第三十三話 エメはアダンを見送った
食事を終えて、ダンジョン運営の話を再開させているうちに、エメがうつらうつらし始めた。
「おい、寝るな。自分の部屋に帰れるか」
アダンが肩を揺すると、目をうっすらと開いて、また閉じる。本格的に眠りに落ちたようだった。ここ最近の、あまり眠っていなかった様子を思い出すと、無理に起こすのもしのびない。アダンは溜息をついて、エメをベッドに運んだ。ブーツを脱がせて寝具に包む。
エメの頬に少し血の気が戻っているのを見て、ほっとした気持ちのまま手の甲で頬を撫でた。
部屋のドアがノックされたのはそんな時だった。食器を下げにきたと言われて、アダンは少しだけドアを開ける。そこに静かに立っていたのはノエミで、エメと何か話していた相手だとアダンは思い出す。
「悪い、外に出し忘れてた」
「いえ、こちらこそ、お邪魔してすみません」
ドアを大きく開けると、ノエミは部屋に入ってきた。アダンが立ってる奥、ベッドに人が寝ているような膨らみを見付けて、少しだけ動きを止める。
ノエミは少しためらうように俯いてから、まっすぐにアダンを見た。
「あの、従業員であることを少し離れて話をしても構いませんか」
アダンはテーブルに寄り掛かかると面白そうに目を細めてノエミを見た。
「構わない」
ノエミはまた少しベッドの方に目を向ける。
「エメはまだいるんですね」
「疲れて寝ちまった。ちょっと無理させたかもしれない」
夕食が終わった辺りでさっさと帰しておけば良かったなとアダンは思って、今更だと苦笑する。明日の朝に出発すると決めてから、アダンには焦りがあった。
「エメは昨日倒れたばかりで」
「知ってる。食事抜くようなことしやがって。夜もろくに寝てなかった。なんか食わせようと思っても一人前も食べないし」
アダンが鋭い目付きで眠っているエメの方を見る。睨んでいるようにも見えるけど、その口振りは確かに心配している人のもので、ノエミは少しほっとした。
「エメは自分のことを話さないから、誰も理由を知らないんです。食事を抜くほど切り詰めて、何をやってるのか。何かご存知ですか?」
「それは……エメの事情を知りたいのか?」
アダンは伺うようにノエミを見る。ノエミはアダンの言葉を受け止めて、少しだけ考える時間をとった。それからすぐに首を振って、またアダンを真っ直ぐに見る。
「知りたい気持ちもあるけど、無理に聞きたいとも思ってはいない、でも、心配はしています」
「あんたは……エメと親しいのか?」
「どうでしょうか。仕事でよく話はします。個人的な付き合いはさほどありませんが、年が近いので話すことは多いです」
アダンはエメの方を見て、しばらく何か考えているようだった。それから溜息をついてノエミを見た。
「エメは絶対に言わないだろうし、俺からそれを話すこともできない。言える範囲で良いなら……そうだな、食事を抜くのはもうやらないだろうと思う。そこはなんとかした。それでも、完全に解決した訳じゃないからエメはまた無理するかもしれない。しばらく、エメがちゃんと食って寝てるか気にしてやってくれるか?」
「わたしも仕事があるので……お約束はできませんが」
「できる範囲で良い。顔合わせた時だけでも」
「であれば、今までと変わりません」
アダンは小さな声で「助かるよ」と呟いた。ノエミは従業員の態度に戻って、テーブルの上の食器をまとめるとお辞儀をして部屋を出て行った。
エメがアダンに起こされたのは早朝だった。目を開けると、至近距離で寝転んだアダンが、エメの肩を揺らしていた。
エメが目を開いたのを見ると、アダンは起き上がって大きな欠伸をした。
ぼんやりとエメも起き上がると、窓から朝の柔らかい光が差し込んでいた。そしてようやく、宿屋の部屋で眠ってしまったことをエメは思い出した。
「もっとゆっくり寝かせてたかったんだけどな、馬車の時間が早くて、もう出ないと」
アダンは脱いであったローブを着ると、寝癖でぐしゃぐしゃになった髪の毛を手櫛で無理矢理まとめて後ろで束ねた。ブーツを履いて荷物をまとめ始める。
「顔色はマシになってるな。そうだ、これは杖とリュックの礼だ。
昨日買い物をした荷物の中から取り出して、アダンがエメに渡したのは
「えっと、ありがとうございます……」
エメはベッドの上でぼんやりとしたまま受け取ったものを眺める。寝起きでぼんやりしていた頭が徐々に覚醒していき、そして急に、今の自分の状況を思い出した。
「あ!
