第四章 ダンジョンマスターと元ダンジョンマスター

第二十九話 エメは元ダンジョンマスターと話をする

 翌朝エメが目を覚ますと、同じベッドにいるのはいつものアーさんではなかった。見知らぬ黒髪の男がエメの体を抱きかかえて同じベッドに眠っている。

 エメは咄嗟にベッドの上でびくりと男から距離をとって、そしてそのままベッドから落っこちた。落ちる時になって、昨夜の出来事を思い出す。アポロンの姿をした黄金きん色の髪のアーさんが、その姿を変えてアダンと名乗ったのだった。

 床に落ちたまま、エメはベッドの淵から黒髪の男を眺める。神々しいまでに美しかったアポロンの面影は、そこにはない。輝くような黄金きん色の髪も、健康的な肌も、逞しい体躯もない。そして、開いた瞳も炎が燃えるような赤い色ではなく、蜜を煮詰めたようなとろりとした琥珀色だった。

 エメは男の瞳の蜜の色を見ながら扁桃の飴がらめアーモンドのカラメリゼを思い出していた。レオノブルにいた頃は時々食べていたけれど、もうどれくらい食べてないだろうか。

 目を開いた男は、エメと目が合うと気怠げに唇の端を吊り上げた。


「その様子だと、俺はもうアポロンの姿をしてないんだな」


 エメは床に座り込んだまま、ベッドの淵に手をかけて、男の様子をじっと伺いながら、恐る恐る声を出した。


「誰ですか……?」

「ん……だから、アダンだよ」


 アダンと名乗るその男は骨ばった手をエメの方に伸ばして、エメの首筋に触った。エメはぎゅっと目を閉じて身を固くしたけれど、男の手はしばらくそのまま首筋に触れているだけで、それ以上動かなかった。


「まあ、こんなもんか」


 エメの首筋から指先が離れて、エメはそっと目を開く。アダンは起き上がって、ベッドサイドに置かれていたグリモワールの表紙を開いて、その頁に触れる。その指先に虹色の光が現れるのを見て、


強制停止シャットダウン


 グリモワールがぱたりと頁を閉じる。それを見届けてから、黒髪の男はエメを振り返ると、にやりと笑った。


「これで落ち着いて話ができるな。ああ、でも、とにかくまずは飯だな。久し振りにまともな飯が食いたい」


 エメはどうして良いかわからず、ただゆるゆると首を振った。その男はもちろん、エメの返答なんか気にしてはいなかった。




 エメは昨夜ノエミにもらったサンドイッチを一切れ、アダンと名乗るその男に渡した。もう一切れはエメが少し口をつけていたので、自分で食べた。


「あー、久し振りの人の体だるい」


 アダンはサンドイッチを食べながらぼんやりとそんなことを呟いている。エメは困惑した顔で、でもどうしたら良いかわからずに、ちらちらとアダンの様子を伺いながらサンドイッチをちまちまと口に入れていた。サンドイッチのパンは寝ている間にパサパサになっていた。


 アダンは何口かでサンドイッチを食べ終えてしまって、指についたソースを舐めていた。まだちまちまと食べているエメの方を見る。


「で、今日は仕事バイトは行かなくて良いのか? いつもだったらとっくに出てる時間だぞ。休みの予定でもないだろ」

「今日は、お休みです。その……昨日倒れてしまったので」

「ああ……」


 エメの答えを聞いて、アダンは小さく溜息をついた。


「ったく、ダンジョン運営で体壊してもグリモワールその本は責任なんざ取らないぞ」

「べ、別に責任とってもらおうなんて思ってないです。自分で決めてやってることだし」

「だったら自分で責任取れって話だよ。こうやってぶっ倒れて仕事バイト休むことになってるのは、責任取れてるって言わないだろ」


 アダンの言葉に何も反論できずに、エメは黙って手の中の食べかけのサンドイッチを見詰めたまま俯いた。アダンは舌打ちをして、ベッドサイドに置かれたまま、静かに表紙を閉ざしているグリモワールをちらりと見た。


「まあ、そうやってダンジョンマスターから搾取するのが、グリモワールの役割だからな。仕方ないとはいえチョロすぎるだろ、あんた」

「え、チョロ……?」


 エメは首を傾けてアダンを見た。アダンはわざとらしく溜息をついてみせる。


「とにかく、グリモワールを信用するな。ダンジョン運営にものめり込むな。ダンジョンマスターなんてのは搾取される仕組みになってんだよ。それにしてもあんたはチョロすぎるけど」

「え、でも……きちんと報酬リワードもらってますけど」

「その報酬リワード、何に使ったか言ってみろ。魔水晶や魔虹石はダンジョンのことにしか使えない。それ以外のアイテムも、だ。何日かにいっぺん銅貨コインがもらえてるけど、あんたはそれを生活費にあててるか? 全部魔虹石を錬成するのに使ってるだろ。結局、ダンジョンからもらう報酬リワードは、全部ダンジョンに戻ってるはずだ」

