第十八話 エメはアポロンとスキンシップする

「あの! これはくっつき過ぎだと思うのですが!」


 アポロンは、ソファに座ったエメに横から抱き付いて、エメの首筋に鼻を押し当てていた。

 先ほどアポロンが苦しそうにしていたのは、どうやらモンスターではあり得ない「MPマナ不足」という症状らしい。今はけろっとしているが、そのMPマナ不足だったというアポロンに「MPマナが必要です。直接MPマナをください」と言われて了承した結果が、今のこの状況だった。


──モンスターが一体、契約破棄されました。それによって得られるはずの虹のカケラは手に入っていません。このまままたMPマナ不足のステータスになると、他のモンスターも同じ状態になるかもしれません。

──マスターは、アポロンへMPマナを渡しておいてください。頭を撫でたり手を握ったりなどでマスターのMPマナを渡すことができます。「スキンシップ」機能は、本来は一日に一回それによって信頼度とレベルに多少のボーナスがあるというものですが、MPマナを渡せるのでちょうど良いでしょう。


 グリモワールはつっかえつっかえそう綴った後に、「調査してきます」と綴り残してぱたんと表紙を閉じてしまった。今はローテーブルの上で静かにしている。


「ここ、良いにおいがします。MPマナ、美味しそう」

「くすぐったいです。ちょっと、離れて、ください」


 アポロンが喋ると首筋に息がかかって、落ち着かない。エメは逃げるように肩をすくめて必死にアポロンの体を押し返した。まるで頭の悪い大型犬みたいだとエメは思った。

 エメがあまりに必死で抵抗するので、アポロンはようやく体を離した。それから、拒絶するエメの手を見下ろして、しゅんと俯く。構ってもらえない犬が尻尾を下げる様子が見えて、エメは一瞬言葉に詰まったが、首を大きく振って言葉を続ける。


「手を握る程度でも、MPマナは渡せるんですよね?」

「手だけだとMPマナが少ないです。たくさん触った方がMPマナもいっぱいになります。口で触るともっといっぱいです」

「駄目です! 普通は、そんなにくっついたり、口を近付けたりしません! 手だけ! 手だけです! 口も駄目です!」


 エメはアポロンの体を近付けまいと必死に腕を伸ばす。いくら犬か子供のような言動を見せていても、実際はモンスターだとわかっていても、体格の良い男性の姿でぴったりとくっつかれて体に触れられて、平常心ではいられない。

 エメの拒絶に、アポロンはしょんぼりしたまま、それでも大人しくエメから距離をとった。そして、エメに両手を差し出す。


「わかりました。手で我慢します。だからMPマナをください」


 エメはようやくほっと体の力を抜いて、そして左手を差し出す。アポロンはぱっと笑顔を見せてエメの左手を両手でそっと握った。


「これだとちょっとずつ……でも、大丈夫……MPマナ良いにおい」


 アポロンはそうやってしばらく自分の両手に包まれたエメの手を見ていたけれど、やがてにこにことした顔をあげてエメを見た。


「このMPマナ好きです。ありがとうございます。ここまでしか近づきません。口も使いません」


 アポロンはその言葉通りに、大人しく適度な距離を持ってソファに座っている。エメはほっと息を吐いて、早く戻ってきてと念じながらグリモワールを見詰めて、動き出すのを待っていた。




 ようやくグリモワールがその表紙を開いて、エメの膝の上に乗った。白い頁の上に、ためらうように文字が綴られ始める。


──お待たせしました。確認すべきことが多くて手間取ってしまいました。

──まず、一連の操作についてですが、マスターがMPマナ認証したものとして記録ログが残っていました。


「え、わたしそんな操作してないけど……」


──導入説明チュートリアル中なのでその他の操作ができたとは考えにくいのですが、一時中断していたせいかもしれません。ともかく、魔道書わたしとしては、マスターのMPマナで認証が行われている以上、正規の認証を通過したマスターの操作であると見做すことになります。


 グリモワールの言葉がやけに遠回しに聞こえて、エメは首を傾けた。


「あの……さっきは、アポロンさんが操作してたような気がするんですけど」


──アポロンが、ですか。それはあり得ないでしょう。

──そもそもマスターのMPマナ以外でMPマナ認証は通りません。魔道書わたしを操作できるのは、現在マスターだけです。


 グリモワールがきっぱりと書き切った文章を見て、エメはそれ以上何も言えずに黙ってしまった。

 自分が操作していないということだけは言えるけれど、エメがそれ以上に言えることがない。今はグリモワールの説明を聞く方が良いかもしれない。


──ともかく順番に説明します。

──まず、今のMPマナ認証の点です。今回の操作記録ログの全てでMPマナ認証済みのマスターのマナが記録されていました。よって、先ほどの出来事はマスターの操作であると見做され、以降の話は全てそれを前提とします。


