第5話 僕の日常
朝の楠木とのすったもんだの後、一日はつつがなく進んでいった。
それぞれの教科の担当教諭が時間割通りやってきて、僕が予習した部分をなぞるように板書と口頭での説明が入る。予習と同じであれば何もしないし、違うのであればノートに訂正を加える。時折問題の回答を求められればそれに応ずる。そのほとんどが予定調和の中で進んでいく。
一方、前に座っている金森君はいかなる教科においても想定外の出来事らしく、いつだってせわしない。後ろから見ているとよくわかるのだが、まずもって体のどこかがつねに動いてそわそわとしている。
また、朝に助けてもらったというのが理由でないけれど、僕は何となく蓮田さんに目がいきがちだった。
例えば、今日の朝一番の英語の授業の時などもそうだ。
英語の授業は基本的に教科書の内容を順繰りに進めていく。最近は、環境問題がテーマの長文を一小節ごと解説しながら進めている、というところだ。教科書には、海洋汚染のメカニズムが端的に示された挿絵が載っている。
板書をしながら説明をしていた英語教師が、不意にくるりとこちらへ向く。その手には色々な色が混じり合って何色とも断定できないチョークの粉が付着している。
「それじゃあ、この問題は―――これはちょっと難しいかもなぁ、それじゃあ蓮田さん。この文の和訳を答えてみなさい」
はい、と短く返事をして、蓮田さんはノートを手にすっと立ち上がる。彼女のミディアムボブの髪がふわりと揺れる。
「閉鎖的な内湾では、海水の表層と低層で密度の差が発生しやすく、混合が起こりづらくなる。その結果、低層部ではプランクトンの死骸を分解するため表層部よりも海水内の酸素が消費され、溶存酸素濃度が低い貧酸素水塊が形成される―――これで良いでしょうか?」
僕は度肝を抜かれた心地がした。
授業の前にはできるだけ予習をして、大体の質問には答えられるようにしている。しかし、ここの小節だけは和訳に自信が無かった。関係詞がえげつないし、文法も難しい。
しかし、蓮田さんはそれを難なく答えて見せた。優等生によるケチの付けようもない回答に、先生も嬉しそうに頷いた。
「・・・完璧だな。ありがとう、座っていいぞ」
「はい」
カタリ、と小さな音と共に、蓮田さん席に腰を下ろした。
周囲から小さな声で「すげぇ・・・」と感嘆を漏らす声が聞こえる。
僕は予習ノートに予め書いてきた日本語訳に対し、大量に朱を入れるはめになった。この問題は正直破れかぶれだったのだが、やはり生半可なはったりは通用しなかったというわけだ。
僕はまた蓮田さんを見た。僕は彼女よりも後ろの席なので顔は見れないけれど、何ということもなく、またノートへの書き込みを再開しているのが見える。
蓮田さんは学級委員だ。僕は一年の頃は彼女と別のクラスだったので知らなかったのだが、どうやら彼女は入学当初からその頭脳明晰ぶりを遺憾なく発揮していたらしい。それは二年生になっても変わることなく、むしろさらに成長に弾みが付いているらしい。現に模試では、学年全体で四百人程度いる中でも五本の指に入るのが当たり前だ。
だからこそ、このクラスが始まった春先に、蓮田さんを知っている人たちはこぞって彼女を学級委員に推薦したのだろう。彼女もその期待に応えるべく、快く学級委員の任を引き受けた。
そしてクラスの構成員は、その選択は間違っていなかったことをすぐに確信するに至ったのだ。
彼女は学級の代表として、より良いクラス運営を積極的に進めているし、他クラスや先生たちとの諸々の調整もいつもばっちりだ。しかも、これは僕目線なのだけれど、クラスの女子の中では美形な方に入ると思う。
しかし、口幅ったい注意や指摘を誰に対しても遠慮なく断行するせいか、男子からも女子からも活躍と容姿に見あった人気は勝ち得ていないように見えた。しかし、そういう性格だったからこそ、朝は助かったのだ。
楠木に魔法を使わせない―――この一番いい結末を引き出せたのは、紛れもなく彼女のお陰だった。
授業を受けていると、あっという間に一日が過ぎた。
最後の授業が終わるチャイムが聞こえる。教室の窓から見える外の風景は、夕陽を浴びてオレンジ色に輝いている。昼間は無風で暑苦しかったが、夕方になって風が出てきたらしい。窓から涼しい風が流れ込んできて、ベージュのカレンダーを静かに揺らした。
この後、ほとんどの生徒は部活動や委員会に参加して、教室の中で繰り広げられる青春とはまた別の青春に興じるのだろう。だけど、僕は部活動も委員会もしていない。理由は特に無いけど、強いて言えば他人と濃い関係になるというのが苦手だったというのが最もそれらしい理由になるだろうか。
僕がバッグに教科書や筆記用具を放り込んでいると、前の席の金森君が話しかけてきた。
「酒匂君、今日はもう帰るの?」
「うん、そうだね。君は?」
「僕は部活動。もうちょっとで大会で大変だよ、あはは」
「そっか」
