第十八話 エメはアポロンとスキンシップする
「あの! これはくっつき過ぎだと思うのですが!」
アポロンは、ソファに座ったエメに横から抱き付いて、エメの首筋に鼻を押し当てていた。
先ほどアポロンが苦しそうにしていたのは、どうやらモンスターではあり得ない「
──モンスターが一体、契約破棄されました。それによって得られるはずの虹のカケラは手に入っていません。このまままた
──マスターは、アポロンへ
グリモワールはつっかえつっかえそう綴った後に、「調査してきます」と綴り残してぱたんと表紙を閉じてしまった。今はローテーブルの上で静かにしている。
「ここ、良いにおいがします。
「くすぐったいです。ちょっと、離れて、ください」
アポロンが喋ると首筋に息がかかって、落ち着かない。エメは逃げるように肩をすくめて必死にアポロンの体を押し返した。まるで頭の悪い大型犬みたいだとエメは思った。
エメがあまりに必死で抵抗するので、アポロンはようやく体を離した。それから、拒絶するエメの手を見下ろして、しゅんと俯く。構ってもらえない犬が尻尾を下げる様子が見えて、エメは一瞬言葉に詰まったが、首を大きく振って言葉を続ける。
「手を握る程度でも、
「手だけだと
「駄目です! 普通は、そんなにくっついたり、口を近付けたりしません! 手だけ! 手だけです! 口も駄目です!」
エメはアポロンの体を近付けまいと必死に腕を伸ばす。いくら犬か子供のような言動を見せていても、実際はモンスターだとわかっていても、体格の良い男性の姿でぴったりとくっつかれて体に触れられて、平常心ではいられない。
エメの拒絶に、アポロンはしょんぼりしたまま、それでも大人しくエメから距離をとった。そして、エメに両手を差し出す。
「わかりました。手で我慢します。だから
エメはようやくほっと体の力を抜いて、そして左手を差し出す。アポロンはぱっと笑顔を見せてエメの左手を両手でそっと握った。
「これだとちょっとずつ……でも、大丈夫……
アポロンはそうやってしばらく自分の両手に包まれたエメの手を見ていたけれど、やがてにこにことした顔をあげてエメを見た。
「この
アポロンはその言葉通りに、大人しく適度な距離を持ってソファに座っている。エメはほっと息を吐いて、早く戻ってきてと念じながらグリモワールを見詰めて、動き出すのを待っていた。
ようやくグリモワールがその表紙を開いて、エメの膝の上に乗った。白い頁の上に、ためらうように文字が綴られ始める。
──お待たせしました。確認すべきことが多くて手間取ってしまいました。
──まず、一連の操作についてですが、マスターが
「え、わたしそんな操作してないけど……」
──
グリモワールの言葉がやけに遠回しに聞こえて、エメは首を傾けた。
「あの……さっきは、アポロンさんが操作してたような気がするんですけど」
──アポロンが、ですか。それはあり得ないでしょう。
──そもそもマスターの
グリモワールがきっぱりと書き切った文章を見て、エメはそれ以上何も言えずに黙ってしまった。
自分が操作していないということだけは言えるけれど、エメがそれ以上に言えることがない。今はグリモワールの説明を聞く方が良いかもしれない。
──ともかく順番に説明します。
──まず、今の
「わたしが操作したことになってるってことですか」
──少なくとも
──「
──まずは「
「……はい」
──今回の件に限らず、モンスターとの契約破棄は不可逆の行為です。契約を破棄した時点で、モンスターと契約していた間の情報は失われます。なので、いかなる理由があっても、今回の契約破棄をなかったことにはできません。また、契約破棄によって規定量の虹のカケラが発生し受け取っている
「
──はい。次に「虹のカケラの
──この点についてですが、
「ごくごく僅かなタイミングに合わせて特定の操作……そんなことがあるんですね……」
エメはぼんやりとグリモワールの言葉を繰り返して、隣に座っているアポロンを見た。エメは
アポロンはエメの左手を握って背もたれに体重を預けてぼんやりとしていたけれど、エメが自分の方を向いた途端、体を起こして顔を輝かせてエメを見た。その何かを期待するような表情に困って、エメはまたグリモワールに視線を戻す。
──念のため注意しておきますが、故意に
「わかりました。試したいとは思わないけど」
──正しい判断です。
そういえばさっきも「規約違反」という言葉を聞いたなとエメはぼんやりと考えた。なんの話の時だっただろうかと思い出そうとしたけれど、グリモワールが次の言葉を綴り始めたので、そのままになってしまった。
──話を戻しますが、こちらの
──交換で手に入れた
「虹のカケラというのがなんなのかわからないけど、
──そうですね。