「わたしが操作したことになってるってことですか」


──少なくとも記録ログ上は、正しくマスターによる操作です。それを踏まえて伝えることは三点あります。

──「牙大蝙蝠ファングジャイアントバットの契約破棄」「虹のカケラのMPマナ回復アイテムへの交換」「MPマナ回復アイテムの使用」の三点です。

──まずは「牙大蝙蝠ファングジャイアントバットの契約破棄」から話します。


「……はい」


──今回の件に限らず、モンスターとの契約破棄は不可逆の行為です。契約を破棄した時点で、モンスターと契約していた間の情報は失われます。なので、いかなる理由があっても、今回の契約破棄をなかったことにはできません。また、契約破棄によって規定量の虹のカケラが発生し受け取っている記録ログも残っています。正規の操作で破棄が行われ、その結果の虹のカケラも受け取っているという状態なので、補填も行われません。


牙大蝙蝠ファングジャイアントバットは戻ってこないってことですね」


──はい。次に「虹のカケラのMPマナ回復アイテムへの交換」についてです。

──この点についてですが、ダンジョンこちら不具合バグが確認できました。本来であれば、牙大蝙蝠ファングジャイアントバットの契約破棄で発生する虹のカケラだけでは、今回交換された「月砂花つきすなばなの蜜」というMP《マナ》回復アイテムとの交換には足りません。アイテムとの交換の際に必要な虹のカケラが足りない場合、ごくごく僅かなタイミングに合わせて特定の操作をすることで交換できてしまう不具合バグがありました。通常の操作ではまず発生し得ない状況ですが、可能性は0ゼロではありません。


「ごくごく僅かなタイミングに合わせて特定の操作……そんなことがあるんですね……」


 エメはぼんやりとグリモワールの言葉を繰り返して、隣に座っているアポロンを見た。エメは不具合バグという言葉が示すものがよくわかっていない。状況がよくわかっていないエメにとって、不具合バグというのは今隣にいるアポロンそのものだった。

 アポロンはエメの左手を握って背もたれに体重を預けてぼんやりとしていたけれど、エメが自分の方を向いた途端、体を起こして顔を輝かせてエメを見た。その何かを期待するような表情に困って、エメはまたグリモワールに視線を戻す。


──念のため注意しておきますが、故意に不具合バグを起こすような行為は重大な規約違反です。場合によってはダンジョンマスター契約破棄もあり得ます。絶対に試すようなことはしないでください。


「わかりました。試したいとは思わないけど」


──正しい判断です。


 そういえばさっきも「規約違反」という言葉を聞いたなとエメはぼんやりと考えた。なんの話の時だっただろうかと思い出そうとしたけれど、グリモワールが次の言葉を綴り始めたので、そのままになってしまった。


──話を戻しますが、こちらの不具合バグのお詫びとして、交換に使われたのと同量の虹のカケラを補填します。報酬受取リワードボックスに振り込んでおきますから、後ほど受け取りをお願いします。

──交換で手に入れたMPマナ回復アイテムについては次に話しますが、これの返却は不要です。


「虹のカケラというのがなんなのかわからないけど、導入説明チュートリアルの途中だからなんですよね。わかりました」


──そうですね。このダンジョンわたしのマスターは本当に話が早くて優しくて、感激のあまり字が滲んでしまいそうです。


 エメは瞬きをした後、何も言わずに曖昧に笑った。相変わらず魔道書グリモワール特有の表現はよくわからない。


──では、次の話に移りましょう。「MPマナ回復アイテムの使用」についてです。

──今回使用された「月砂花つきすなばなの蜜」は、本来はダンジョンマスターのMPマナを回復させるアイテムです。モンスターに使用できるものではありません。そもそも、月砂花つきすなばなの蜜を使用した記録ログは残っていません。ですがアイテム一覧にも存在しません。

──月砂花つきすなばなの蜜を使用したけれどその効果を発揮せずにアイテム一覧から失われたという状況なので、本来であれば月砂花つきすなばなの蜜を補填するという状況です。ですが、今回の月砂花つきすなばなの蜜はそもそも不具合バグによって不正に入手されたものです。よって、補填はありません。


「ええっと……つまりどういうことでしょうか?」


──そもそも月砂花つきすなばなの蜜が存在したことそのものが、不具合バグによって引き起こされた間違った状態です。その効果がなくなっても、存在がなくなっても、間違っていたものが正しくなっただけと考えます。月砂花つきすなばなの蜜との交換で使用された虹のカケラについても補填されているので、交換がなかった状態まで戻ったと言えます。


月砂花つきすなばなの蜜というアイテムは、最初から持っていなかったってことで合ってますか……?」


 エメはそう言ってはみたものの、なんだか少し腑に落ちないでいる。


──記録ログ上はそれで辻褄が合います。納得しがたいかもしれませんが、全てを元に戻すことはできないので、これで解決とさせてください。


「ええっと……結局、わたしが牙大蝙蝠ファングジャイアントバットを契約破棄して、その虹のカケラというのを受け取った、という状況ってことでしょうか」


──はい。各種記録ログの矛盾が少ない解釈を選択するとそのようになります。


「んー……正直よくわかってないんですけど、わかりました」


 これ以上聞いても理解できなさそうだと思ったので、エメはグリモワールの解決を受け入れることにした。自分が操作していないことは確かなのだけれど、それを伝えて何かが変わるとも思えない。