僕は何か気の利いたことを言おうとしたのだけれど、決して多くは無い思考時間で捻り出したのは素っ気ない言葉だけだった。それに対して金森君も言葉に困っているらしく、目を泳がせている。
「酒匂君、今日はさ―――」
「ごめん、僕そろそろ家帰らないといけないから」
金森君は何かを言いかけた。だけど、僕は何となくそれが聞きたくなくて、不必要に勢いよくバッグを背負う音で強引にそれをかき消した。
「・・・うん。じゃあね、酒匂君」
「ああ、また明日」
僕は教室後部の出入り口へ向かった。
肩越しに少し金森君を見ると、何だか寂しげな様子で椅子に座っていた。
足が止まりそうになった。だけど、僕は僕を律し、それを気取られないように勢いよく教室を出た。廊下に出ると、そこには学業から解き放たれた学生たちの明るい笑顔が、どこまでも永遠と連なっている。僕は彼らをできるだけ見ないようにして、学校を離れた。やたら、夕陽の光が目に刺さって刺激してくるから困った。
学校を離れ、夕暮れの通学路を歩く。
藍沢市は郊外型の街だ。元々は果てしなく田園が広がる場所に一本の大きな道路が敷かれ、その両脇に住宅地やスーパーマーケットが建設され、街として形作られていったという経緯がある。
藍沢北高校はその大きな道から少し奥まったところにある。僕が登下校で歩いている道も、、近年発展を続ける道路脇に広がる若く賑やかな街並みと、防風林に取り囲まれた古めかしい家々が田園の中に浮かぶ昔ながらの風景の、ちょうど境目にある。
ほとんどの学生は授業後も何かしらの活動をしているらしく、歩道にはうちの学生がぽつりぽつりとしか見えなかった。一車線分しかない車道では、大通りの渋滞を避けてきた車がエンジンを唸らせて走っていく。
いつもと同じ道を歩いている。そして、下校時にこうやって何故か惨めな気分になるのも同じ。それに加えて、何だか今日は疲れた。朝の楠木とのやり取りが未だに尾を引いているのかもしれない。
だが、他方でこんな僕にはこれくらいの惨めさを随伴させているくらいがちょうどいいのではないか―――そういうことを思ったりするのだ。
そもそも、僕は普通の人間とは違う。ちょっとしたきっかけで他人を簡単に傷つけてしまう強い力を内側に隠して生きている。今日は金森君も蓮田さんも優しくしてくれた。ついでに言えば楠木は僕に近づいて乱暴を働いた。
だけど、本当はこんなことあってはならない。
もしも彼らと僕が近い距離の存在になった時、スクウォートが暴発したら?
もしも、何かの拍子にあの鉄砲水に巻き込むことになってしまったら?
そんな心配をあちらこちらに抱えた状態で、彼らとまともに付き合うことが無理な気がした。やはり、僕は彼らを遠ざけるしかない。いつだって、それが最良の解である、と僕の脳みそは演算して弾き出すのだ。
僕は自分でも分かるくらい曲がった背中のまま、僕と母が住むアパートの階段を一歩一歩と上がる。僕らのアパートは道を挟んで広大な田んぼに面して建っている。今は田植えを終えた稲穂が少し伸びた頃で、青々とした葉をさらさらと揺らしているのが見える。
そして、ようやく部屋の前に着いた。
鍵でドアを開けて中に入る。大体の場合、僕の方が早く帰ってくる。だから部屋の中には、当たり前だが誰もいなかった。
部屋は1LDK。短い廊下の先に、リビングが見える。部屋もすっかり夕陽の色を帯びており、内装品の少ないシンプルな部屋の床にそれに準じた影を落としている。
「さて・・・朝ご飯の洗い物でもするか・・・」
独り言を言って、僕は玄関でくるりと体を翻して靴を脱いだ。
洗い物をして、炊飯器をセットした後、風呂を洗っていると、玄関の方からがちゃりと音がした。母が帰ってきたらしい。
「瑞樹、ただいま」
「母さん、お帰り」
上下グレーのスーツに身を包んだ母が、エコバッグを手に持ったまま浴室の方にやってきた。
「お風呂掃除ありがとね」
「いや、どうってことないよ」
「急いで夕飯作っちゃうから、ちょっと待っててね」
うちは母子家庭だ。父親は僕が物心付く前に死んでしまった。
だから、母は僕が幼い頃から働きに出ている。そのサポートができるよう、僕も基本的な家事はできるようになったつもりだけど、やはり料理だけは難しくてできない。多分、やれば何かしら出来上がってくるだろうが、家事のプロでもある母親にそれを出すのは流石に躊躇してしまう。
それを知ってか知らずか、夕飯はほとんどの場合母が仕事から帰ってきてから作ることが多い。母は要領がいいらしく、あっという間に数品作ってしまう。
実際のところ、今日も僕がお風呂掃除を終えて少し待っただけで、リビングのテーブルにはあっという間に夕飯が並んでいた。今日はチンジャオロース、サラダ菜、金平ごぼう、みそ汁、ごはんという組み合わせらしい。どれも出来立てらしく、立ち上る匂いに食欲をくすぐられる。帰ってきてから家事をやり続けていた僕は、思わず涎が零れてきそうになった。
「瑞樹お疲れさま。夕飯にしましょう」
