第二十話 エメの新しい生活が始まった
召喚の虹色の光に包まれて、長い
アポロンが着ているのにも似た真っ白いトーガを身に纏い、手には三日月のような弓。
きりっと力強い瞳は、夜空に浮かぶ月のような蜂蜜色。ふっくらとした可憐な色の唇がゆっくりと開く。
「わたしは『三日月の女神 アルテミス』──わたしの矢で貫かれたいの?」
アルテミスと名乗ったそのモンスターは、挑戦的な瞳でそう告げた。
──『三日月の女神 アルテミス』は『太陽神 アポロン』の双子の妹で、アポロンとは関係の深いモンスターです。
グリモワールの解説に、エメは目の前のアルテミスと自分のすぐ後ろにいるアポロンを見比べて頷いた。
「言われてみれば、顔立ちが似ている気がします」
エメはアルテミスをすぐに部屋に入れず、自分の後ろでぼんやりと立っているアポロンの手を引いて、自分の隣に立たせた。そして、アルテミスに向き直る。
「アルテミスさん、初めまして。このダンジョンはまだ始まったばかりで
エメは自分の隣のアポロンの背中を押して、さらに一歩アルテミスに近付ける。アポロンはアルテミスを見てもぼんやりとしたままで、自分の背中を押すエメを振り返った。
「エメさん、どうしましたか? わたしは、エメさんと一緒が良いです」
「離れようとしてる訳ではないので、安心してください。アポロンさんのことがわかるかもしれないんです」
自分のことだと言われても、アポロンはきょとんと首を傾げるばかりだった。
アルテミスは瞬きをしてその光景を眺めていたが、やがて眉を寄せてアポロンを見詰める。まるで、睨み付けるような視線だった。
「それがアポロンですって?」
アルテミスの声に、エメは困ったようにアポロンとアルテミスの間で視線を彷徨わせた。
「ええっと、それが、アポロンさんの様子がおかしいんです。召喚してからずっとこんな調子で……名乗りもしなくて。ステータスも
「名乗らないのに、どうしてアポロンだと?」
「それは……名前欄と見た目からグリモワールさんが」
アルテミスは目を伏せて、ゆっくりと首を振った。アポロンを見る眼差しは、嫌悪を隠そうともしない。
「アポロンではないわ。それは神の器ではない。見た目を偽っているのではないかしら?」
「
エメが返答に困ってアポロンを見上げると、アポロンはのほほんとエメを見下ろしていた。
「エメさん、わたしのこと、何かわかりましたか?」
「ええと、ごめんなさい、アポロンさんはアポロンじゃないみたいで……」
今度はグリモワールを見る。
──
もう一度アルテミスを見る。アルテミスも背が高い。アポロンとアルテミスの美貌はとても神々しく、といっても実際に神を名乗っているのだけれど、そんな二人に挟まれて、エメはくらくらとしてくる。
「どうしよう。アポロンじゃないってことしかわからないですよね……」
「だから、アポロンではないわ。アポロンでもないもののことなど、わたしが知る訳がないでしょう」
「わたしのことですか?」
アポロンが首を傾けたまま会話に入ってくる。その顔をアルテミスが睨み付けた。
「あなたはアポロンではないのだから、アポロンと名乗るのをやめて頂戴。見た目を偽るのもやめなさい」
アポロンではないアポロンの見た目のモンスターは、ぼんやりとしたまま、アルテミスに応える。
「わたしは、名乗ることができません。エメさんがアポロンだと言ったので、アポロンになりました。見た目は、自分ではわかりません」