 グリモワールが感謝の言葉を独特の語彙で表現していたのだけれど、エメはアポロンの方を見ていて読んでいなかった。

 アポロンが餌を期待する子犬のような表情でエメを見る。エメよりも随分と大きな体の、それも見た目だけならとびきり美しい男の人が、こんなふうに子供のような言動を見せるので、エメはずっとどう接して良いのか分からないままだ。


「その、アポロンさんのMPマナ不足と、モンスターなのに月砂花つきすなばなの蜜を使ったという話はどうなりますか?」


──それらについては調査中です。そもそも存在自体が不具合バグのようなものなので、調査は難しいかもしれません。ただ、これは先ほども伝えましたが、またMPマナ不足になると同じようなことが発生する可能性は高いです。できるだけ「スキンシップ」を実行して、MPマナを渡して、MPマナ不足にならないように注意してください。


「わかりました」


 エメはアポロンに握られている自分の左手を見て、溜息をつく。カロルのところの子供たちと同じようなものだと思えばなんとかやっていけるだろうか。

 そのエメの左手を、アポロンが軽く引っ張った。首を傾けて、不思議そうな顔をして、じっとエメを見ている。エメも首を傾げてアポロンを見た。


「どうかしましたか?」

「アポロンというのは、わたしですか?」

「え」


 エメはきょとんとした顔で瞬きをして、それからぽかんと口を開けた。不便だからアポロンと呼んでいたけれど、ステータスも名前の表示も不具合バグの可能性があることを思い出した。


「あ、ひょっとして、別の名前がありますか」

「名前? わたしのですか? わかりません。わたしはアポロンですか?」


 困ったように眉を寄せて、エメはグリモワールを見た。


「アポロンというモンスターなんですよね?」


──少なくとも、見た目はアポロンと同じです。ステータス表示もアポロンになっています。


「とりあえず、アポロンって呼ぶしかないか」


 エメは溜息をついて、またアポロンを見る。


「あのですね。名前がわからないと困るので、アポロンさんと呼びますね。嫌じゃないですか?」

「わたしはアポロンですね。わかりました。嫌じゃないです」


 アポロンは嬉しそうに目を細めて、くすぐったそうに肩をすくめて、にっこりと笑った。


「名前、呼ばれるの嬉しいです」

「なら良かったです」


 アポロンの表情に、エメも釣られて笑顔になる。アポロンはエメの左手を持ち上げてふふっと笑った後、何かに気付いたのか、急に「あ」と声を上げた。


「そうだ、あなたの名前、呼べないです」

「名前? わたしの……ですか?」

「はい。名前、呼びたいです。教えてください」


 言われて、エメは自分が名乗っていなかったことに気付く。そもそも、このアポロンを召喚してから、ずっと訳が分からないうちに話が進んで、名乗る暇はなかったように思う。


「わたしは、エメです」

「エメ……エメさん?」

「はい。エメです。よろしくお願いします」


 アポロンは、その赤い瞳をきらきらと見開いて、頰を上気させて、自分の名前が呼ばれた時よりもずっと嬉しそうに、笑った。


「エメさん! エメさん! よろしくです! 嬉しい! エメさん!」


 アポロンの黄金色の髪がふわっと広がって、マントがふわりと揺れる。アポロンはエメの左手を離すと、両手を広げてエメに抱き着いた。


「アポロンさん! 落ち着いてください! 駄目、離れて! 近付かないって言ったじゃないですか!」


 アポロンの体の厚みと熱を感じながら、エメはその腕の中でその胸を叩いたり押したりする。エメが必死に手を動かしても、アポロンの立派な体躯はびくともしない。背中に触れるアポロンの手が熱く感じられる。アポロンがモンスターなのは理解していても、こうやっていると人と変わらないように感じられた。

 そうやって、アポロンはしばらくの間、じたばたと暴れるエメを腕の中に抱え込んでいた。エメが疲れてきた頃、ようやくぱっとエメを解放して、ソファの上で少し離れて坐り直す。


「そうでした。近付きません。口も使いません。手で我慢します」


 エメは大きく息をして呼吸を整えてから、アポロンに左手を差し出す。アポロンは今度は右手だけでその手に触れ、握ったり指を絡めたりし始めた。口の中で時折「エメさん」と小さく呟いては、ふふっと笑っていた。


 もしかしたら、とエメは考える。もしかしたら、アポロンはこの先、ずっと自分にくっついているつもりなのだろうか。自分はこの先、やっていけるだろうか。

 自由にならない自分の左手を見ながら、エメはよぎった不安を小さな溜息に乗せて自分の中から追い出した。

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