第三十七話 エメは百五十年前のことを知りたい
アダンがレベル50になるのに一ヶ月かからなかった。
おかげでアダンとアダンがやっている
アダンのやり方は
様々な冒険者がいて、その理由や目的も様々だ。多くの冒険者にとって、レベルは探索の一要素でしかなかった。
アダンは
グリモワールはエメに「
魔虹石生成の確率も少し高くなっているのだけれど、元々のエメの
エメはグリモワールに対して居心地の悪さを感じてはいるけれど、何も言わないでいる。魔虹石生成の恩恵を受けている以上、エメもアダンと共犯なのだ。
そんな具合で一ヶ月が経ち、アダンは長期滞在していた宿屋を引き払って、小さな家を借りて暮らし始めた。部屋ではなく、家ごとだった。アダン曰く「人と暮らすの無理。部屋だけ借りるんなら、食堂ある分宿屋の方がマシ」だそうだ。
エメは、正式に
エメが身を乗り出して、目をきらきらと輝かせて話の続きを促す様は、一部の冒険者の中で少しだけ人気になったりもした。特に、年頃で
もっとも、エメが毎日のようにアダンの家を訪ねていることと、アダンのエメに対する態度がやや過保護気味であることはメテオール内では有名な話だったので、そこから何かが発展するようなことは特に何もなかった。
エルヴェはメテオールで、
エメは、エルヴェにお金を返した。ペティラパンの馬車駅で渡されたリュックの中身の分だ。エルヴェは「別に気にしなくて良かったのに」と言って、でも最終的にはしぶしぶといった様子で受け取った。
それまでは、エルヴェはエメと顔を合わせると「パーティを組む気になった?」と聞いてきていたけれど、それ以降は何も言わずに挨拶を交わすだけになった。
それでようやく、エメとエルヴェは顔見知りのギルド職員と冒険者の距離感になった。
エメの
その時にはもちろん、冒険者から聞いた
アダンは、アダン自身がダンジョンマスターだった時にどうやっていたかの話はよくエメにしたけれど、具体的な
どうやら具体的な話をしてしまうと
そういう時には、やはりアダンはグリモワールの言う通りに悪い人なのかもしれないとエメは思う。たまに舌打ちをする時は怖いし、イラついている時の声も怖い。
それでも、アダンは大体いつもエメには親切で、家に行けば一緒に食事をするし、どれだけ大丈夫だと言っても必ずエメを寮の前まで送り届けてくれる。ダンジョンのことだって、自分が探索できなくなる可能性もあるのに、面倒を見てくれる。悪いことをする人なのかもしれないけれど、優しい人なのもまた、間違いではないとエメは思っている。
その日はエメの休みの日で、エメは朝から
エメが休みの日には、アダンもダンジョン探索を休んで
そして、
グリモワールはアダンが来ると毎回必ずエメの膝の上に乗って、その頁に「冒険者を
「うるせえ
アダンの柄の悪い言葉に、グリモワールは頁を震わせてエメの陰に隠れる。エメは落ち着かせるようにグリモワールの表紙をそっと撫でる。もしかしたら百五十年前には、アダンはグリモワールによほど酷いことをしたのだろうかと、ふと頭を過ぎる。
「グリモワールさん、百五十年前のアダンさんてどんな感じだったんですか?」
「それ、本人いる前で聞くか?」
「え、あ、ごめんなさい。でも、百五十年前ってどんな感じだったのかって気になって」
──残念ながら
グリモワールはそこで一度言葉を止めた。少し考えるような沈黙の後、また綴り始める。
──利用規約違反で契約破棄になったダンジョンマスターがいた。それ以上のことを伝えることはできません。
「それは、アダンさん本人がいるからですか? それとも、ダンジョンマスターには伝えられない話だからですか?」
──他のダンジョンマスターの情報は、機密事項です。一般的な内容しか伝えられません。たとえそれが些事だとしてもわたしからマスターに情報が漏れたとなれば、あの男はダンジョンを相手取ってでも訴えてくるでしょう。小さなインク跳ねの染みを見付けたら喜んで突つき回すような男です。
──今の言葉は百五十年前の情報ではなく、今現在のマスターの知識に照らし合わせた情報なので、機密事項にはあたりません。
グリモワールの言葉も、エメには時々わからなくなる。グリモワールが言う