「え……え……?」


 アダンが口を開く度に、様々な情報がエメに押し寄せてくる。エメはそれらの情報を飲み込めないまま、その向こうで静かに表紙を閉じているグリモワールに目を向けて、それからまたアダンを見る。

 アダンもまたグリモワールの方にちらと視線を向けて、溜息をついた。


「まあ、いきなり言われてもって感じだよな」

「ええっと……その……そうですね、話がよくわからなくて……。あの、アーさん? アダン……さん? モンスターではないんですよね? それに、メテオールのダンジョンが活動停止したのは百五十年以上前と聞いてますし」


 エメが頭の中の混乱をそのまま口にすると、アダンはテーブルに肘をついて前髪をかきあげ、そのまま骨ばった手のひらで顔を覆う。


「ちょっと待て、百五十年? 百五十……年か」

「ええと、わたしも聞いただけですけど」

「いやまあ、なんにしろ、話を整理する必要がありそうだな」

「あの……わたしも何もわからなくて……」

「んー、そうだなぁ」


 アダンは顔をあげると、左手で頬杖をついてエメを見た。


「とりあえず、エメと呼べば良いか?」

「え?」

「あんたの名前、エメだろう?」

「あ、はい、エメです」


 アダンは頬杖をついたまま、右手を差し出す。口角を吊り上げて微笑んでみせているけれど、鋭い目付きのせいで何か企んでいるようにしか見えなかった。


「改めて名乗ると、俺はアダンだ。メテオールのダンジョンの、前のダンジョンマスター。アダンでも、アーさんでも、好きに呼んで良い」

「あ、はい、アダンさんですね。エメです、よろしくお願いします」


 エメは混乱しながらも、食べかけのサンドイッチを包み紙の上に置くと、アダンが差し出す手を両手で握って握手をした。アダンは笑みを引っ込めて自分の手を握るエメの手を見下ろした。


「あんた、ほんとチョロいよな」

「え、どういう意味ですか……?」

「その警戒心の薄さでこれまでよく無事で生きてこれたなと思って。いや、ダンジョンマスターになってる時点で無事とは言わないか。生活費削って魔虹石錬成なんて完璧駄目アウトだったわ」

「え……?」


 アダンの言葉に、エメは困惑しか返せない。アダンは呆れたように、琥珀色の瞳をエメに向けて、溜息をついた。




 利用規約違反とアダンは語った。


「利用規約……ええっと、ダンジョンマスターはダンジョン探索ができないとか、そういう話ですよね」


 エメの言葉に、アダンは感心したように頷く。


「よく知ってたな。てっきり、利用規約なんざ読んでないものと思ってたけど」

「えっと……それしか覚えてない、ですけど」


 本当は読んでいないのというのに、エメは咄嗟に一回は読んだような口振りで応えてしまった。アダンはまるで、エメの誤魔化しを知っているかのように目を細めたけれど、それ以上は何も言わなかった。


「俺が権限剥奪バンされた決定打は、故意の不具合バグ利用により利益を得たことだな。そう判断されないように気をつけてたんだけど、ちょっと失敗した」

「故意の不具合バグ利用……」

「錬成時に魔虹石を余分に手に入れる不具合バグを発生させたんだ。明らかにヤバい系はスルーしてたんだけど、アレは回避できなくて……もしかしたら、ダンジョンが俺を権限剥奪バンするために用意した不具合バグだったんじゃないかとも思ってる」

「それって、故意なんですか……?」

「最後のそれに限って言えば故意じゃない。発生させるつもりはなかった。でも、それまでに権限剥奪バンされない範囲でいろいろやってたのは故意だったからな。結局ずっとぎりぎりだっただけで、やり過ぎてたんだ。ダンジョンがそう判断したなら仕方ないし、それを逃れられても、どこかではそうなってただろうと思うよ」


 アダンは薄い唇に自嘲の笑みを浮かべる。

 エメはアダンの表情を不思議に思っていた。こんな訳のわからない状況で、なんでこんなに落ち着いているのだろうか。この自信と余裕はどこから出てくるのだろうか。

 これまでの話が本当なら、アダンは百五十年も前の人なのだ。そして、何も持たずにここにいる。


「まあそれで、権限剥奪バンされると同時に契約破棄。でもって」

「え、それでどうしてモンスターになっていたんですか」

「いや、アレはタイミングが悪かったんだ。契約破棄のタイミングで、ちょうどアバターの機能を試していた。あの時アバターは新しい機能だったから、きっと不具合バグも多いはずだと思って……まあ、いろいろと実験してたところだった。それで、ちょうどステータス表記がモンスターと混同したりおかしくなったりする不具合バグがあったし、他にもかなりヤバい不具合バグもあって、まあ、それは良いか。

