第二十八話 エメは元ダンジョンマスターに出会った
メテオールの村は街と呼んでも良い規模になってきていた。
エメの
最近は
手持ちの
そうやって新しく追加したマップを冒険者が競って探索しているのを見て、冒険者ギルドでその評判を聞いて、エメは一喜一憂した。人気の傾向、前回不評だったところの反省点、エメが使いたいモンスター、それらをうまく組み合わせて、また新しいダンジョンを用意する。
魔虹石はいくらあっても足りなかった。
睡眠不足と空腹にも慣れたと思っていた。
なにより、メテオールを行き交う冒険者たちの様子を見ると、冒険者たちが話す探索の様子を聞くと、エメは満たされた気持ちになった。
そして
ダンジョンマスターになったことを正直に書ける訳でもなく、冒険者をやめたと書けば「じゃあ村に戻れ」となりそうだった。しばらく悩んだ末に「最近できたばかりのメテオールのダンジョンにいる」とだけ書くことにした。まだ冒険者をやっているからメテオールにいるのだと思ってもらえるだろう。
エメは今、冒険者はやっていないけど、大好きなダンジョンに関わることをしている。今の生活をやめるつもりはなかった。手紙の最後は「とても充実した毎日で、元気に頑張っています」と締めくくった。
エメは他のギルド職員に心配されていた。以前と比べるまでもなく、明らかに顔色が悪い。休憩時間にはぐったりと眠っていることが多くなった。
エメがどうやら食費を切り詰めているらしいことは誰が見てもすぐにわかった。それでも、切り詰めたお金を何かに使っている様子はない。
ギルド職員の間では、何か事情があってお金を貯めているとか、冒険者時代に
そしてエメは、その日も寝不足だった。睡眠時間はどんどん減っていて、ここ数日は特に朝方に少しだけ寝入って仕事に行くという有様で、ほとんど眠っていない状態だった。朝はそんな調子なのでほとんど何も口にしていない。昼も眠ってしまうので何も食べない。昨夜に少しの芋を食べただけで、以前は時々買っていたパンと干し肉もここしばらくは買っていない。
エメは宿屋までお使いに行っていた。雲の少ない晴れの日で、日差しが強く、とても暑い日だった。宿屋はすぐ近くだったけれど、少し歩いただけで汗ばんだ額を腕で拭う。その時にはエメの視界はすでにぼんやりとしていた。
宿屋で働いているノエミは無口で表情に乏しいけれど、てきぱきと仕事をこなすしっかり者だった。エメは裏口で野菜の仕入れ値と量について、ノエミに伝言する。ノエミは話を聞いた後、
ノエミが
次にエメが気付いた時には、宿屋の従業員用の休憩室のソファだった。何があったのかすぐには思い出せなくてぼんやりと起き上がると、近くのテーブルで縫い物をしていたノエミが手を止めて立ち上がった。ノエミはそのままエメに近付いてエメの顔を覗き込む。
「随分長いこと寝てたけど、大丈夫ですか?」
エメは何度か瞬きをしてノエミの顔を見返すと、それからゆっくりと首を巡らせて辺りを見回した。宿屋の休憩室だというのがわかって、それから
「どうしよう、
「落ち着いて」
慌てて立ち上がろうとするエメをノエミが押し留める。
「もう夜中だから、ギルドには人はいない。それに、ギルドにはすぐに連絡したし、ロイクさんからは明日も休むようにって言われてます」
ノエミは一度エメに背を向けると、テーブルの上に置かれたカップを手に取って、水差しから水をつぐ。またエメの方を向いて、そのカップをエメに差し出した。
「あ、ありがとうございます」
エメはそれを受け取って、一口飲んだ。すっきりとした
「すごく顔色が悪いし、ここのところ調子も悪そうだったから、みんな心配してます」
ノエミはそこで一度言葉を切った。どう言おうか迷うように少しだけ視線を逸らして、それからまたエメを見る。
「どうして?」
そうして出てきた言葉は真っ直ぐな問いかけで、エメは返答に困って俯いた。
「ええっと……」
「寝不足みたいだけど、夜に何をしてるの? 食費を削ってまで、何をしてるの? 何か人に言えない困ったことがあるの?」