僕がいつも使っているコップに麦茶を注ぎながら、母は僕に笑顔を向ける。
「うん、そうだね」
席について、手を合わせて夕食の時間が始まった。
見た目通り、母の料理はどれもおいしかった。このおいしさは、僕がかなりの空腹状態にあったというのも多分にあるのだろうけど、それを差っ引いても間違いなくおいしい。
「瑞樹、今日はどうだったの?学校は」
緩慢に流れるテレビの音に混じるように、母が僕に聞いてきた。
「まぁ、普通だね」
「そう、ならいいのだけれど・・・」
「なんでそんなこと聞くの?」
僕は何気なく母の質問に対して疑問を投げかけたのだけど、母は食事を中断して僕の顔を覗き込む。
「多分お母さんの勘違いだと思うのだけど・・・何だかいつもより元気が無い気がして・・・」
一瞬、淀みなく動いていた端を持つ手が意図せず止まった。
母の怪訝は、無理からぬ話だな―――そう思った。いつもしょうもない毎日を送っている僕だけど、それに加えて今日は心をかき乱す事がいくつか起こった。具体的に言えば、楠木や金森君や蓮田さんとの折衝についてだ。
だけど、僕は何事も無いように夕飯を再開した。
「そうかな?別に普通だよ」
「そう、ならいいんだけど。無理はしちゃだめよ」
「わかってる」
そう答えると、母はにこりと笑った。僕は思わず母から目を逸らした。
ふと、部屋の隅に飾ってある写真が目に入った。
あまり飾り気のない部屋の壁の一部に、一般的なサイズの写真がまとまって飾られている。そのほとんどは、明確に僕を被写体に据えて撮影されたものだ。具体的に挙げると、入園式、小学三年生の運動会、地区の夏祭り、中学の卒業式など。この一角だけで、手っ取り早く僕の歴史を知るのには十分すぎるほどだ。
だけど、この中に唯一僕が映っていない写真がある。
それは随分古い写真だ。映り方からして、デジカメやスマホのデータを焼いたものではなく、れっきとしたフィルム写真のようだ。それを裏付けるように、写真の端は経年のためかやや反り返っている。
その四角の映像の中で、オールドファッションな出で立ちでカメラに笑顔を向けている。一人は間違いなく若い時の母だ。今はすっかり年相応な女性という感じだが、その写真の母はまだ二十代前半くらいだろうか。その若かりし頃の母は、隣にいるポロシャツの青年に自分の真っ白な腕を絡ませている。その男の人は決して屈強というわけではない。だけど、その顔に浮かんだ莞爾とした笑いは、爽やかさと同時に内から出てくる自信が垣間見える。上手く言えないが、この曇りなき笑いは、生活の中に色を無くした僕を寄せ付けない気がした。
この男の人は、僕の父親だ。
でも、僕は父親と話したことが無い。だから、父の人柄や雰囲気といったものがどういうものか知らない。
だが、一つだけ知っていることがある。
僕の父親もまたMAPで、<スクウォート>の使い手であった、ということだ。
「ねぇ、お母さん・・・」
テレビ番組を見ていた母が、こちらを向く。
「僕のお父さんもMAPだったんだよね?」
この質問は特に意味のないことだった。父がMAPだったことは、母から聞いて知っている。先刻承知済みだ。
だから、これは言ってみれば話の切っ掛けだった。
母は麦茶を一口飲み、目を細めた。
「えぇ、そうよ。あなたと同じ、水系の魔術能力者だったのよ」
「そういえば前に話してたね・・・いや、その写真、すごくいいなぁと思ってさ」
「あら、ありがとう。この写真はね、お母さんとお父さんが婚約した辺りの写真だったかな。多分、そうね。確か東雲さんが結婚祝いを渡しに来てくれたときのだったかしらね・・・うふふ、懐かしいなぁ」
薄れつつある記憶をなぞる母は嬉しそうだ。
いちゃつく母の父を挟んで反対側にもう一人の男がいる。この人が今言っていた東雲さんという人だろうか。その表情はやや硬さがあるが、それでも優しい微笑みが顔に宿っているように見える。
「この右の人が、お父さんの友達の東雲さん?確か、この人もMAPなんだよね?」
「そうね。お父さんとは、同じ魔術能力者だからということで意気投合して、そこからはずっと仲が良かったみたい。あなたが生まれた後も、遊んでくれたりしたのよ?」
「そうなんだ・・・ごめん、覚えてないや」
「そりゃそうよ。まだあなたが一歳か二歳の頃の話よ?」
母が優しく笑う。
僕もそうやって笑えれば良かったんだろうけど、そういう気になれずにその写真をもう一度見た。
写真の中に映っている人たちは、全員清々しい笑顔を浮かべている。
きっと、この頃には父親ももう―――父親が亡くなった年を逆算して、僕は複雑な気持ちになった。
父親と東雲さん。
二人は、一体どのようにして自分の魔術能力と付き合ったのだろうか。
いくらその低解像度の写真を見つめても、答えは見つからなかった。
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