第十話 エメは仲間を失った

 エメがエルヴェのパーティに迎え入れられて、ペティラパンに拠点を移してから、二ヶ月が経った。

 カロルもドニも心配そうな顔をしたけれど、時折手紙を書くことを条件にエメを送り出してくれた。フロランは、いつものつまらなさそうな顔で「好きにすれば」と言っただけだった。


 ペティラパンに来てから、週に一度はダンジョン探索をしている。エメのレベル上げレベリングを優先して初心者マップの探索を続け、エメのレベルは二ヶ月で20まで上がった。レベル20を越えると初心者マップでは経験値効率が悪くなる。他のメンバーは二ヶ月でレベルが一つか二つ上がったくらいだ。

 エメの大失敗ファンブルは相変わらずだったし、エメのレベルが上がって魔法の威力が上がった分、大失敗ファンブルで発生する問題も大きくなっていっていた。それでも、初心者マップであれば、安定した探索ができていた。

 エメが支援役サポートをやってエルヴェが攻撃役アタッカーをやることもあったし、逆のこともあった。どちらの方が大失敗ファンブルの被害が少ないのか、パーティメンバー全員が測りかねていた。


 そろそろ一度中級者マップに潜りたいという話がパーティメンバーの中から出てきたのはその頃だった。

 そもそもペティラパンに来たのは中級者マップのダンジョン探索のためだ。中級者マップ制限ロック解放の条件はパーティの平均レベルと初級者マップの攻略クリア回数だった。二ヶ月でようやく、平均レベルの条件に達して、中級者マップの制限ロックが解放できたところだった。


 そして初めての中級者マップのダンジョン探索は、失敗した。

 エメは支援役サポートで、強化バフはいつものように戦闘の合間にかけていて、それについては問題はなかった。

 モンスターに防御力低下ディフェンス・ダウンをかけた時に大失敗ファンブルして、ユーグの防御力が大幅に下がってしまった。防御力が大幅に下がった状態でも、ユーグはイネスを庇ってモンスターの意識ターゲットを奪わないといけない。エメは慌てて防御力上昇ディフェンス・アップをかけようとしたけれど、間に合わなかった。

 複数のモンスターを相手にしていたのも、タイミングが悪かった。ラウルの回復ヒールも間に合わず、ユーグはHP0戦闘不能になった。ユーグの体がダンジョンの入り口エントランスに転送され、盾役タンクがいなくなったパーティは戦闘を続けることが難しかった。エルヴェが緊急脱出ギブアップを宣言して、全員ダンジョンの入り口エントランスに戻ることになってしまった。


 パーティの雰囲気がぎくしゃくし始めたのも、その頃からだった。




 中級者マップへの挑戦は、途中で緊急脱出ギブアップしてしまったので、戦利品採集やドロップが中途半端になってしまった。お金にはまだ余裕があるが、だからといって贅沢できるほどでもない。初心者マップに潜って、ドロップしたアイテムを売って生活費と装備に充てる。そしてまた、中級者マップに挑戦した。

 その次もまた、まずユーグがHP0戦闘不能になった。今度はエメが攻撃役アタッカーだった。レベルが上がったエメの攻撃魔法のダメージは、大失敗ファンブルを起こせば、ユーグのHPをだいぶ削り取った。

 中級者マップではモンスターの攻撃は初心者マップより激しく、ラウルの回復ヒールだけではユーグのHPをフォローできなかった。

 ユーグがHP0戦闘不能になり、そのすぐ後にイネスもHP0戦闘不能になった。エルヴェはまた、緊急脱出ギブアップを宣言した。


 中級者マップで二度失敗して、ユーグがいつもぴりぴりするようになってしまった。ユーグは、その立ち位置のために、エメの大失敗ファンブルの被害を一番多く受けていた。

 そして、次に初心者マップに潜った際に、ユーグはエメの強化バフを拒否した。なくても問題ない、不要だと、ユーグは言った。


「ユーグ、今はエメさんとの連携を優先して……」

「彼女はもうレベル20だ。いつまで初心者扱いするんだ」


 エルヴェの言葉を遮って、ユーグは言葉を叩き付ける。ユーグのイライラが感染しうつったように、エルヴェも言葉を強くする。


「初心者扱いをしているわけじゃない。パーティなんだから連携は必要だろう」

「お前がそうやって甘やかすから、彼女はいつまでものままだ」

「俺は……別に、甘やかしてなんか……」


 ユーグが鼻で笑う。


「おまえの気持ちはわからなくもないけどな」

「どういう意味だ?」


 訝しげに眉を寄せるエルヴェに、ユーグは軽く首を振ってそれ以上何も言わなかった。それ以上話を続けるつもりはないらしい。


「とにかく強化バフは不要だ」


 エメは杖を握り締めて、俯いた。今まで優しくしてもらっていたけれど、それはエメが他のメンバーより経験が少ないレベルが低い初心者だったから。もうレベル20だというのに、自分の中にはまだメンバーへの甘えがあったということを自覚する。