エメは何も答えられず、俯いたままカップを両手で握りしめた。本当のことは言えないし、かといって、今のエメの状態を誤魔化せるだけの嘘も思い付かない。
ノエミはエメが何も言わないのを見て、小さく溜息をついた。
「話したくないなら構わないけれど……ギルドの人たちもみんな心配してました。せめてもう少しは、自分の体調を
「あの……ごめんなさい」
「わたしは何も」
冷たく突き放すような短い言葉だったけれど、言葉数の少ないいつものノエミで、特に含むところはないのだろう。
「いえ、その……ひょっとして、ずっとここに付いていてくれましたか……?」
「まさか。食堂が混む時間帯は放置してました。今は
「それでも、ありがとうございます」
ノエミはちょっと肩をすくめるようにすると、テーブルの上に置いてあった皿を取ってエメに渡す。
「お礼ついでに、これも」
皿の上に、何かが紙で包まれている。きっと何か食べるものなのだろう。エメは受け取ることができずにノエミを見上げる。
「え、これ……ノエミさんのじゃないんですか、いただけません」
「わたしはさっき食べた。エメさんが
エメは皿の上とノエミを何度か見比べて、それからようやく皿を受け取った。
「あ、ありがとうございます……」
皿の上の包みを開くと、肉がたっぷり挟まったサンドイッチが出てきた。
「
ノエミは真顔で冗談を言うのでわかりにくい。エメは少しだけ笑って、サンドイッチを一口噛んだ。久し振りに感じる肉汁と脂だった。美味しいとは思ったけれど、二口でお腹がいっぱいになってしまった。
「大丈夫ですか?」
ノエミはまた椅子に座って縫い物をしていたけれど、エメの手が止まったのを見て振り向いた。
「あ、えっと、もうお腹いっぱいで……でも、また朝起きたら食べますね。ありがとうございます」
「宿屋で寝ていく? わたしは今夜は部屋に戻らないから、わたしのベッドで良ければ使っても構いません」
ノエミの申し出に、ようやくエメはアーさんのことを思い出した。
ノエミはさっき夜中と言っていた。アーさんはどうしてるだろう。拗ねたり怒ったり泣いたりしているかもしれない。グリモワールで今日の
「あ、いえ……自分の部屋に帰ります。帰らないと」
エメはサンドイッチを包み直して、慌ててソファから立ち上がる。
「まあ、近いから大丈夫とは思うけど。気を付けて。明日は休みにしたのできちんと食べて寝るようにってロイクさんから伝言です」
「はい。ノエミさん、本当にありがとうございました。色々ご迷惑を」
「わたしは、特には」
宿屋の裏口から出ると、涼しい夜風がエメの頰を撫でた。エメはほとんど走るように
アーさんは眠っていなかった。部屋の灯りはついておらず、ベッドサイドの小さな灯り一つで暗い部屋の中で独り、ベッドに座ってじっと俯いていた。
エメが部屋に入っても、反応がなく俯いたままだ。
「アーさん、
エメは持っていたサンドイッチの包みをテーブルに置くと、アーさんが座っているベッドに近付いた。アーさんはそこでようやく顔を上げて、エメを見た。
ベッドサイドの灯りを映して、アーさんの赤い瞳が燃えるようにエメを見上げる。そして、舌打ちした。
その舌打ちの音にエメはびくりと一歩下がりかけたけれど、それよりも早く、アーさんの手がエメを抱き寄せた。
「遅いんだよ」
アーさんの声は、いつもの間延びしたものよりも低く、鋭い。エメは抱きしめられて身動きが取れないまま、体を震わせた。
「あ、あの……
「食費削ってるからだろ。まんまと魔虹石に金つぎ込みやがって」
アーさんは乱暴に言うと、エメの首筋に唇を押し付けた。エメは必死に腕を突っ張って離れようとするけれど、アーさんはびくともせずにエメの体をその腕の中に抱き込んでいた。
「やっ……めてください! 離して!」
「うるさい。
「手! 手で! 離れて!」
アーさんの唇が、エメの首筋を辿って左耳の下に触れる。エメの皮膚に唇をつけたまま、アーさんが囁くように言った。
「ここに血管がある。血管に近い方が、
アーさんの声がエメの首筋をくすぐる。
「粘膜……」
