第三十九話 エメはテオドールが好き
ロラの家を出ると、日はすっかり沈んでいて、暗い夜道の反対側の街灯の光の少し外側に不機嫌そうなアダンが立っていて、エメは危うく叫び声を上げるところだった。鋭い目付きが、いつにも増して悪くなっている。
アダンはエメが出てきたのを見ると、不機嫌そうに大股に近寄ってくる。アダンの剣幕に思わず一歩下がるエメに、アダンはぐいっと顔を近付けて見下ろした。エメの背が逃げるように反らされる。
エメはそこでようやく、アダンがグリモワールを持っていることに気付いた。もしかすると、ダンジョンで何かあったのだろうか。
エメの姿を頭から爪先まで眺めた後、アダンは不機嫌そうな表情を変えないまま、ぽつりと呟いた。
「無事で良かった」
「……え?」
アダンはその手のグリモワールをエメの胸に押し付ける。エメはアダンの言葉の意味を捉え損ねたまま、グリモワールを受け取ってその腕に抱いた。アダンはそのままエメの腕を掴んで歩き出した。エメも慌てて足を動かした。
「飯は?」
「あ、まだ買ってなかった」
アダンは舌打ちして「そんなこったろうと思った」と、そのまま歩くスピードを緩めない。
途中で食堂に寄って出来合いの料理を
「え、あの……アダンさん……? 何かありましたか?」
「何かあったかはこっちの台詞だ。真っ暗になるまで音沙汰なしで……何かあったかと思ったんだよ」
アダンはエメの手を両手で握りしめて、エメの膝に額を付ける。エメは瞬きしてアダンの姿を見下ろしていた。
そのまましばらくアダンが動かないので、エメも動けなかった。
「わかってはいるんだ。あれから百五十年経ってる。あんなに治安は悪くないし、女の一人歩きだって珍しくない。でも……」
エメの手を包むアダンの手に、ぎゅっと力が入る。
「あんたが無防備すぎるのがいけないんだ。危機感なさすぎるし。ぼんやりしてて騙されやすくて」
そこまで言われて、エメはようやくアダンに心配されていたのだと気付いた。エメにとっては随分と大袈裟に思えたけれど、きっとそれは百五十年の違いなのだろう。アダンから聞いた百五十年前の様子は、エメが想像もできないくらいに治安が悪かったみたいだから。
エメは、以前アーさんにしていたみたいに、アダンの頭にそっと手を置いて髪の毛を撫でた。アダンの黒い髪は硬くて、アーさんの柔らかかった髪とは随分手触りが違う。それでもこうしているとまるでアーさんが拗ねたときのようだった。
「あの……心配かけてしまったみたいで、ごめんなさい。迷子の子を家まで送ったら、思わぬ再会がありまして、それで少しだけのつもりでお話を」
エメの言葉に、アダンはまた舌打ちをした。
「なに簡単に謝ってんだよ、謝るようなこともしてないのに」
「え、でも、わたしがアダンさんのところに来るのが遅れたから……」
「それだって別に……あんたがここに来るも来ないも自由なんだよ、好きにして良いんだ。ここはあんたの家じゃないし、ここに来る必要もない。だから、あんたがここに来ないからって、こんなになってる俺の方がおかしいんだ」
そう言いながらも、アダンはエメの手を離そうとしないし、エメの膝にはアダンの額がくっついたままだ。エメは何を言えば良いのかわからなくて、ただアダンの頭を撫でていた。
「自分の反応が過剰なのは自覚してる。今はもう、前みたいな心配しなくて良いってこともわかってる。それでも、もしかしたらって、いつも来るはずのあんたが暗くなっても来なくて嫌なことばかり思い出して」
「アダンさん」
エメは背中を丸めてアダンの頭に顔を近付けると、静かに呼び掛けた。アダンは言葉を止めたけど、まるでエメの声に応えるように、指先に力を込めた。
「そうやって心配してもらえて嬉しいです。迎えに来てもらったのも、さっきはびっくりしましたけど、嬉しかったです。ありがとうございます」
エメが素直な気持ちを言葉にしてアダンに伝えると、アダンはその姿勢のまま長くて大きな溜息をついた。