「アルテミスさんごめんなさい。名前欄がアポロンだったのでアポロンと呼んでいました。名前がないのは不便ですし。見た目も最初からこうだったんです! どうやって変えられるかもわからなくて!」
アルテミスの声が冷たくてエメは慌てて間に割って入ったものの、解決法が浮かばず、そのままおろおろするばかりだった。アルテミスは溜息をつく。
「わかったわ。とにかく、名前だけでも『アポロン』と呼ぶのをやめて頂戴」
「わ、わかりました。でも、どうしよう、名前ないのも困るし」
エメは隣で突っ立っているアポロンの姿をしたモンスターを見上げる。
「エメさんは困っていますか?」
「困ってます。あのですね、アポロンさんはアポロンじゃないってことがわかったので、別の名前が必要です」
「わたしの名前?」
名前がなくなってしまったモンスターは、あまりぴんときてないようで、エメを見詰めたまま何度か瞬きをする。
「『ああああ』とでも名乗るが良いわ」
アルテミスがふんと横を向く。その声に、名前のないモンスターはアルテミスの方を見た。
「わたしの名前は『ああああ』ですか?」
「待って待って! それはあんまりだから! あ、ああ……『アーさん』で! とりあえずだけど『ああああ』よりマシでしょ!」
エメの発想は完全に『ああああ』に釣られていた。アルテミスも少し呆れたような声を出す。
「それは『ああああ』とあまり変わらないのではなくて? まあ、アポロンと名乗らないのであれば、なんでも良いわ」
アルテミスのお許しがあったので、エメはアポロン改めアーさんを見上げた。
「これからは、アポロンさんではなく、アーさんになります。良いですか?」
「わたしはアー?」
「え、あ、そうなる……のかな? ともかく、わたしはアーさんと呼びますね」
「エメさんが名前をくれましたか?」
「え、ええと……そうですね。アーさんと呼んで良いですか?」
アーさんは、口の中で小さく「アーさん」と呟いて、くすぐったそうにふふっと笑った。
「はい。エメさんの名前、嬉しいです」
とりあえず場が収まったことにほっとして、エメは安堵の溜息をついた。
ダンジョンの
エメとしてはもっと心躍るダンジョンを用意したいのに、思ったようにならなくて、配置しては取り除いて、取り除いては配置してを繰り返した。
「うまくいかないなあ」
何度目かの
そういえば、フロランの妹も一時期フロランにべったりくっついて離れない頃があったと、村での暮らしを少し懐かしく思い出したりもした。
──マスターが冒険者の時に探索していたダンジョンを参考にするのはどうでしょうか。どのくらいの種類のモンスターが配置されていて、どのくらいのアイテムがドロップしていたか、あとは広さや構造はどうでしたか?
「えー……っと、そっか……思ったより広くなかったような気がします。基本的には一本道でそんなに複雑でもなかったですし。モンスターの種類も……今考えると、そんなに多くなかったかもしれません」
──初心者にとっては、そういうダンジョンの方が探索しやすいのではないでしょうか。マスターはたくさんの
「わかやすいと、こう……わくわくする感じが減ったりしませんか?」
──わくわくというのは、未知への期待や緊張感といったものでしょうか。常に未知のものを出し続けるなら、短いスパンで
──マスターが冒険者の時はどうでしたか? わかりやすいダンジョンの探索では、わくわくしなかったのでしょうか?
