第十七話 エメは詫び石を手に入れた
エメはまたソファーに座って、膝の上にグリモワールを乗せている。グリモワールは重厚感のある大きな本ではあるけれど、膝の上に乗せても手で持ってもさほど重さを感じない。もしかしたら普段から浮いているのかもしれない。
アポロンの見た目をしたモンスターは、正面のソファに座らせた。エメと離れるのを嫌がったのだけれど、エメが強めに「ここに座っていてください」と言えば「わかりました」とぼんやり頷いて言われた通りにした。
そうして、エメの正面で、大人しく座って、じっとエメを見ている。エメは視線を合わせないようにグリモワールを見ている。
──ダンジョンの
「あの……それで、どうしたら良いんでしょうか、わたし」
元はと言えば自分の
エメがそっと視線を上げる。モンスターはエメと目が合うとわかりやすいほどにぱっと顔を輝かせる。エメは慌ててまたグリモワールを見た。
──マスターにはご不便をおかけしますが、しばらくこのモンスターをこのダンジョンに置いておきます。動かせません。
──「部屋へ移動」などのコマンドは受け付けませんが、モンスター部屋の数は1消費しています。これについては、
「モンスター部屋……の数ですか?」
──失礼しました。この後説明する予定でした。ダンジョンにはモンスター用の部屋が用意されていますが、部屋数に限りがあります。部屋数を拡張するには本来は魔虹石が必要なのですが、今回は
頁の隅に小さな文字で「予定が狂う!」と綴られるのをエメは見てしまった。その文字はすぐに消えたけれど、もしかしたらこれはグリモワールの独り言なのかもしれないと思った。
──これも後で説明する予定だったのですが、「契約破棄」という機能もあります。自分のダンジョンでは不要なモンスターとの契約を破棄して、契約に使っていた魔虹石を「虹のカケラ」というアイテムに変換します。一度契約を破棄すると、また
──本来であれば契約破棄をお勧めしたいところですが、その操作も受け付けないようです。
「せっかくできた契約を破棄してしまうんですか?」
──その辺りの説明にも順番があったのです、本来であれば。今はそういうものと思ってください。
「あ、はい……」
──このモンスターのステータスはマイナスです。ステータスだけでなく、配置コストもマイナスです。このモンスターをダンジョンには配置できません。配置コストは0以上という仕様があるので、このモンスターを処理できません。もっとも、配置したところでどうなるかは不明ですが。なんにせよ、本来のモンスターとしての働きはできないものと思ってください。
──有り体に言えば、完全に役立たずです。
「役立たずだなんて、そんな……」
グリモワールの言葉に、エメがまるで自分に言われたかのように悲しそうな顔をした。パーティを探してた頃に「良くて役立たず、悪くて仲間殺し」と言われたことを思い出して、眉を寄せる。
エメはもう一度、そっとモンスターに目をやる。モンスターはさっきのように一瞬笑顔になったけれど、エメの顔を見て不思議そうに首を傾け、それから困ったように眉を寄せた。まるでエメの心の内がわかったみたいに。
エメがグリモワールに視線を戻すと、先ほどの文章は上からぐちゃぐちゃと乱雑な線が重ね書きされていた。
──言葉の選択を間違えました。ダンジョンマスターはモンスターに魔虹石を投げかけて契約を結びます。モンスターはその見返りとしてダンジョンマスターに自らの力を使わせます。それが契約です。ですが、このモンスターの場合、マスターが一方的に魔虹石を渡しただけで、マスターは見返りを受け取れない。そもそもが契約として成立していないのです。しかも破棄もできない。
「でも……ええと、わたしもなんだか良くわかってないけど、この人……人じゃないのか、モンスターをこのダンジョンに置いておけば良いんですよね。そのくらいなら大丈夫だと思います。あんまり悪い人にも見えないし。モンスターは他にも契約できたし」
グリモワールはしばらく沈黙していたけれど、やがてまた言葉を綴り始めた。
──失礼しました。今回の対応で
「あの男?」
──
「規格外……」
エメはグリモワールの言葉を受けて、ぽつりと呟いた。さっきから、エメの