いつまでも続くかのような溜息が終わると、エメの手を解放して、アダンは立ち上がった。相変わらず目付きが悪くて、唇は不機嫌そうに引き結ばれていて、そして不健康に青白い頬に珍しく赤みが差している。顔を隠すように片手で前髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜている。
「とにかく……腹減った、飯食おう」
「はい」
エメの返事にアダンは舌打ちをする。エメとは目を合わせずに、テーブルの上に置いたままになっていた
まだ少し赤みの残る頬で、ようやくエメを見ると、小さく呟く。
「ま、無事で良かったよ、ほんと」
「おかげさまで」
エメはアダンと視線を合わせて、嬉しそうに笑うと、両手を伸ばして揚げパンを受け取った。
エメがまだ半分も食べないうちに、アダンは一つ目のパンを食べ終えて、包みの中から揚げ芋を取り出して食べ始めた。
「そういえば、よくわかりましたね、わたしの居場所」
「ああ、グリモワールに探させた」
エメは首を傾けて、向こう側に投げ出されたままになっているグリモワールを見た。
「アダンさん、操作したんですか?」
「まさか。俺には操作権限ないからな」
普段からエメの
「グリモワールには状況を説明して
「グリモワールさんが、わたしを探せるんですか?」
エメの声に反応したのか、グリモワールが表紙を開いて浮き上がった。エメは慌ててそれを止める。
「グリモワールさん、今はまだそこで。食事中なので。それに、揚げパンなので油が」
エメの制止に、グリモワールはしゅんと表紙を閉じて、またソファに戻る。エメはほっと息を吐いてアダンに話の続きを促した。
「一定範囲内ならダンジョンマスターの
「へえ……便利なんですね」
エメがぼんやりと感想を口にすると、アダンは微妙な表情を見せた。
「監視されてるようなものだぞ」
「でも、アダンさんはそれでわたしを見付けたワケですから、やっぱり便利じゃないですか?」
エメは大きく頷いて「うん、やっぱり便利ですよ」などと言ってパンにかぶりつく。アダンはエメの姿を見て苦笑した。
エメがきちんと一人前を食べるようになったのはいつからだったろうか。エメが屈託なく食べている姿を見るだけで、アダンは今でもほっとする。
「そうだ、
「あんた好きだよな、それ」
「初めてレオノブルに連れてってもらった時に、誰かにもらって食べたんですよね。ずっと田舎の育ちだったので、初めて見る
「レオノブルがきらきらね……俺にはぴんとこないな」
ロラと初めて出会った時のことを思い出して、エメはふふっと笑う。その笑い声にアダンが拗ねたように目を細めた。
「なに」
「あ、ごめんなさい、思い出し笑いです。今日再会した人なんですけど、初めてレオノブルに行った時に会った人だったので、懐かしいなって。わたしが冒険者になりたいなって思ったきっかけの人だったんです」
話しながらも自分の言葉で何を思い出すのか、エメはまたくすくすと笑った。
「ふうん……
「ええと、確か一番上の兄が成人して……わたしは確か五歳でした」
「あんた今
「こないだ十八になりました。そういえば、アダンさんの歳も聞いたことないです」
「あー、俺は……どう数えたら良いんだろうな」
アダンは指先についた油を舐めながら、視線を天井に向けて考える。
「契約破棄された時は、確か二十四だったかな。ダンジョンマスターになって五年目。アーさんとして召喚されてから一年は経ってるから、二十五になってるのか。それとも生まれ年考えたら百八十歳ってことになんのかね」
「百八十は、さすがに違うと思いますけど……姉が二十五なので、同じですね。どうりで大人っぽいです」
「その感想が子供っぽいだろ。成人前のガキか」
「え、そうですか?」
アダンは揚げ芋を一切れ摘んで、ぽかんと開いたエメの口に押し込んだ。エメが思わず閉じた唇に挟まれて、アダンの指がエメの口から離れてゆく。
「それで、その冒険者になるきっかけってのは、なんだったんだ?」