「具体的に言わせんな。これでも遠慮してるんだ、少し大人しくしてろ」
耳元で聞こえるアーさんの声に、首筋をなぞる息遣いに、エメはぎゅっと目を閉じた。目を閉じると、余計にアーさんの体温が近く感じられる。どくどくと心臓が動いて、血液が流れているのがわかる。その血液が流れる血管をなぞるように、アーさんの唇が動く。
エメが動けないでいる間、アーさんはしばらくそうやって静かに首筋に触れていた。エメにはとても長い時間に感じられて、気が気じゃないままぎゅっと体を固くして耐えていた。と、突然、アーさんの唇がエメの首筋を柔らかく噛んだ。
「ひぁ」
エメは思わず変な声を出して目を見開いた。ふ、と濡れた首筋に吐息がかかって、肩がぴくりと動く。
ゆっくりと、アーさんがエメから体を離すと、口の端を吊り上げて、普段のアーさんでは見ないような艶やかな笑顔でエメを見た。
「多分、これで足りる」
アーさんから解放されて、エメはその場にへたりこんだ。床にぺたんと座って、首まで真っ赤にしてアーさんを見上げる。アーさんはベッドサイドに置いてあるグリモワールを引き寄せて開き、立ち上がると右手でその頁に触れた。
エメでないと操作できないはずの頁に、虹色の波紋が広がる。
「
ためらいのない操作で、アーさんは自身のステータスが表示される頁を開く。なんの操作も受け付けていなかったはずのその頁で「覚醒」という文字が点滅している。
アーさんはその文字に触れて、言葉を続ける。
「覚醒。キャンセル。んー、アバター変更、ダメか、覚醒。アバター変更。キャンセル。アバター……アバター
何度も同じ言葉を繰り返すアーさんの足元に魔法陣が現れ、そこから光が吹き出した。アーさんはそこでようやく、グリモワールの頁から手を離す。アーさんが身につけているトーガとマントがその光に煽られて、ばたばたと音を立てる。アーさんの黄金色の髪の毛がふわりと浮き上がった。
アーさんは光に包まれながら、呆然としたまま座り込んでいるエメを横目に見て、にやりと笑った。
光の中でアーさんの姿が変わってゆく。黄金色の髪は漆黒に。赤く燃えるようだった瞳はとろりとした琥珀色に。体はアポロンよりも一回り小さくなった。逞しいアポロンの姿と比べると、随分とひょろっとして見える。肌の色は不健康に青白い。
体の変化に合わせて、服装も黒いフード付きのローブに変化した。
やがて光が収まり、ばたばたと浮き上がっていたローブが重力に従って静かになる。後ろで無造作に纏められた黒い髪の毛は肩に落ち着いた。
足元の魔法陣が完全に消えると、アーさんだった男はグリモワールの表紙をぱたんと閉じる。そしてグリモワールを左手に持ったまま、その男はエメを見下ろした。
エメは何も理解できないまま、呆然とその光景を見上げたまま、困惑した声を出す。
「えっ……と、どちら様ですか……?」
「ひどいな。アーさんだって名付けたのはそっちだろ」
ひょろりとした体と骨ばった手と吊り目気味の琥珀の瞳を持ったその男は、どう見てもさっきまでのアポロンの姿とは似ても似つかない。大混乱中のエメを見て、面白そうににやりと笑った。
「本当の名前はアダンだ。
エメは疲れていた。そもそもが、寝不足だったのだ。それに、栄養も足りてなかった。判断力も思考力も普段よりもずっと低い状態だった。エメには目の前の出来事を処理できるだけの余力がまるっきり残っていなくて、なのでエメは思考を放棄した。つまり、エメはその場で気を失って、そのまま床に倒れ込んだ。
アダンと名乗った、元はアーさんだったその男は、舌打ちをするとグリモワールをサイドテーブルに放った。自由になった両手でエメを抱き上げてベッドに寝かせると、エメを見下ろして自分の後頭部を掻きむしる。
「ま、戻れたから良しとするか」
その男はそのまま、エメの隣に寝転んで狭いベッドの上でエメと並ぶ。しばらく目の前のエメを眺めていたけれど、そのうち飽きたように目を閉じた。
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