エメは瞬きをした後、何も言わずに曖昧に笑った。相変わらず
──では、次の話に移りましょう。「
──今回使用された「
──
「ええっと……つまりどういうことでしょうか?」
──そもそも
「
エメはそう言ってはみたものの、なんだか少し腑に落ちないでいる。
──
「ええっと……結局、わたしが
──はい。各種
「んー……正直よくわかってないんですけど、わかりました」
これ以上聞いても理解できなさそうだと思ったので、エメはグリモワールの解決を受け入れることにした。自分が操作していないことは確かなのだけれど、それを伝えて何かが変わるとも思えない。
グリモワールが感謝の言葉を独特の語彙で表現していたのだけれど、エメはアポロンの方を見ていて読んでいなかった。
アポロンが餌を期待する子犬のような表情でエメを見る。エメよりも随分と大きな体の、それも見た目だけならとびきり美しい男の人が、こんなふうに子供のような言動を見せるので、エメはずっとどう接して良いのか分からないままだ。
「その、アポロンさんの
──それらについては調査中です。そもそも存在自体が
「わかりました」
エメはアポロンに握られている自分の左手を見て、溜息をつく。
そのエメの左手を、アポロンが軽く引っ張った。首を傾けて、不思議そうな顔をして、じっとエメを見ている。エメも首を傾げてアポロンを見た。
「どうかしましたか?」
「アポロンというのは、わたしですか?」
「え」
エメはきょとんとした顔で瞬きをして、それからぽかんと口を開けた。不便だからアポロンと呼んでいたけれど、ステータスも名前の表示も
「あ、ひょっとして、別の名前がありますか」
「名前? わたしのですか? わかりません。わたしはアポロンですか?」
困ったように眉を寄せて、エメはグリモワールを見た。
「アポロンというモンスターなんですよね?」
──少なくとも、見た目はアポロンと同じです。ステータス表示もアポロンになっています。
「とりあえず、アポロンって呼ぶしかないか」
エメは溜息をついて、またアポロンを見る。
「あのですね。名前がわからないと困るので、アポロンさんと呼びますね。嫌じゃないですか?」
「わたしはアポロンですね。わかりました。嫌じゃないです」
アポロンは嬉しそうに目を細めて、くすぐったそうに肩をすくめて、にっこりと笑った。
「名前、呼ばれるの嬉しいです」
「なら良かったです」
アポロンの表情に、エメも釣られて笑顔になる。アポロンはエメの左手を持ち上げてふふっと笑った後、何かに気付いたのか、急に「あ」と声を上げた。
「そうだ、あなたの名前、呼べないです」
「名前? わたしの……ですか?」
「はい。名前、呼びたいです。教えてください」
言われて、エメは自分が名乗っていなかったことに気付く。そもそも、このアポロンを召喚してから、ずっと訳が分からないうちに話が進んで、名乗る暇はなかったように思う。
「わたしは、エメです」
「エメ……エメさん?」
「はい。エメです。よろしくお願いします」
アポロンは、その赤い瞳をきらきらと見開いて、頰を上気させて、自分の名前が呼ばれた時よりもずっと嬉しそうに、笑った。
「エメさん! エメさん! よろしくです! 嬉しい! エメさん!」
アポロンの黄金色の髪がふわっと広がって、マントがふわりと揺れる。アポロンはエメの左手を離すと、両手を広げてエメに抱き着いた。
「アポロンさん! 落ち着いてください! 駄目、離れて! 近付かないって言ったじゃないですか!」
アポロンの体の厚みと熱を感じながら、エメはその腕の中でその胸を叩いたり押したりする。エメが必死に手を動かしても、アポロンの立派な体躯はびくともしない。背中に触れるアポロンの手が熱く感じられる。アポロンがモンスターなのは理解していても、こうやっていると人と変わらないように感じられた。
そうやって、アポロンはしばらくの間、じたばたと暴れるエメを腕の中に抱え込んでいた。エメが疲れてきた頃、ようやくぱっとエメを解放して、ソファの上で少し離れて坐り直す。
「そうでした。近付きません。口も使いません。手で我慢します」
エメは大きく息をして呼吸を整えてから、アポロンに左手を差し出す。アポロンは今度は右手だけでその手に触れ、握ったり指を絡めたりし始めた。口の中で時折「エメさん」と小さく呟いては、ふふっと笑っていた。
もしかしたら、とエメは考える。もしかしたら、アポロンはこの先、ずっと自分にくっついているつもりなのだろうか。自分はこの先、やっていけるだろうか。
自由にならない自分の左手を見ながら、エメはよぎった不安を小さな溜息に乗せて自分の中から追い出した。
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