アダンは揚げ芋を自分の口にも放り込んで、エメが口の中の揚げ芋を咀嚼して飲み込むのを待つ。エメは頭の中で何を思い出したのか、またふふっと笑った。
「ええっと、そうですね、どこから話したら良いものか。初めてレオノブルに行った時に、兄と市場に行ったんですけどそこで兄とはぐれてしまってですね。あ、そもそも、わたしの出身はジェルメっていう村で、レオノブルから馬車で一日のところにある田舎なんですけど」
アダンは包みの中からパンをもう一つ出して、それを食べながらエメの話を聞く。エメの話はあっちこっちにふらふらと寄り道しながら危なっかしく進んでゆく。それでも、楽しそうに語るので、子供の頃のエメは幸せだったのだろうなとアダンは思った。
幸せに育って、だからこんなに無防備で、だからこんなに危なっかしく見えるのだろう。アダンはエメといると自分までその幸せな世界の中に巻き込まれている気持ちになる。自分の境遇を不幸だとも思ってないし、人の幸せを羨ましいと思ったこともなかったのだけれど、エメの幸せの隣にいるのは存外心地が良くて、最近は手放すのが惜しくなってきていた。
エメはアダンに向かって、ロラという名前の
アダンは、エメが他の
「あんたはさ、レベル100の
アダンの問いかけに、エメは言葉を止めて首を振った。
「まさか。自分がテオドールみたいになれるなんて、子供の時だって思ってなかったです。でも、
「まあ、あんたの
エメはまた首を振って、笑ってアダンを見る。
「良いんです。代わりにわたしは、ダンジョンを作ることにしたんですから。
「ふうん」
アダンは指先の油を舐めながら、エメに目を向けた。
「レベル100を目指すのも、面白いかもな」
「え……」
アダンは、返答に困って口を閉ざしたエメに向かって、にやりと笑ってみせた。
「俺がなってやるよ、
エメは目を瞬かせてアダンを見た。今までレベル100なんて、それこそ
アダンはいつもの余裕ぶった笑みを浮かべていた。その表情を見ながら、この人なら本当にやってしまうかもしれないとエメは思ってしまった。そして、アダンが
「作ります! レベル100になったアダンさんが面白いって思うようなマップを
身を乗り出してアダンを見上げるエメの瞳がきらきらと輝いて、頬が上気している。あれこれと悩みながらも楽しそうに
「そうだな、あんたが作るマップ、俺が全部
「はい! アダンさんのために
エメが嬉しそうにそう言ったとき、グリモワールがエメの目の前にやってきて表紙を開いた。エメは油でべたべたになった手で触ってしまわないように、両手のひらを肩の高さにあげた。
──マスター、特定個人に対して利があるようなダンジョン運営は不正行為です。
「え、あ、えっと、今のはそういうつもりではなくてですね、アダンさんのためではあるんですけど、もちろんアダンさんのためだけのつもりはないですし、ちゃんと他の冒険者のことも考えますし」
──そもそも冒険者とダンジョンマスターがダンジョン運営や、まして
「え、あの、ごめんなさい、でも」
「空気読め
──マスター、この男を
エメに近寄ってくるグリモワールに油がつきそうで、エメは背中をそらして懸命に距離をとる。
「グリモワールさん、今は手が汚れてます!」
叫ぶようなエメの言葉に、グリモワールは動きを止めてそっとエメから離れた。
「油まみれの手で
アダンからはグリモワールの綴る言葉は見えていないはずだ。だというのにアダンは何が綴られているのか知っているかのように、苛ついていた。見なくても想像はついているのだろう。
──この男を即刻
「グリモワールさん、とにかくもう少し離れていてください。まだ食事中ですから」
グリモワールはしゅんとソファの上に身を横たえて、そして静かに表紙を閉じた。アダンは苛立ちのままに舌打ちをする。
エメはほっと息を吐いて、改めてアダンに向き直った。
「そうだ、あのですね、わたしまだ
そこまででもう、アダンにはエメの言いたいことが想像できてしまった。アダンはエメの言葉を遮って、口を開く。
