第二十二話 エメは見知らぬアーさんと会話する

 冒険者ギルドで床に散らばった書類を片付けて、あちこちに山積みになっている書類を仕分けていたら、ロイクが夕飯にとパンとスープを持ってきてくれた。初日から手伝ってくれたお礼だと言ってフラヴィの家で買ってきてくれたものだ。

 受付の奥で二人でスープを食べた後に、寮の案内をしてもらう。部屋の使用料は給料から引かれることになっているが、宿屋などに比べるとだいぶ格安だ。

 冒険者ギルドに並んだ何軒かの家が、職員用の寮になっていた。一回は共用部分で、二階に何部屋かある寝室が個室になっている。エメは女性職員だけが寝泊まりする寮の一室を使わせてもらうことになった。一緒に暮らす女性職員は、今は用事があってペティラパンにいるとのことで、挨拶はできなかった。

 家と部屋の出入りや戸締りはギルド職員タグでできる。後から「ダンジョンのMPマナ認証技術の応用のようです」という解説をグリモワールから聞いた。


 こじんまりした部屋に、ベッドとクローゼット、引き出しの収納が備え付けられていた。壁に穴を開けるなどしなければ、家具は自由に増やしたり動かしたりして良いらしい。

 エメはドアに鍵をかけると、ベッドに腰を降ろして肩掛けのバッグからグリモワールを取り出した。

 グリモワールが大きく深呼吸をするようにその頁を開く。エメはその頁に触れると、小さな声でグリモワールに呼び掛けた。


「仕事は見付けたし、ここが暮らす部屋になったけど……ダンジョンとの行き来はどうしたら良いでしょうか」


──おめでとうございます、マスター。こんなに早く仕事を見つけるなんて流石です。マスターは働き者です。あの男とは大違いだ。


「あの男?」


──いえ、なんでもありません。忘れてください。

──ダンジョンとの行き来でしたね。この部屋を一時的にダンジョンの一部にして、ここを裏口として使います。この部屋から直接行き来できれば、不自然な動きは減るでしょう。


「そんなことできるんですね」


 ダンジョンの最奥にある寝室ベッドルームをこの部屋と同じ構造にして、そこと繋げるのだとグリモワールは説明したけれど、その原理はエメにはさっぱりで、エメはただグリモワールの指示の通りに指先を動かして、声を出しただけだった。

 寮にもダンジョンにも同じ部屋があるし、そこにいる限りはどちらにも存在するのと同じことらしい。ダンジョンの部屋にあるドアは寮の部屋ではただの壁で、エメからはそれが重なって見えた。どちらかを強く意識すると、そちらの状態がはっきりと見える。


──マスター以外からはダンジョンの部屋は見えませんが、マスターの言動は見えるし聞こえるので、その点は注意してください。


 そうやってダンジョンと繋がってすぐ、ダンジョンの方のドアが開いて、アーさんが部屋に飛び込んできた。アーさんはベッドに座っているエメを見付けると、パッと顔を輝かせた。


「エメさん、エメさん! 待ってました!」


 アーさんは部屋に飛び込んできたその勢いでエメに飛び付いた。アーさんの大きな体に飛び付かれて、エメはそのままベッドに倒れ込む。


「あ、アーさん!? あの!」

「エメさん遅かったです! ずっと待ってました! MPマナください!」

「あの、重いので! どいてください! MPマナはあげますから!」


 アーさんはエメに折り重なったまま、その首筋に顔を埋めて動かない。そのままエメの首筋にぐりぐりと鼻を擦り付ける。エメはしばらくの間動く範囲で両手をじたばたとさせてそこから抜け出そうともがいていたが、アーさんの体はビクともしない。

 やがて気が済んだらしいアーさんが起き上がって、二人でベッドに並んで座った。アーさんは相変わらずエメの手を握って離さない。エメはほっと息をついて、片手で乱れた髪を整えた。


「魔水晶、足りませんでしたか?」


 エメの言葉に、アーさんは首を振ってしゅんと顔を俯けた。


「魔水晶はたくさんもらいました。でも、エメさんのMPマナが良いです。エメさんがいないと独りで寂しいです」


 アーさんが泣きそうな声でぐずぐずとエメの手を引っ張る。エメはアーさんの髪の毛をそっと撫でた。さらさらとした感触が、指の間を通ってゆく。少し可哀想にも思うけれど、これから毎日この状態になる。慣れてもらわないといけない。