やはりさっきから、グリモワールの言葉はずいぶんと感情的だ。グリモワールに感情があるのかはわからないが。
──筆が滑りました。前のダンジョンマスターは、利用規約違反で契約破棄になった男です。それだけです。
「利用規約違反?」
利用規約をほとんど読み飛ばしたエメは、それがどういうことかわかっていない。説明して欲しかったけれど、グリモワールはそれ以上は何も綴らなかった。
──ここまでの言葉は忘れてください。
そう綴られたかと思うと、ここまで書いた文章が全て頁から浮き上がってふわっと消えてしまった。まるでそうすれば全部なかったことにできるかのように。
戸惑いながらもエメが頷くと、グリモワールは言葉を綴り出した。少し落ち着いたのか、大きさの揃った、乱れのない文字が並ぶ。
──取り乱してしまい、大変失礼いたしました。
「いえ、わたしは別に……。なんていうか、お疲れ様です」
──マスターの優しい言葉が新しいインクのように乾いた頁に沁みます。
エメにはそれがどういう意味なのかがわからなくて、曖昧に笑って返答を避けた。
──では、話を戻しましょう。
──名前がないのも不便なので、仮にアポロンと呼びます。このアポロンについてですが、これは先ほども伝えた通り、このまま動かせない状態なのでしばらくこのダンジョンに置いておきます。これも先ほど伝えましたが、そのための部屋数は補填されます。
「はい」
──それで、先ほどの
「補填……? さっき契約したモンスターはどうなるんですか?
──安心してください。モンスターはそのままマスターの手元に残ります。こちらの
「え、そんなの……だって、十体のモンスターとは契約できたわけですし。その、え、そんなものもらってしまって大丈夫なんでしょうか……?」
──11連
「いや、でも、わたしはさっきの結果でもじゅうぶん満足してますし……」
──
「う……はい」
──それともう一つ、
「え、それはもらいすぎじゃないですか……?」
──これも
「はい……」
いろいろともらいすぎではないかと落ち着かないところはあったけれど、
そして改めて、正面に座っているモンスターの方を見て、その様子に慌てて立ち上がった。膝の上に置かれていたグリモワールがふわりとエメの頭の高さまで浮かぶ。
アポロンの姿をしたモンスターが、ぐったりとソファの背もたれに体を預けていた。苦しそうに目を閉じて、青褪めた顔をしている。顎を上げて唇を半開きにしたままで、呼吸が浅い。
「え、なにこれ! 大丈夫なんですか!?」
──わかりません。モンスターがこんな
グリモワールが言葉を綴る途中で頁をぱらぱらとめくりだす。モンスター一覧の頁を開くと、アポロンの名前の下に、「
「
──モンスターにそんなステータスはありません。これも多分なんらかの
苦しそうに呼吸するアポロンの目がうっすらと開く。だらりとソファの上に投げ出されていた体を起こすと、ローテーブルを超えて、グリモワールを巻き込んでエメに飛び付いてきた。
飛びつかれた勢いで、エメはソファに倒れ込む。エメとアポロンの体の間でグリモワールがじたばたと暴れたけれど、アポロンの片手がそれを押さえ込んだ。
「契約破棄」
耳元で聞こえた囁き声に、エメは目を見開く。その目の前に
「交換」
アポロンの声は明確な意思を持ってグリモワールを操作している。エメはこの状況が何一つ理解できないまま、ただ目の前で起こることを見ているしかできなかった。
ばら撒かれてきらきらと漂う光の粒が今度は集まって塊になる。何かの液体が入ったらしき小瓶の形が見えてきた時、アポロンはようやくエメから離れた。そして、その小瓶の蓋を開けて中身を自分の口に流し込んで飲み込んでしまった。
アポロンが空になった小瓶を放ると、その小瓶はきらきらと輝いて光の粒に戻る。さっきまで青褪めていた顔色は、もう戻っている。苦しそうな様子もない。
アポロンの名前の下に書かれていた「
エメはソファに倒れ込んだまま、呆然と目の前のアポロンを見ていた。アポロンはぼんやりとした表情で、きょとんと首を傾けた。
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