「
「それは……そうかもしれないですけど、でも、もしかしたら契約できるかもしれないですし」
エメの言葉を聞いて、アダンは大きな溜息をついた。
「やっぱまだ当分ダメだ。もしかしたらで
エメは納得行かない様子で、唇を尖らせてぶちぶちとでもだってを繰り返している。直接アダンに言ってこないのは、エメ自身も自分の危うさを多少は自覚しているかららしい。
アダンはその様子に苦笑して、少しだけ折れることにした。
「今後の生活態度次第で考えてやる。無理しない範囲で錬成用の銅貨を貯めてみろ。それが11連分溜まったら、錬成しても良い。少しでも無理してたら錬成なんざできないものと思えよ」
アダンの言葉に、エメはぱっと顔を輝かせた。もしかしたら今日一番の良い笑顔かもしれない。エメの表情の素直さにイラっとして、アダンは手を伸ばすと油まみれの指先でエメのおでこを弾いた。
その日の夜、エメはそのままアダンの家のソファで眠ってしまった。アダンもダンジョンに行きそびれたまま、手持ち無沙汰を持て余してそのままソファで眠った。
翌朝、エメはアダンに起こされて小さな欠伸をしながら起き上がる。
「
ぼんやりとグリモワールを探すのをアダンが止める。テーブルの上には昨日の食べ物の包みがそのままで、眠ったのも話している最中だった。エメもアダンも手や顔や髪が油で酷いことになっている。アダンがエメと自分に
手が綺麗になって真っ先に、エメはグリモワールを開いて
エメがブラシで髪の毛を梳かしている間、アダンは膝に肘をついてその手の上に軽く顎を乗せて、少し離れたところにあるグリモワールをじっと見ていた。ちょうど朝の光が部屋に差し込んで、ぐちゃぐちゃのテーブルの上やぼんやりとした眼差しのアダンを柔らかく照らしている。
「なあ、エメ」
アダンがグリモワールに視線をやったまま、エメに声をかける。エメが手を止めて「はい」と返事をすると、ようやくアダンはエメの方を見た。
「あんたさ、この家に引っ越してこないか。部屋は余ってるから」
「ええと……アダンさんの家で暮らすってことでしょうか」
「その方がいろいろと心配がないなと思って。それに、なんだかんだ毎日家に来てるんだから、同じことだろ」
「同じこと……ですかね……?」
エメは首を傾けて考える。アダンは大袈裟なくらいに頷いてみせた。
「同じだろ。アーさんだった時とも同じだ」
アーさんの名前を出されて、エメは笑った。アーさんがいなくなって、急に部屋に一人になって、寂しく感じていたのは確かだった。アダンももしかしたら、同じように思っているのかもしれない。そう思うと、なんだか嬉しいようなくすぐったいような、恥ずかしいような気持ちになる。
「そうですね、同じかもしれません」
ダンジョンマスターと冒険者は顔を見合わせて、お互いの秘密を共有していることを確かめ合うように、ひっそりと笑顔を交わし合った。
メテオールはやがて、初心者から超上級者向けのマップを一通り揃えた大きなダンジョンになる。それだけのマップ数がありながら、どのマップも一ヶ月ほどで入れ替わる。
なのでギルドは冒険者からの情報の買い取りに熱心だ。ギルドが発行する
最近は「満月の女神 アルテミス」と「新月の女神 アルテミス」のどちらかに
順番登録がないので、
ある日、メテオールのダンジョンに新しいマップが登場する。そのマップにはたくさんの
そのマップを最初に
その探索の情報はギルドによって
噂によれば、アダンは
また、その
メテオールのダンジョンは、また新しいマップを公開する。そして、アダンはそれを探索し、
そう遠くない未来に、アダンはレベル100になる。そして、アダンの探索の情報をまとめた
メテオールのダンジョンマスターは、そんな未来を夢見ている。
めでたしめでたし。多分、いつかは。
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