「あんたは、もっと他に気にすることはないのか」
リュックを背負ったアダンは、盛大に溜息をついた。
早朝にアダンの部屋から出てきたエメの姿を見ると、受付に座っていた男はアダンとエメを何度も見比べた。
そうしてるうちにエメと目が合って、エメは少し困ったような顔でぺこりとお辞儀をする。受付の男は、訳知り顔で頷いてみせたけれど、エメは不思議そうな顔で首を傾げた。
アダンは頼んでいた
乗り合い馬車の駅まで、エメが案内をする。暑くなりそうな日だった。
アダンは朝食の包みを一つ、エメに渡す。なんだかもらってばっかりだなと思いながら、エメはそれを受け取った。
「わたしがこれをもらってしまって……アダンさんの分は足りますか?」
その細い体に似合わず、アダンがやたら食べることをエメは昨日一日でもうじゅうぶん知っていた。
「もともと多めに作ってもらってるし、昨日残ったパンもあるし、これとは別に携帯食も持ってる。足りるよ」
「じゃあ、これはいただきますね。いろいろありがとうございます」
エメは朝食の包みを肩掛けバッグの中に仕舞う。バッグには、もらったばかりの筆記具一式も入っている。
「あんたこそ、独りで大丈夫か?」
「わたしは、もともと独りでしたよ」
「なら良いけど。そうだ、これも預かっといてくれ」
そう言ってアダンがエメに渡したのは、アダンの百五十年前の冒険者カードだった。
エメはアダンの意図がわからなくて、瞬きをしてアダンを見た。
「初めて冒険者登録するのに、うっかりそれが出てくると面倒だろ。まあでも、でかくて邪魔ってのが一番の理由だけど」
「わかりました。じゃあ、戻ってくるまで預かっておきます」
「冒険者登録が終わったら、取りに戻ってくるから」
「はい。待ってますね」
百五十年前の冒険者カードは、アダンにとってはもうたいして価値のないものだった。もう今は使えないのだ。冒険者タグに使われている技術の検証には使えるかもしれない程度に考えていただけで、特に思い入れもない。
だというのに、エメはとても大切なもののように、アダンの冒険者カードを両手で胸元に抱きしめた。何が嬉しいのか、ふんわりと笑っている。
アダンの中に、エメと離れがたい気持ちが湧き上がってくる。アーさんとしてずっと一緒にいた頃の名残かもしれないと思いながら、アダンは右手を持ち上げてエメの首筋に触れた。エメの中にたくさん溢れている
エメは冒険者カードを胸に抱いたまま、きょとんと無防備な顔でアダンを見上げた。エメの瞳の色が、普段の深い緑と赤紫の間を不安定に揺らめいている。
「アダンさん?」
アダンは周囲に目をやって近くに人がいないのを確認すると、小さな声で囁くように話す。
「アーさんだった頃にずっとあんたの
「えっと……」
エメは返答に困って、瞬きを繰り返した。
「あんたの
アーさんだった頃にエメの
アーさんの時の記憶に引っ張られすぎだと内心苦笑しながら、アダンはエメの目を覗き込む。
「目の色が変わるのも
「目の色……?」
「赤紫。自分だと見えないからわからないか。こうやって
「自分ではわからないんですけど、確か前にも言われたことがありました。あの時は」
まだ冒険者だった頃だ。エルヴェのパーティに誘われたばかりで、魔法の練習をしてもらってた時だった。あの時のエルヴェも、エメの目を覗き込んできていた。アダンの方がずっと距離が近いけれど。
「確か、魔法を使う時に目の色が変わるって」
「
アダンはエメの目をじっと見詰めながら、名残惜しそうに首筋から手を離した。そして、エメから一歩離れると、行き場のなくなったその手を首の後ろに置いた。
「それじゃ、行ってくる。ちゃんと食べて、寝ろよ」
「はい、気を付けます。あの……確認しないとなので、もう行きますね。アダンさんも気を付けて。いろいろありがとうございます」
エメはくるりと身を翻して、駆け出して行ってしまった。確認というのは、
駅のベンチに座って、さっきエメから受け取った
魔水晶は随分と溢れてしまっていた。仕方ないと思いながらも、急いで
アダンにもらった朝食の包みはサンドイッチだった。二切れ入っていたけど、エメは一切れで満腹になってしまった。もう一切れは昼に食べようと包みなおしてバッグに戻す。
アダンにもらった
アダンから預かった冒険者カードは、少しだけ悩んだけれど財布と一緒にバッグに入れておいた。