「わたしは、毎日仕事をすることになりました。毎日朝から夜までは外に出ます。なので、その間は今日みたいにダンジョンで待っていてください」


 アーさんはこの世の終わりのような顔を持ち上げて、エメを見た。


「今日で終わりじゃないですか? 毎日ですか? ずっとですか?」

「はい。時々はお休みの日もありますけど」

「ダンジョンにいてください」


 エメは困って首を傾ける。また俯いてしまったアーさんの顔を下から覗き込んで、ゆっくりと話す。


「働かないと、ご飯を買えません」

「エメさんは魔水晶では駄目ですか?」

「わたしにはご飯が必要なんです。人からご飯を買うためには、ダンジョンで暮らすだけじゃ駄目で、人と一緒に生活しないといけません」


 アーさんはエメをじっと見つめ返す。エメはアーさんから目を逸らさずにじっと、アーさんを待った。どうにもならないことが理解できたのか、アーさんはようやく口を開いた。


「夜は一緒にいられますか?」

「仕事とか用事がないときは、できるだけ一緒にいますから」

「いなくなったりしませんか?」

「はい。ダンジョンには戻ってきます」


 それでもまだしばらく、アーさんはエメの心を覗き込むようにじっと目を見詰めていたが、やがて小さく頷いた。


「わかりました。エメさんがいない間、待ってます」

「はい、ありがとうございます」

「今は一緒にいますか?」

「はい、明日の朝まではダンジョンにいますよ」


 エメは静かに微笑んで、またアーさんの頭を撫でる。黄金きんの髪をさらさらと梳く感触に、アーさんは嬉しそうに目を細めた。そうして二人で笑い合って、アーさんはようやく落ち着いた様子で、エメの隣に静かに座り直した。

 エメはアーさんに手を握られたまま、グリモワールを膝に乗せて表紙を開く。今日は三組の冒険者が探索をして、魔水晶が増えている。ダンジョンのレベルも上がって魔水晶の所有上限も増えているし、設計デザインのコスト上限も増えて自由度も上がった。

 エメは増えた分の魔水晶でアイテムの11連召喚ガチャをした。Cコモンのマジックバッグがまた出てきたので、マジックバッグのレベル上限を上げる。魔水晶を消費してマジックバッグのレベルを少し上げておく。

 高レベル向けのダンジョンを作りたいなと考えてはみたものの、まだいろいろ足りなくて、今日も考えるだけで終わった。




 部屋にあるベッドは一人用なので、当然アーさんと二人で寝るには狭かった。ダンジョンマスターの部屋にあったベッドはもっと大きかったはずだ。

 グリモワールを開いてダンジョンマスターの部屋にあったベッドをここに持ってこれないかと相談したけれど、どうやらそれはできないようだった。


──ダンジョンの中は普通の空間ではないので、ダンジョンの外に干渉できません。ダンジョンの中だけであれば、自由にできるのですが。今はこの部屋がダンジョンマスターの部屋なので、ダンジョンの外にあるベッドに合わせた大きさになっています。


「意味がよくわからないですが、ベッドは大きくできないということでしょうか」


──この部屋のベッドを大きくすれば、ダンジョンの中のベッドも大きくなります。


「大きいベッドを買う必要があるってことですね。ひょっとして他の家具も……?」


──はい。この部屋とダンジョンが繋がった状態で、このマスターの部屋に必要なものがあるなら、それはダンジョンの外で揃える必要があります。


 エメは部屋を見回して溜息をつく。テーブルも椅子もない。買わないといけないものは多そうだ。手持ちのお金を思い出しながら、頭の中で欲しい家具の優先順位を考える。


「エメさん、まだ寝ませんか? 今日は昼間独りで我慢してました。夜は一緒に寝てください」


 ベッドの上で、アーさんは無邪気に笑ってエメの手を引っ張る。エメはまた溜息をついて、グリモワールを閉じると表紙を撫で、おやすみなさいと声をかける。そして、アーさんと並んでベッドに入った。

 ベッドの上は狭くて、エメの体はほとんどアーさんに抱き込まれるようになってしまう。厚い胸板と逞しい腕に包まれて、エメはぎゅっと目を閉じた。


「狭いですよね。大きいベッド買いますから」


 エメの言葉に、アーさんはエメの体に回した手に力を込めた。


「わたしは、このままの方が良いです。エメさんとくっつけて、MPマナもたくさんです。嬉しい」

「だけど、これじゃ、寝られません」

「そうですか?」


 アーさんはエメの頭の上で機嫌良くふふっと笑った後、本当にエメを抱きかかえたまま眠ってしまった。エメはできるだけ体を小さく固くして、ぎゅっと目を閉じるけれど、なかなか眠れなかった。




 アーさんとの距離が近すぎて、エメは夜中に何度か目を醒ました。その度に、自分の体が抱え込まれている状況にぎょっとして、それから状況を思い出してほっと息を吐いて、また目を閉じてまどろむ。

 そうやって何度目かに目を醒ました時に、自分の体を抱える腕がなくなっていることに気付いた。いつも自分の手をしっかり握っている大きな手のひらもない。これまでアーさんがエメから離れようとしたことがなかったので、エメの胸にざわりとした不安が湧き上がってくる。


