなく、真っ白な両の手で楠木の手を包み込んだ。それに気付いた楠木は、遠くから見ても分かるほど鼻の下をずずずーっと伸長させた。
確かに、上村綾音のビジュアルはかなり良いと言える。高身長ですらりと長い足に、女優のように整った顔。何も知らないで見たら、ハイティーン向け雑誌の専属モデルかと思うくらいだ。だけど性格はどぎつい。自分の美貌を鼻にかけて自分本位なわがままを押し通したり、理不尽な理由で癇癪を起したりすることもあるので、僕は苦手だった。
はっきりしない態度を見せる楠木に対し、上村はわざとらしくしなを作る。
「ねぇ・・・折角そんなイケてるリング付けてるのにさあ、使わないなんて勿体ないよぉ」
「えぇ、うーん、どうしよっかなぁ」
「ねぇみんな見たいよね?」
「見たい見たーい!」
「俺たちも見たーい!」
学級のみならず学年のインフルエンサーを自負している上村の呼びかけに、周囲にいる人々は誰も異を唱えなかった。上村たちの囃し立ては傍から見ていると気持ち悪さしかなかったが、学年のアイドルたる上村綾音にお願いされたということもあって、楠木もだらしなくえへへと笑うばかりだ。
「まぁ、綾音ちゃんがそんなに言うんだったら――—ちょっとだけだよ?」
頬をぽりぽりと掻く楠木は、盛大な拍手や賛美に包まれた。
僕が教室前方で起こるくだらないやりとりを聞いて時間を潰していると、金森君がやってきて僕に声を掛けた。
「酒匂君」
「あぁ、金森君。どうしたの?」
「今、クラス全員から古文の課題を集めているんだ。提出してもらっていいかな?」
僕の机の横に立っている金森君は、何冊も積み重なった古文の問題集を抱えている。そういえば、今日は金森君が日直だ。それで課題を収集しているのだろう。
「あぁ、そっか!すぐに出すよ」
僕は机の中で積み重なる教科書類から古文の問題集を抜き去り、金森君が抱えている問題集の山の一番てっぺんへ乗っけた。
「ありがとう酒匂君」
体の自由があまり利かない中、金森君は頭だけでぺこりと礼をし、また前の席へと順繰りに課題を集めていく。
僕はまた前方を見た。楠木たちの一団はまだ馬鹿騒ぎを続けていた。しかもそのほとんどはMAPである楠木の素晴らしさを称える内容ばかり。連中と同じ場にいるだけで脳みそが腐ってきそうだった。これでは精神衛生上良くないので、僕は離席してトイレに行った。あと十数分で五時限目が始まるし、細かい準備をしておくのは重要だ。授業中に膀胱が満タンになったら目も当てられない。
教室を出て、長い廊下を各教室の縦寸法換算で四個ほど進んだところに二年生教室に最も近いトイレがある。僕はそこに入って、さっさと用を済まして、トイレを出る。僕がトイレの中にいた時間はほんの一、二分くらいなはずだ。
再び、二年生教室がある廊下を戻る。
しかし、二年生の教室がずらりと並ぶ廊下は、つい数分前とは雰囲気を異にしていた。さっきまでは自分の向かうべき場所へ向かう者、あるいはクラスの垣根を越えて談笑する者が何の変哲もない様子でいたのに、今は違う。誰もが動きを止めて、幾重かの人だかりを形成して何かに視線を向けている。廊下の先で、何やら只ならぬことが起こっているのは間違いない。小さく誰かの悲鳴のようなものも聞こえたところで、僕はその予想に確信を持った。
一番に考えたのは、やはり楠木だった。あいつ、レベル3の魔術能力を上村に披露するとか言ってたし、また何か騒ぎを起こしているんじゃないだろうか―――そう思ったが、僕はかぶりを振った。自分の見立てながら、いくら何でも短絡的な予想過ぎる。腐っても楠木だってMAPだ。強力な魔術能力をぶっ放すのがどれほど危険か知らないということはなかろう。
騒ぎに注意しつつ、教室へ戻る。だが、数メートル手前で気付いた。
生徒たちが注目している騒ぎの中心地は、まさしく僕が先程までいた二年四組教室の前だった。
僕は人の切れ目から騒ぎの爆心地を覗いた。
廊下には、へたりと腰砕けになって倒れている生徒がいる。その生徒を、二年四組の教室と廊下の境界の辺りに立っている大人数の生徒たちがせせら笑っている。この空間で起こっている事象の概要は、まぁそんなところだろう。