グリモワールに問いかけられて、エメは瞬きをして、それから少し考え込んだ。
ダンジョンに出てくるモンスターは、探索の前からわかっていた。ドロップするアイテムも。そもそも、それらの情報は
出てくるモンスターがほとんど同じでも、ドロップするアイテムが同じでも、同じメンバーで潜っても、それでも同じ探索はなかった。
「そっか、そうですね。モンスターもアイテムも、もっと種類を少なくしてみます!」
エメは意気込んで、自分のモンスター一覧を見直し始めた。
実際のところ、エメの探索が毎回ひどい緊張感を伴っていたのはエメの
そのあと空腹に気付いて、エルヴェからもらった
それから、その日の午後を全部使って、
「エメさん、終わりましたか?」
エメが嬉しそうにしているせいか、アーさんもにこにことしている。
「はい。うまくできたと思います」
「良かったです。お疲れ様です」
「ありがとうございます」
アーさんの労いの言葉は真っ直ぐで、エメはそれも嬉しかった。アーさんは穏やかに笑っていて、エメはなんだか久しぶりにほっと体の力が抜けた気がした。
水筒に入っていた水がなくなって、グリモワールに相談すると、
その説明を聞いて初めて、エメは今自分がどういう状況なのかわからないことに気付いた。
今エメがいる場所はダンジョンの最奥で、冒険者が入ってこれないところらしい。ずっと過ごした部屋のドアを開けると、廊下があった。この廊下に、
グリモワールの案内で
エメが
幸いと言って良いものかどうか、ベッドはとても広かった。アーさんがエメの手を離さないので、エメは諦めてアーさんと一緒に寝ることにした。アーさんは上機嫌で、エメの手を握って眠った。エメは最初こそ緊張していたものの、途中からは完全に子供を寝かし付ける気分で、アーさんのあどけない寝顔を見て高い体温を感じるうちに、自分もすっかり眠りに落ちたのだった。
夜中、ベッドの上でアーさんは目を覚ました。壁に付けられた小さな灯りが、部屋の中をぼんやりと照らしている。あの灯りはダンジョンにある灯り付きの壁と同じものだ。
アーさんはそのまましばらく、じっとしていた。アーさんの隣には、エメが眠っている。アーさんの体はエメの方を向いて横向きに寝転んで、エメの左手を両手で包み込んでいる。
アーさんはエメの手を離して、起き上がって頭を振った。ぱたりとエメの左手がシーツに落ちて、エメは寝返りをうってアーさんの方を向いたけれど、目を覚ます気配はなかった。
アーさんはしばらく自分の両手を見詰め、その手で髪をかきあげたり、自分の顔や体に触れたりしていたが、やがて小さく舌打ちした。その顔に昼間のぼんやりとした表情はなく、目付きは鋭い。
少しだけ眠っているエメを見下ろしてから、サイドテーブルで静かに表紙を閉じていた
「モンスター一覧」
囁くようなアーさんの声に、グリモワールは反応した。モンスター一覧の頁が開かれて、アーさんがその手を頁に滑らせる。そしてすぐに、また舌打ちした。アーさんの指先が触れたところに出ていた虹色の光が消えていた。その指先がイライラと頁を叩く。
「
アーさんはグリモワールを閉じると、元のようにサイドテーブルに置いた。そして、シーツの上に投げ出されているエメの左手に右手で触れる。
「
アーさんは左の手で髪の毛をぐしゃぐしゃと搔きまわす。輝くような
「ああ、ちくしょう。まだ無理か」
それから諦めたように溜息をついて、上半身を横たえる。背中を丸めてエメに顔を近付け、その顔を覗き込む。そうやって至近距離でエメの顔を見ながら何か考えていたが、やがて舌打ちをしてエメから離れた。そして、エメの左手を握り直して目を閉じた。
エメは最後まで、気付かずに眠っていた。
翌朝目を覚ましたエメは、人間離れした美貌が目の前にあることに動揺して、もう少しでベッドから落ちるところだった。
手を引っ張られたアーさんも目を覚まして、小さなアクビをした後に、エメを見つけて子犬のようにふわふわと笑った。
「エメさん、エメさん」
「あ、えっと、はい、おはようございます」
「おはようございます、エメさん」
アーさんの見た目は相変わらずアポロンのままで、朝から無駄に神々しく輝いている。それなのに、そこに浮かんでいる表情は、どこかぼんやりとしていて、エメは相変わらず子犬にじゃれつかれているように感じていた。
エメは部屋を見回して、ここがダンジョンの最奥のダンジョンマスターの部屋だということを思い出す。今日は中級者向けのダンジョンを作りたいな、と寝起きの頭で考える。
こうして、エメのダンジョンマスターとしての生活は始まったのだった。
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