「アーさん……?」


 寝転んだまま小さな声で呼び掛けると、小さな舌打ちの音が返ってきた。瞬きをして見上げると、上半身を起こしたアーさんがエメを見下ろしていた。

 その顔を見て、エメはびくりと体を固くする。


「アーさん、ですか……?」


 エメを見下ろす目付きが鋭い。いつものぼんやりしたアーさんには見えなくて、エメはその顔に怯えを滲ませた。エメのその表情を見て、アーさんが黄金きんの髪の毛を乱暴に掻き回して舌打ちする。その乱暴な手付きも、舌打ちも、これまでの子犬のようなアーさんとは程遠くて、エメは息を飲んだ。


「悪いが説明する時間はない。あんたはこれからも、俺にできるだけMPマナを渡してくれ。魔水晶だけじゃダメだ。あんたのMPマナが必要だ。MPマナをくれたら、俺がこの不具合バグをなんとかする」


 声量を抑えた囁き声は低く掠れていて、何かを気にするかのような早口だ。声は同じなのに、いつもののんびりと間延びしたような喋り方とは別人のようだった。


「……だ、誰……ですか?」

「俺は……」


 アーさんの姿をした男は少し言い淀んで、それからサイドテーブルに置かれているグリモワールをちらりと見た。


「アーさんだ、あんたが名付けただろう。普段のアーさんも俺だ、ちょっと制限ロックがかかっているだけで。騙してるとかじゃない」

「で、でも……」


 さらに何か言おうとするエメの口を、アーさんを名乗る男の手のひらが塞ぐ。エメは怯えた目を見開いて、目の前の男を見上げた。男はまた舌打ちして、エメがびくりと体を竦ませる。


「説明できなくて悪いとは思ってる。でももう時間がない。とにかくMPマナをくれ。それと」


 男の上半身がエメに倒れてきて、エメの耳元に唇が近付く。ほとんど吐息のような微かな囁き声が、エメの耳をくすぐった。


「グリモワールを信用しすぎるな」


 そして、アーさんの姿をした男は、エメの体をまた抱き込むと目を閉じて寝息をたてはじめた。エメの心臓はまだ大きく脈打っている。

 エメはそのまましばらく緊張に体を固くしていたけれど、いつまで経ってもアーさんの寝息しか聞こえないので、そっと腕の中から視線を上げた。暗い部屋の中でも輝くような美貌が、無邪気な子供のようなあどけない寝顔を見せている。

 エメは混乱したまま、それでも少しだけ緊張を解いた。体の力を抜いたら、ここまで感じていなかった眠気を急に思い出した。耐えきれず目を閉じて、アーさんの寝息を聞きながら、エメも眠りに落ちた。




 翌朝目を醒ましたエメは、自分の体がアーさんの腕の中に閉じ込められていて、びくりと体を固くした。昨夜の出来事を思い出して、そっとアーさんの顔を見上げると、幸せそうなぼんやりした寝顔が見えた。

 そのまま瞬きしてアーさんの寝顔を眺めていると、昨夜の出来事は夢だったのではないかとも思えてくる。それでも、口を塞がれた時の手の感触や、視線の鋭さ、耳元で囁かれた少し掠れた声は、確かに実感を伴ってエメの中に残っている。

 エメは両手でアーさんの胸元をぺちぺちと叩いた。


「アーさん、起きてください。仕事に行かないといけません。起きてください」


 目を醒ましたアーさんは、しばらくぼんやりと自分の腕の中にいるエメを見下ろしていたけれど、やがてふわふわと笑った。


「エメさん、おはようございます。昨日はMPマナがいっぱいで気持ち良かったです」


 そうやって少し間延びした声で喋るアーさんは、いつもの通りの子犬のような子供のようなアーさんで、エメは少しほっとする。


「おはようございます。あの、それで、仕事に行くのに着替えないといけないので、離して欲しいのですが」

「あっ仕事……」


 アーさんは、少し悲しそうな顔をしたけれど、大人しくエメの体を解放した。エメがベッドから降りると、アーさんはベッドの上に体を起こしてエメを見上げた。

 その寂しそうな表情はすっかりいつものアーさんで、エメは昨夜の出来事を頭の片隅に追いやって、アーさんの頭を撫でた。


「仕事が終わったら帰ってきますから、ダンジョンで待っていてください。魔水晶も多めに置いておきますね」

「我慢して待ってます。だから、帰ってきたらエメさんのMPマナをください」

「はい。アーさんは良い子ですね」


 髪を梳くエメの指先に、アーさんは目を細めた。

 エメはサイドテーブルに置いたグリモワールの表紙を開いて、「信用しすぎるな」という声を思い出して動きを止める。少し振り返ってアーさんを見るけれど、アーさんはいつものぼんやりした表情でエメを見ているだけだった。

 結局エメはいつものように、目次メニューを開いてその頁に触れた。


「グリモワールさん、おはようございます」


──おはようございます、マスター。


 今日の報酬リワードを受け取るのは、最近のエメの日課になっている。今日も報酬リワードを受け取って、エメの一日が始まった。

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