序章【絶対零度】 ③ 誘蛾灯

 七園ユウリに出会ったのは、初夏である。

 僕は彼女が内包する死の匂いに、無性に惹かれたのだ。それともあるいは、引き寄せられたのだろうか。


 誘蛾灯に焼殺される蛾のように。


「私はなぁ、朝起きてなぁ、そこに死体があってなぁ、ビックリした」

 身振り手振りを交えて依古島深雪の遺体を発見した際の驚きを説明し終えた彼女は、僕が差し出した缶ジュースを受け取るとグビグビと飲み始めた。


「本当は牛乳がよかったんだけど、お風呂上がりのコーラも美味しいよね」


 依古島深雪の遺体が発見されてから七日が経過していた。

 

「僕はね」

 僕は七園ユウリを見るたびに生きた死体を連想する。

 例えば片目を覆うように伸びた長くて黒くて昏い前髪とか、もう片方の仄暗い瞳とか、陶器のように青白いその肌とか。


 とてもまともに生きているようには見えなかった。


 殺してみたい――漠然とそう思ったのは初めてだった。

 一目見た瞬間から抱いたこの感情の正体を僕は知りたかった。だから僕は彼女に声をかけたのだ。殆ど一目惚れといっても差し支えないだろう。


「何も感じないんだ」

 唐突にそう口にすると、彼女の異様に大きな瞳が僕を捉えた。骸骨のようだ、と思った。


「祖母が死んでも、妹を殺しても、を殺しても、僕の心は空っぽなんだ」

「ははは、中二だなぁ」

 と、小学生が笑う。

 

 僕が妹を自宅の階段から突き落としたのは、二年前の事だった。

 想像を上回る激しい音を立てて木製の階段を転げ落ちた妹の首は反対を向いていた。それでもまだ息はあったらしく、目に涙を浮かべながら「やっぱりね」という哀れみの表情で僕を見つめながら息を引き取った。


 両親や親戚が嗚咽を漏らす中、僕だけが真顔で遺影を見ていた。何も思わなかった。僕の感情は動かなかった。

 やはり僕は壊れているのかもしれない。酷く不安になったのを今でも明瞭に覚えている。


「お祖母ちゃんを殺しても、妹を殺しても、恋人を殺してもダメなら、それはもう、自分を殺してみるかしないだろうね」

「え」

 虚を衝かれた思いだった。僕は隣の彼女を見た。

 僕の側から見えるのは、彼女の長い前髪だ。その奥の眼球が、どんな色をしているのか、どんな感情を映し出しているのか、僕にはわからなかった。


「私を殺すよりもよっぽど有意義だと思うよ」

 僕の心を見透かした彼女の黒髪が夏の夜風に揺れる。僅かに口許が緩んでいた。


「そうだね。キミを殺してからなら自分を殺すのもありかなって思い始めたよ。今までそんなこと考えもしなかった」

 生きることに執着はなかった。

 もちろん僕の本能は茫漠としたその最期に恐怖を抱いてはいるけども、この先、こんな狂った心を抱えたまま長い長い人生を全うするよりかは、幾分かマシだと思った。どうせまともな終わりは迎えられそうにもないし、だったらいっそ自分で自分を殺すのもありかもしれない。


「私を殺すの?」

「ごめんね」

「もしも私を殺すのなら、私に謝るんじゃなくて、レンタローに謝ったほうがいいかも」

「レンタローって誰?」

「片倉れんたろー」

「……なんで、急に片倉?」

 片倉蓮太郎は僕のクラスメイトで件の完ぺき超人だ。

 その片倉がどうして突然会話に現れたのか僕にはわからなかった。僕は目を眇める。


「私はレンタローの人質だからねー。人質が勝手に誰かに殺されたら困るでしょ? きっとレンタローは激怒――しないや。ごめんね、嘘をついちゃったかも」

 ワケがわからなかった。彼女が片倉の人質? 意味不明だ。

 まったく要領を得ない回答である。ますます頭の中の糸がこんがらがった。

 片倉は僕の友人が言うように危ないヤツなのだろうか。少なくとも人質という言葉からは穏やかな印象は受けない。

 そもそもこの少女と。得体の知れないこの女と知り合いな時点で――、


「キタムラとレンタローは少し似てるけど根本の部分がまるで違う。キタムラは自分を乾いてるって言ってるけど。レンタロ―は凍ってるんだ。永久凍土? 絶対零度? そんな感じ」

「片倉が?」

「レンタローは仮に誰かを殺したとしてもきっと何も悩まないし、なんとも思わない。多分だけど、気持ち悪ぅみたいな反応だけする。ばっちぃのは嫌いだからね」


 僕は片倉の温和な表情を想起する。片倉は僕のような人間にも等しく接する人間だ。そう――等しく。どこまでも対等に。決して見下したり、誰かを贔屓したりはしない。まるで機械のように。


 外から観察していると片倉には特定の友人がいないように見えた。

 無論、彼の周りにはいつも人が大勢集まっているけれど、片倉蓮太郎が誰かの近くに歩み寄ることはなかった。


 いや、違う。僕はこうべを振った。片倉は依古島深雪に手を出していたではないか。彼女の家に足を運んでいた。


「依古島深雪から相談されていたらしいよ」

「……相談?」

「もしかしたら彼氏に――キタムラに殺されるかもしれないって」

「いや、相談って。もしもそんな相談をしていたのならどうして僕に大人しく殺されたんだよ? 変だろそんなの」

「そんな事、私やレンタローには関係がないので」

 さっぱりさー、と七園ユウリは歪に微笑んだ。

 僕と依古島深雪は俗にいう幼馴染みだった。同じ団地で幼少期を過ごした。僕が市外の一軒家に引っ越してからしばらくは疎遠になっていたけども、高校になって再会し、そして付き合う事になったのだ。