「そうですか、じゃあ、グリモワールさんには聞かないようにしますね。これからご飯を食べるので、少し離れていてください。汚れるといけませんから」
エメはそう言って、グリモワールの表紙を閉じる。さっさと食べ始めていたアダンの方を見て、エメは改めてその問いかけを口にした。
「百五十年前のこと、教えてくれますか?」
「聞いて面白いもんじゃないぞ」
「でも、知りたいんです。わたし、アダンさんが話してることが、時々よくわからないんですよ。探索のこととか。それって、わたしがアダンさんのことを知らないからだと思うんですよね。でも、アダンさんのことを理解するには、百五十年の差が大きい気がしていて……本当に、わたしは何も知らないから」
エメは真っ直ぐにアダンを見ていた。エメの真剣さに、アダンも食べかけのパンをテーブルに置いて、エメを見る。
「アダンさんのこと、教えてください」
しばらく、そのままアダンもエメも動かなかった。やがて、エメの視線に、アダンは居心地悪そうに溜息をついた。
そして、左手の人差し指を一本伸ばして、それを唇に当てる。エメも真似して同じ仕草をして、黙っていろってことなのかと首を傾ける。アダンはさらに、右手でエメの向こうにあるグリモワールを指差した。
エメは指さされるままに振り向いて、グリモワールを手に取る。アダンはにやりと目を細めると、大きく身を乗り出して両手を伸ばし、片方でエメの首筋に触れ、もう片方でグリモワールの表紙を開いた。そして中表紙に触れる。
「
アダンの声と共に、グリモワールの頁がぱたんと閉じる。グリモワールは、物言わぬただの本になってしまった。エメはグリモワールとアダンの間で何度か視線をさまよわせていると、エメの首筋から手を離してソファに座り直したアダンが、少し視線を逸らして唇を尖らせていた。いつも自信たっぷりににやにやしているアダンにしては、珍しい表情だった。
「グリモワールには聞かれたくないんだよ」
「わかりました。じゃあ、このまま置いておきます」
エメがグリモワールをそっとソファに降ろすと、アダンは舌打ちをして後頭部を掻きむしった。
「気分の良い話じゃないからな」
「それでも、聞きたいです」
アダンは大きく溜息をつくと、ソファに身を預けて天井を向いた。
「何が聞きたい?」
「なんでも……ええと、じゃあ、そうですね。なんで冒険者になったんですか?」
「そっからかよ」
アダンは悪態をつきながら、先ほどテーブルに置いたパンを手に取る。そして、一口かじって飲み込んだ。そうやってパンだとか
「簡単に言えば、冒険者以外にできることがなかったんだ。冒険者になるより前にダンジョンには潜ってた。採集系のダンジョンに少し潜って、素材を少し採ったらすぐに
「冒険者じゃなくても、ダンジョン探索できたんですか?」
「できた……ってか、今もできるだろ。今は単にギルドが
「順番待ちもなかったんですよね。誰でも入れるんだと、すごく混み合いそうですけど」
「まあな。特に昼間は、強いパーティが占有してたりとか、面倒なことが多かった。俺みたいな冒険者じゃないようなのは、夜中にこっそり入るんだよ。それでも、誰もいないってことはないから、本当にこっそり隠れて様子を伺って人がいなくなるタイミングを見計らって入るんだ。見付かると絶対に
アダンは溜息をついて、
「今でも
でも入る時はまだ良いんだ、見て確認できるから。一番やばいのはマップから出た瞬間だな。子供とかレベルが低いやつとか、そういった弱いヤツが出てくるのを待ち伏せてるヤツらがいることがあって、そういうのと出くわした時は最悪だった。採集したアイテムを一部渡せば通してくれるヤツはまだマシで、酷いのは」
アダンは不意に、そこで口を閉ざした。エメの方を見て、小さく首を振る。
「いや、まあ、ホント、治安悪かったんだよ」
「ちゃんと話してください」
「気分良い話じゃないだろ」
「ちゃんと聞きたいです」
エメはじっと真っ直ぐにアダンを見ていた。アダンは諦めたように、また溜息をついた。
「俺がダンジョンに潜り始めたのは、確か十歳くらいだったと思う。親も住む場所もなくなって、他に方法を思い付かなかった。ダンジョンなら、手っ取り早く稼げたから。
