序章【絶対零度】 2 彼の日常
「アレ? なんでお前がここにいんの?」
頭と体を洗い終えた僕がいつものように露天風呂へと足を運ぶと、樽風呂に肩まで浸かっていたクラスメイトが訝しむような顔でこちらを見ていた。
僕は「やぁ」と小さく手を挙げて立ち止まる。
「なんでも何も、僕はここの常連だけど」
我が家には水は大量にあるけどもお湯がないので、必然的に近所のスーパー銭湯の常連客になっていた。
「年間パスだって持ってるんだぜ」
自慢げに言いながら隣の樽風呂に浸かった僕に、彼は「ムムム……」と言いながら口を湯舟につけ始める。かと思えば勢いよく立ち上がって白い歯を剝き出しにして微笑んでみせるのだった。確か野球部だったろうか。胴体は白いのに腕と顔は黒いというアンバランスな焼け方だった。
「お前と校外で会うのは初めてだよな?」
「記憶にないね」
基本的に僕は放課後に誰かと遊んだりはしないので、多分そうだろう。だからといってどうという事はないのだけども、彼は随分と嬉しそうな顔で続ける。
「折角だしこれを機に親睦を深めるか。まずは女風呂でも覗こうぜ」
「僕は覗かないぞ。ひとりでやってろ。直ちに通報してやるから」
「はぁ? 馬鹿じゃねぇの。ふざけんなよ」
「いや、馬鹿はお前だろ。ふざけんな」
「まあ、アレだ。冗談だけどな。騙されちゃって馬鹿じゃね?」
「ムカつくわぁ」
「……なんかお前って学校の外だと違うのな」
頭に乗せていた手拭いで顔を拭いた級友に、僕は「そうかぁ?」と苦笑を向ける。
「まあほら、色々とあったじゃんか……。あんまり気に病むなよな。いや、まあ元気そうだけどさ」
「別に僕はいつでも元気だぞ」
「レンタロー! 大変だ! 私は重大なミスに気づいた! お金がないからお風呂を出ても牛乳が飲めない! 助けてレンタロー」
女風呂と男風呂を区切る石壁の向こう側から、ユーリの声が届いた。ユーリは基本的にお風呂が苦手なのである。とにかくじっとしていられない性格で、殆どカラスの行水だ。
「あと八分な」
「それ超長いんだけど!」
僕はユーリの声から逃げるように樽風呂から腰を上げて、洞くつ風呂へと移動することに決めた。その僕の背中に友人がついてくる。
「誰?」
「誰って?」
「相手だよ」
「あー……」
うー、と頭を捻った。ユーリ曰く人質らしいけどそれを正直に言うのは違うし、恋人でもなければ家族でもない。
「い、もうと的な?」
とりあえず嘘を吐いた。学校での立場を考慮したのだ。
「え、お前って妹いるの? お前に似てる?」
「うーん、……似てるかな」
ユーリの方は全くだけども、本物の妹のほうは割と僕に似ていた。そっくりねぇ、と親戚によく言われるほどだ。性格は正反対だが、顔のパーツだけを見れば僕自身も似ているとは思うし、仕草や口調にも共通点が見受けられる。だからとりあえずはそっちに合わせて僕は首肯した。
「じゃあ今度紹介しろよな」
「え、なに? お前って僕に気があるのかよ」
「ねぇよ。でも妹には興味がある」
「僕は妹には興味がない」
対する妹も僕には興味がないようである。
僕は妹が苦手だったし、妹は僕を軽蔑しているようだった。
妹は僕の本性と正体に気がついているのだ。妹が僕にみせる表情は決まって
「まあこの年になると自然と不仲になるよな。というかお前ってれんたろうって名前だったのな」
洞くつ風呂に踏み入った友人の声音が反響する。他に客の姿はないようだ。
僕は一番奥まで進んで、その場にあぐらをかいた。その向かいに友人は座ったようだが、湯気であまり顔が見えなかった。
「……実のところ依古島さんの事、どう思ってたんだ?」
そんな環境が彼の口を開かせたのかもしれない。
僕と依古島深雪にはある噂があった。付き合っているのでは? という陳腐なモノだが、僕からしてみればいい迷惑だったし、それは依古島深雪も同じだろう。
「別にどうも思ってないけど」
「嘘こけ。二人きりで歩いている姿を何度も目撃されてるだろ」
「それは相談に乗っていただけだよ」
依古島深雪は悩んでいたのだ。
そして、彼女は死を選んだ。
「相談ってなんだよ?」
「教えない」
「……依古島さんは北村ちゃんのことをどう思ってたんだろうな」
「僕に聞くなよ」
好意を抱いていたのは確かだが、依古島深雪の感情なんて僕にはわからなかった。
「そうだよな、すまん」
「そろそろだな」
「あん?」
「ほら、妹を待たせてるから」
「おう、あばよ」
立ち上がり、足を進める。彼の脇を通った僕は一度そこで振り返った。
「あー、そうだ。夜道には気をつけたほうがいいぜ」
「あん? 俺はこれでも野球部のエースなんだぜ。変質者なんてどうってことねぇよ」
「なんで変質者がお前を襲うと思ったんだよ……」
「アア――ッ!」
くだらない級友に失笑した僕は、洞くつ風呂をあとにした。
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