さらに詳らかに言えば、尻餅を着いて倒れている生徒は、僕の前の席に座っている金森君で、さらに金森君をせせら笑っているのは楠木たちだった。僕は思わず額に手を当てた。どうも僕のあまりに捻りも衒いも一切介在しない短絡的予想は、ものの見事に当たってしまったらしい。
「おい金森!逃げるんじゃねぇよ」
「ひゃあん!やめてくれぇ!」
荒々しい口調で金森君を呼ぶ楠木。瞳孔をかっと開いた金森君は、肩を揺らしながら激しく呼吸している。さっき教室を回って集めていたクラス全員分の古文の問題集が辺りに散らばっている。
「お前、俺たちに課題の催促をするとは何事だあ?お前の常識を外れた振る舞いに俺はキレたぜ!お前はただ今より、俺の魔術の威力がどれだけかを証明するための的となることを命ずる!」
「ひえぇ、そんなの嫌だよぉ!」
「うるせぇ!的風情が人間の言葉を話してんじゃねぇよ!これは決定事項だ!ただ、今をもってお前を処刑する!そこを動くなよ!」
「後生だからそんな乱暴はやめてくれぇ!頼む、頼むよぉ!」
廊下側面の壁に体をひっつけて命乞いを繰り返す金森君に、楠木はじりじりとにじり寄っていく。
奴はこの前と同様、リングをはめた手の方から火球を生み出した。だが、この前とは少し様子が違う。火球はこの前よりも大きく、より速い円周速度で横回転している。それだけではなく、時折不穏な破裂音を伴って火花を散らしている。
やはりラストウィザードのブランドは伊達じゃない。この手の商品の中には無印の類似品と性能的には大差ないくせにブランド料で金を巻き上げる部類のものあるが、これは違うらしい。この前に比べて、明らかに楠木の魔力は上がっている。
「うわぁ!やべぇよ」
「みんな楠木から離れろ!」
それを見ていた生徒たちは、危険を察知したらしい。小さな悲鳴を上げ、楠木や金森君たちから距離を取るべくこちらへ走ってきた。取り乱した彼らの体が、何度か僕の肩にぶつかる。僕は何度か後ずさりはしたが、トイレの辺りに留まって動向を見張った。楠木とは十分距離があると思ったし、金森君のことも心配だったからだ。
僕も含めて誰もが魔術の被害を被らないよう、最大限に距離を取ってこの理不尽な私刑の様子を見ている。
そんな中でも、学級委員の蓮田さんは楠木たちの方へずんずんと進み出る。
「楠木君やめなさい!ここは学校だよ?!そんな強い魔術を使っていいと思ってるの?!」
彼女の声は相変わらず凛と響く。蓮田さんの拳は強く握られており、それはぶるぶると小さく震えている。
しかし、タガの外れた楠木はこの前と同様に唾を飛ばして反論した。
「またお前かよ・・・いちいちうるせぇんだよ蓮田!文句あるかよ?」
「やめなさい!金森君が何をしたっていうの?こんなの無茶苦茶だよ!」
いつものように、怒りに任せて怒鳴り散らす楠木を向こうにまわし、蓮田さんも強い語気で対応した。
いつもであればこのまま少しの間平行線を辿り、やがて楠木の弱点に蓮田さんが舌鋒鋭く切り込んで騒ぎは収まる、ということが多い。
だけどいつもと違うのは、楠木の横に上村綾音が進み出たことだった。
「あんた、金森のこと助けたいって本当に思ってんの?」
「上村さん、そんなの当たり前でしょ?」
蓮田さんの言葉を聞いて、上村は胸の前で腕を組み合わせ、冷笑を浮かべる。
「そんなこと言ってさぁ、先生たちに気に入られたいから偽善ぶってるんでしょ?まぁ、そりゃあ当たり前か。学級委員なのにクラスの問題の一つも解決できないなんて、内申点に響くだろうしねぇ」
「別にそんなこと気にしてない。ただ、金森君は何もしてないのに、あれこれ難癖を付けて乱暴しようとすることが許せないだけ!」
勢いが衰えることなく、蓮田さんは言い切った。僕は彼女の心の中を読み取れないし、それを類推できるほど彼女のことを知らない。だけど、きっと蓮田さんが言ったことは本当のことだ。何となく、僕はそう思った。
しかし、上村はこれくらいで黙るほど単純ではなかった。彼女は邪悪な笑みを蓮田さんへぶつける。
「へぇ、なるほどねぇ・・・あんたの心意気はよくわかったよ。じゃあさ、あんたが金森の代わりに魔術の実験台になりなよ!」
「・・・え?」
楠木たち一団と対峙する蓮田さんの勢いが止まった。
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