エメが冒険者ギルドに行ってまず最初にやったのは、ロイクに謝りに行くことだった。
「もう体調は大丈夫ですか、いや、心配しましたよ、大丈夫で良かった、その、プライベートな話に踏み込むつもりはないのですが、何かあれば相談してくださいね、少しは助けになれるかもしれませんから」
「あ……の、ごめんなさい、でももう、大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「だいぶ元気そうで良かった、でも本当に気を付けてくださいね」
エメがやらないといけないことは誰がやったのだろうか、エメは申し訳なさにただただ頭を下げた。ロイクは「またよろしくお願いします」と言って穏やかに笑った。
ギルド職員には、すれ違うたびに声をかけられる。どうやら、エメはだいぶ周りに心配をかけていたらしい。全然周りが見えていなかったことに今更気付いて、エメは謝罪とお礼を繰り返した。
エメの体調についてだけでなく、アダンについても何度も質問された。ノエミにはなんと言って説明しただろうか。ダンジョンマスターに関係することは言えないし、エメは随分と神経を使って曖昧に受け答えした。
夕方に
部屋のテーブルには、アダンにもらった
「グリモワールさん、ただいま」
──お帰りなさい、マスター。今日はあの男はいないのですね。
「アダンさんは、しばらく留守です」
──このまま帰ってこなくても良いのに。
「グリモワールさんは、アダンさんが嫌いなんですか」
──好き嫌いの問題ではありません。
「アダンさんは、悪い人には思えませんでしたけど。それに、わたしはアダンさんがいてくれて助かってます」
──騙されてはいけません、マスター。利用規約違反している悪人です。
ただいまを言う相手がいること、会話ができることに、エメはほっとしてグリモワールとの会話を続けた。
そのままグリモワールを操作して
アダンには「もともと独り」なんて言ったけれど、エメが本当に独りだったことがこれまであっただろうかと考える。ずっとエメは誰かと一緒で、本当に独りになってしまったのは、エルヴェのパーティを抜けてペティラパンからの馬車に乗っていたあの一日だけだった。
今この部屋にいるのはエメと
溜まった魔水晶を使って
夕飯を食べなければとベッドから立ち上がる。アダンに怒られないように、アーさんにもう心配をかけないように。それと、せっかく買ったスープが冷めてしまう前に。
スープもパンも半分で腹が膨れてしまった。エメは半分のパンとスープを明日の朝に食べるために包み直してテーブルに置いておく。
それから、アダンにもらった
あとでこれを参考にしながらまた
羽ペンの羽根は、綺麗な赤い色で染めてあった。少し紫がかった色で、エメが文字を綴る度にふわふわと揺れる。インクの色は真っ黒だったけれど、紙に伸ばすと黄色く掠れた。アダンの髪と瞳を思い出す色合いだった。
一つの
少し物足りない気がしたけれど、これ以上続けると遅くなりそうだったので、エメはそこで手を止めた。
ベッドに入って、エメは自分がベッドの端に寄っていることに気付く。隣にいつもあったアーさんの高い体温はない。
一緒に眠ることに抵抗を感じていたことも、ベッドが狭いと思っていたことも、エメはもうすっかり忘れてしまっていた。今は、独りで眠るのが少し寒く感じる。
ベッドの中で目を閉じて、アーさんはもういないことをエメは思い出す。
アダンは戻ってくるし、アーさんはアダンだけれど、だけれどやはりあのアーさんとまったく同じには思えなかった。それに、アーさんはダンジョンの中で暮らしていたから一緒に寝泊まりしていたけれど、アダンはそうしないだろう。宿をとるのか、部屋を借りるのかはわからないけれど。
エメの中で、アーさんとアダンが混ざりあってぐちゃぐちゃになる。アーさんが隣にいることが当たり前になり過ぎていて、思い出すのはアーさんのことばかりだ。だというのに、エメの記憶の中でアーさんの見た目はアダンのそれに塗り替えられてしまっていた。ぼさぼさの黒い髪と鋭い目付きの琥珀色の瞳、ひょろりとした体と骨ばった手。アーさんよりも低いその体温を思い出す。
「おやすみなさい」
眠りに落ちる寸前、エメは誰もいない隣に向かって小さく呼びかけた。
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