 僕は依古島深雪に少なからず特別な感情を持っていたけども、殺しても何も感じなかった。涙は出なかった。地面に横たわった依古島深雪の亡骸は、僕に同情しているかのようだった。


「というかさ、キタムラは壊れてなんかいないよ。狂ってなんかいないよ。乾いてさえもいないよ。そういう風に思い込んでいるだけでしょう?」


 詰問するように彼女が問い掛けてくる。


「違うよ、僕は狂ってるんだ。僕は異常なんだ」

「どこがかなー?」

「妹と依古島を殺した」

「だから?」

「おかしいんだよッ! こんな事は!!」

「キタムラはさ、前に言ったよね。妹に責められるような事を言われた、って」

 祖母が亡くなったときの話を彼女にしたことがあった。その事を言っているのだろう。


「だから苦手だって。だから怖いって言ってた」

 僕は妹が怖かった。いつか僕の化けの皮を剥がすのではないかと、そんな恐怖にいつも怯えていた。僕は傍から見れば親の言う事をよく聞くいい子だったから。


「だから殺したんでしょう? 自分が狂っているのか、そうでないかを確かめるためなんかじゃなくて。自分を守るために殺しただけでしょう? 普通の、至極真っ当な理由の殺人だよ。依古島深雪の件もそうだよ。キタムラは依古島深雪が浮気してるって勘違いをしたんでしょう? だから殺したんでしょう? 退屈なほどにありふれた理由だよね。期待外れだなぁ。第一印象だけならちょびっとだけいい感じだったのに」

「違う――僕は……、」


 そうだ――違う。確かに僕は嫉妬に狂って依古島深雪を殺してしまったのかもしれない。でも問題はそこではなかった。僕に依古島深雪が別の男と一緒にいる、と唆したのは七園ユウリ彼女なのである。

 そして恐らくは、依古島深雪に何かを吹き込んだのもきっと……、


「お前……ナニモノだよ?」


 そうでないと成立しないのだ。順序がおかしいのである。

 僕は依古島深雪と片倉蓮太郎の関係を勘違いして殺意を抱いた。しかし依古島深雪は僕に殺されるかもしれない、と片倉蓮太郎に相談を持ち掛けた。

 それともやはり僕は自分が正常なのか否かを確かめるために依古島深雪を殺害したのだろうか。

 違う、と僕は確信する。

 隣に座る少女から底の知れない悪意を感じたからだ。


 僕はずっと僕が狂っているのだと思い込んでいた。でも、今の彼女を見たらそれが単なる勘違いに過ぎなかった事は明白だった。だって、僕なんかよりも彼女の方がよっぽど狂――、


「嫌だなぁ、私はただの人質だよー」

 思考を遮るように、彼女は言う。

 僕はハメられたのである。なんのために? そんな事わかるはずがなかった。彼女なら――七園ユーリならほんの気まぐれで人を殺しても不思議ではなかった。

 骨のようなその腕も、夜の海のように底を感じさせないその双眸も、カラスのようなその髪の毛も、全て気味が悪い。


「そろそろレンタローが私を探してここに来るよ」

 七園ユウリは土手の上に視線を向けた。そこに片倉の姿はまだない。自転車が一台、通っただけだ。何故だか過ぎ行くそれが無性に恋しくて手を伸ばした。

 鼓動がドラムのように大きな音を立てているのがわかる。僕は、七園ユウリに恐怖心を抱いていた。


「違う!」

 自分の感情を否定する。こんな小さな女の子が怖いはずがない。


 ――兄さんはどうして泣かないの?

 ふと蘇ったのは、あの日の妹の言葉だった。


「どうして笑ってるんだよ⁉」

 七園ユウリの首を絞めながら、怒声を浴びせる。骨さえも折れるような強さで絞め付けているはずなのに、彼女は真っすぐと僕を見つめて、口端を上げている。それはあの日の依古島深雪を想起させた。

 

 ――キミに殺されるのなら別にいいやって思ったんだ。

 依古島深雪の最期の言葉が耳を撫でる。それは、恐怖で少しだけ震えていた。強がっているのは明らかだった。


「ところで、キタムラ。いつになったら死ぬの?」

 七園ユウリは満面の笑みで僕に問い掛ける。それは今まで僕にみせた中で一番の笑顔だった。どうして彼女コレは平気なのだろう。どうして彼女コレは死なないのだろう。どうやったら殺せるのだろう。


「オマエは! 一体なんなんだよ――ッ!?」

 明確に何かが折れる音が辺りに響いたかと思えば、鉄橋を通過する電車の騒音に搔き消される。その間際、確かに彼女は言った。「  」だと。


 七園ユウリの人差し指が僕の眉間に触れる。折れたはずの首が、一度は輝きを失ったはずの彼女の瞳が、僕に向けられる。


「バイバイ」

 それは皮肉にも、あの日の依古島深雪の声音で再生された。

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