序章【絶対零度】 ① 遺書

 僕が初めて自分に違和感を覚えたのは、祖母が倒れて入院を余儀なくされた時だった。

 僕は祖母を愛していたし、祖母もまた僕を可愛がってくれていたのに、どういう訳か僕は祖母が亡くなるその日を心待ちにしていたのである。

 言い訳に聞こえるかもしれないけど、当然心配だったし、死んで欲しくはなかったのに、僕の心の片隅には祖母が死ぬ事で起こるであろう非日常的なイベントを、まるで夏休みを待ち望む子供のように楽しみにしている自分がいたのだ。


「兄さんはどうして泣かないの?」

 祖母が亡くなった夜。呼び出された病室で、冬の朝のように冷たくなった遺体と対面した僕に、妹は糾弾するかのように問い掛けてきたのだった。


「どうして笑っているの?」

 僕はその瞬間、自分の心が酷く乾いている事を自覚させられたのだ。


                   ★


 その日は、登校日だった。

 連日の猛暑のせいか、酷く静かな朝だった。それともこの静寂の正体は、クラスメイトの依古島深雪よこじま みゆきが先日水死体で発見されたせいだろうか。

 うだるような暑さから逃れるようにクーラーの効いた教室に逃げ込んだ僕を待っていたのは、悲しみに暮れる生徒たちだった。

 一部の女子は机に置かれた遺影と花の前で人目も憚らず号泣し、普段は騒いでいる男子生徒たちでさえも沈痛な面持ちで、それぞれが依古島深雪の死を嘆き、彼女との思い出話を語らっていた。


「……北村ちゃん」

 いつものように席に着いた僕の肩に、坊主頭の友人の手が乗った。

 いつも下ネタばかりを口にする彼もまた、彼女の死を悼んでいるようだった。


「こんな時に不謹慎かもしれないけど、元気出せよな北村ちゃん!」

 強がるように笑顔を見せた彼に、僕は首を傾げる。


「どうして?」

「どうして? って――いや、すまん。元気なんて出せるはずがないよな……彼女があんな事になっちゃってさ……」

「ああ、まあ……うん。それは別に」

 友人はそんな僕にバツが悪そうに苦笑を見せてから、教室の前方、たった今登校してきた男子生徒――片倉を睨むように視線を向けた。


「片倉ってどうして――モテるんだろうな」

「僕やキミと違って顔が整ってるからじゃない?」

 片倉は僕らのような日陰者とは違い、日なた――どころか太陽のような人間だった。優男然とした爽やかなルックスで、女子はおろか男子からの人望も厚く、その証拠に来月の末に行われる生徒会の引き継ぎ式で、彼は生徒会長の座に就くことが確定している。

 本来なら夏休み明けに選挙が行われるのだが、片倉が立候補をするという事が校内に知れ渡った途端、他の立候補者が辞退してしまうというアクシデントが起こったからだ。


「ひでぇ……。そんなにサラサラヘアの爽やか系男子がいいのかね」

「ハンサムな上に、お金持ちらしいからねぇ」

「な!」

 と、友人が僕の肩を強く叩いた。不快感を露わにすると友人は「すまん」と手を合わせて頭を下げた。


「いや、つい興奮してしまって。でもそれにしたってズルいだろ、チートだろ。俺は騙されないぞ。あいつは絶対に軽薄だ。女の耳元で愛を囁いたあとに、今度はその口で、別の女とキスをするんだぜ」

「すごい偏見だ」

「偏見じゃないぞ。女子大生を自殺に追い込んだって噂があるくらいだしな。火のないところに煙はたたないっていうだろ。色々と黒い噂もあるって話だぜ」

 片倉の人望には脱帽してしまうけれど、その人望を嫉む者がいるのも当然といえば当然だった。女子大生云々というのは、そんな輩が流した噂ではないか、というのが大方の見解で、僕もその意見に賛成の立場だった。


「それに依古島さんとも――あ、またすまん」

「依古島と二人でいるところを目撃されてるんでしょ」

「……うむ」

 申し訳なさそうに友人は首肯した。その噂は本当である。

 僕自身がこの目で確かめた。


「今回の件、怪しいよな、片倉。ああいう人間には裏があるもんだぜ」

「単なる願望でしょ、それ」

「うるせぇ。人の彼女を寝取るような――あ……すまん、マジですまん。少し黙るわ、俺……」

「だからいいってば。本当に僕は気にしていないから」

 依古島深雪に対する興味関心は、とっくに消え失せていた。

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