 ともかくそんな感じで試してたら、契約破棄のタイミングで俺とアポロンの存在自体が混同されてしまったわけだ。それもアバターの不具合バグだったんだろうけど……ダンジョンマスターの契約破棄とか、そんな滅多にあることでもないだろうから、そっちにもなんかの不具合バグがあった可能性もあるか」

「それで……その百五十年の間、何してたんですか?」

「ん、それがな、記憶がない。意識がなかったか、時間の流れが違ったのか、とにかく気付いたらアポロンの姿であんたと契約してた。何か面白いことでもあれば良かったんだけどな」


 アダンはそこで、少し口を閉ざした。口元に手を当てて親指で唇をなぞる。

 長さの揃っていない黒い髪は肩よりも少し長く、後ろで無造作にまとめられている。長さが揃っていないのであちこち飛び跳ねていて、それが雑な印象を与えていた。陽に当たらないのだろう、不健康そうな青白い肌と、筋肉の少なそうなひょろりとした体、猫背で姿勢が悪い。手は大きくて骨ばっていて、顎も首も細くて、全体的に骨を感じさせる体型だった。

 そうやってテーブルに目を落としてしばらく考え込んでいたアダンは、視線を上げてエメを見た。


「俺にとっては百五十年も経ってるって方が信じられない。なあ、本当にアレから百五十年も経ってるのか?」

「え……」


 エメは困惑して視線をさまよわせる。どちらかと言えば、エメの方が状況がわかってない。なんならエメが聞きたいくらいで、エメは小さく首を振った。


「すみません、わたしもよくわからなくって。わたしはただ、このメテオールの村に前のダンジョンマスターがいたのは百五十年以上前だったと聞いただけです。あ、それに……前のダンジョンマスターは利用規約違反で契約破棄になったって、確か……グリモワールさんはそれ以上詳しいことは言っていませんでしたけど」

「メテオールのダンジョンで利用規約違反で契約破棄になったダンジョンマスター、ね。……まあ、俺だよな、それは」


 アダンは小さな声で「まいったなあ」と呟いた。唇にはうっすらと笑みが浮かんでいて、エメの目からはやはりあまり困っているようには見えなかった。むしろ面白がっているようにすら見える。


「どうして」

「何が?」

「あ、えっと……」


 ぼんやりと思ったことが口から出てしまっただけだったので、アダンの反応があったことにエメは慌てる。もともとがそんなにはっきりした疑問ではなかった。それでも、エメはその疑問をできるだけそのまま口にした。


「何があったのか、わたしには全然わからないんですけど、いきなり百五十年も経ってるって言われて……困ってたり悲しかったりしないんですか?」

「いや、困ってる。めちゃくちゃ困ってる。悲しくはないけど、まあ、まだ実感ないだけか、俺が単に薄情なだけかな。俺、どう見えてるんだ?」


 そう言ってエメの顔を覗き込むアダンの表情は、にやにやと面白がっているようで、やっぱりエメの目にはちっとも困っているように見えない。


「その……あまり困ってるように見えないです。余裕があるっていうか……なんなら、面白がってるように見える……と、いうか……」


 アダンはにやにやした笑みを一層深めた。


「困ってはいるんだ、これでも。でもまあ、それ以上に面白いのは確かだろ。百五十年後なんざ、未知の世界なんだから面白くないわけがないんだ。モンスターとして生活したのも不便は多かったけど、なにせ滅多にできない経験だ。おかげで初めて知ったこともいくつかあったし、ダンジョンについても」

「アダンさんが、あまり困ってなさそうなのはわかりました」

「だから、困ってるって、本当にさ」

「え、でも、面白そうにしてますし」

「困るってのは面白いことなんだよ。ダンジョンだって、モンスターが強ければやりがいがあるだろ。それと同じだ」

「……それなら、少しわかるような気がしますけど」


 エメはアダンの言葉に頷いてから、それでもと考える。ダンジョンでの話と、自分自身が百五十年後に何も持たずに突然来てしまったことを同じにしてしまえるアダンは、やはり自分とはどこか違うのだろうなと思った。


「面白がってはいるけど、困ってるのは本当だ。俺は百五十年後のことを何も知らないし、何も持ってない。頼れるのはあんただけだよ」

「え、わたしですか」

「ああ、だからよろしくな、エメ」


 アダンの目をエメはまっすぐに見返した。頼られるのは悪い気はしない。それに、これまでもアーさんがいたのだ。

 エメは何度か瞬きをして、それから頷いた。


「はい、わたしにできることなら、お手伝いします」


 エメの返答に、アダンは微妙な表情を見せた。アダンが言い出したことだというのに、なんでこんな顔で見られなければいけないのか、エメにはさっぱりわからずに首を傾けた。


「あんた、本当にチョロすぎないか」

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