でも、さっきも言ったように、子供がダンジョンの周りをうろうろしてると、狙われるんだ。殴られたり蹴られたりなんかしょっちゅうだった。そのうち、俺も少し要領が良くなってきて、そもそも鉢合わせしないようにとか、逃げられるようにもなってきたけど。それでも何回かに一回は
自嘲の笑みを薄く浮かべて、アダンはエメを見る。いつものように、余裕ぶった態度ではあったけれど、エメはアダンの琥珀色の瞳が不安で揺れるのをエメは見た。
エメは何か言わなくてはと焦る。このまま黙っているだけでは、きっとまた自信たっぷりの表情に戻って、そのままどこかに逃げてしまう。
「今は……ダンジョン探索はそんなに酷いこともないし、わたしもずっと人に親切にしてもらってきて、そんな酷いことがあったなんて知らなかったので……正直なところ、うまく想像できなくて……でも、わたしの想像の何倍も酷いことがあったんですよね、きっと。
大変なことだったのに、話させてしまってごめんなさい。でも、これはアダンさんにとって酷い言い方かもしれないけど、わたしは聞けて嬉しいです」
エメの言葉に、アダンは口元を歪めた。
「俺の弱みを知れて嬉しいか?」
「そんなつもりじゃ……」
エメが焦ったように上げる声を聞いて、アダンは息を吐いた。大きな手で目元を覆って、そのまま顔を俯ける。
「いや、悪い。意地悪な言い方をした。あんたが、そんなふうに考えられない人間だってのは、もうじゅうぶん知ってるよ。でも、そんなだから、グリモワールやら俺みたいなのに良いようにされちまうんだぞ」
「わたし、アダンさんには優しくしてもらってばかりですよ」
「それは」
アダンは顔を上げて、そこで言葉を止めた。アーさんだった頃に撫でてくれた優しい手付き、腕に抱き込んだ時の柔らかさと体温、体を巡る
エメは言葉を止めてしまったアダンを見て、首を傾けている。アダンは苦笑した。
「いや、あんたはさ、ホント騙されやすいよな」
「アダンさんは何か騙してるんですか?」
「どうだろうな」
お人好しのエメがアダンに対して無条件の信頼を寄せる度、やっぱりアダンは脳みそが揺さぶられるような気持ちになる。思考も判断も奪われて、気分が悪い。
揺さぶられた頭ではまともに考えられなくて、つい、同じものを返したいと思ってしまう。そして、エメの脳みそもこんなふうに揺さぶられたら良いのにと考えてしまう。
そんなことを考えてしまう自分がまるで自分じゃないみたいで、アダンはそれを気持ち悪く感じて、なので今も自分の脳みそを揺さぶる何かを胸の内にまたしまいこもうとする。
「アダンさん、あの……うまく言えないんですけど」
エメは手を伸ばして、アダンのローブの袖をきゅっと掴んだ。アダンがどこかに行ってしまいそうに感じられて、なんとか繋ぎ止めておきたいと思ってしまった。
「わたしは、アダンさんが本当はどう考えているのかわからないですし、やっぱり話してることもわからないことが多くて……でも、もしアダンさんがわたしのこと騙してるんだとしても、アダンさんに優しくしてもらえて嬉しかったです」
エメはアダンの視線を逃すまいと、必死に見上げる。
アダンがエメに言わないことはいっぱいあるのだろう。それは、ダンジョンマスターの契約に関することだったり、アダンの酷い思い出のことだったり、理由は様々だけど。アダンはその余裕ぶった態度の裏に何かを隠してすぐにどこかに逃げていこうとする。
「あの、それで、わたしはアダンさんがいるととても嬉しいので、これからも一緒にいてくれるととても嬉しいのですが……その、アダンさんは師匠なので」
アダンは、自分の胸の内にしまいこもうとしていたソレが、もうどうしようもなく溢れてくるのを感じる。しまいこむのはもう無理だった。なかった振りはもうできない。
アダンは諦めて溜息をつくと、とろりと微笑んだ。その優しげな表情は、アダンにしては珍しいものだった。もしかしたら、初めて浮かべる表情かもしれない。
「そんな顔しなくても、あんたみたいなのを放ってはおけないだろ。俺は……あんたの師匠だからな」
アダンの表情と声に、エメも柔らかな笑顔を見せた。
こうして、元ダンジョンマスターとダンジョンマスターは、師匠と弟子としてまだしばらくの間、少し歪な関係を続けるのだった。
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