 自分でなんとかしないと、頑張らないと、と思うのにエメは何も言えなくなってしまった。




 一度エメ抜きで中級者マップに潜ってはどうかと、ラウルが言い出した。エルヴェは反射的に反対した。イネスはエメの方をちらっと見て、賛成も反対もしなかった。ユーグはもちろん賛成した。

 エメはその提案を受け入れて、宿屋で自分の荷物を整理しながら待っていた。


 四人で中級者マップに潜って、そして苦戦はしたものの四人で攻略クリアして戻ってきた。


「四人だと攻略クリアできても負担が大きい! それに前回遭遇エンカウントした低確率レアな上位種が今回はいなかった! 一概には比べられないだろ!」


 エルヴェが語気荒くエメを庇うようなことを言うのが、エメにはいたたまれなかった。エルヴェは優しいから、自分から声をかけて誘ったエメを追い出すようなことができないのだろう。だから、エメは自分で言い出さなくてはと思っていた。

 宿屋で独り待っている間、ずっとそのことを考えていたのに、いざとなると声が出てこない。


「この三ヶ月、彼女のレベルは上がった。でも、俺たちはやっと二上がったくらいだ。それが、今日一日で三上がった。最初はキツくても、すぐに四人で問題なくなる」


 ここしばらくイライラしていたのが嘘みたいに、今はユーグの方が落ち着いている。


「エメさんのレベル上げレベリングを優先するのは、最初にみんなで話し合って決めたことだろ! ユーグ、お前だって賛成してたじゃないか!」

「それは中級者マップに潜るためだっただろう。けど実際はどうだ。彼女のレベルが上がってもダンジョンには潜れなかった。彼女がいなくても潜れた」


 しばらく黙って成り行きを見守っていたラウルが二人の言い争いを止めて、提案をする。


「エメさんには強化バフだけ使ってもらうのはどうでしょう。重ねがけや効果時間延長とかをもっと鍛えて、戦闘中は強化バフの維持だけに集中してもらう。それなら大失敗ファンブルに左右されにくい」

「戦闘中に大失敗ファンブルを起こさないなら、俺はそれでも良い」

「そんなの連携って言わないだろ! 道具扱いじゃないか!」


 ラウルの提案をユーグが冷静に受け入れたのに対して、エルヴェはこれも感情的に退けてしまった。これまでずっと黙っていたイネスが、二人の間に割って入る。


「エルヴェ、落ち着きなよ」


 ラウルはエルヴェの言葉に小さく溜息をつくと、皮肉めいた笑みを浮かべた。


「これが道具扱いだって言うのなら……僕は回復ヒールの道具ですね」


 イネスもため息をついて、そしてエメの方を見た。何かに耐えるようにぎゅっと眉を寄せて何か言いかけて、でもやめる。エメから視線を外してエルヴェに向き直った。


「ねえ、自覚してる? エルヴェはエメのことになると冷静に判断できなくなってるよ」

「俺はパーティ全員のことを考えてるんだ!」

「ね、落ち着いて聞いて。エメは良い子だと思うし、仲良くなれて嬉しかったし、わたしもエメのこと好きだよ。そういう感情を責めたり否定したりしたいわけじゃない。わたしだけじゃなくって、ラウルだって、ユーグだって、そうだと思うよ」


 エルヴェの頬にさっと赤みがさす。


「そんな……そんな話はしてないだろ!」


 イネスはエルヴェの言葉を無視して、話を続けた。


「でも、そういう感情とダンジョン探索って別に考えないとでしょ。最近のエルヴェは、その切り分けができてない。自覚してる?」

「そんな……つもりはない。俺はパーティの連携を考えて、どうやったら全員がうまく連携できるか……」

「じゃあ、どうしてさっきのラウルの提案に反対したの? 本当に考えた?」


 エメは、このパーティが好きだった。

 ユーグはモンスターの意識ターゲットを奪いにくいタイミングを教えてくれて、盾役タンクの動きに合わせて攻撃魔法を放つことができるようになった。

 ラウルは強化バフの効果時間延長の練習に付き合ってくれた。ラウルの覚えている強化バフとの違いも教えてくれて、支援役サポートとしての魔法使いソーサラー回復術師ヒーラーの連携についてエメは知ることができた。

 エルヴェは同じ魔法使いソーサラーとして、魔法の練習に一番付き合ってくれていた。支援役サポートとしての動き、メンバーの何を観察して何を判断するのか。装備の相談にも乗ってもらって、一緒に装備を選んだりもした。それに、エメが大失敗ファンブルしても、明るく大丈夫と言ってくれて、エメはそれに何度も助けられていた。

 イネスにももちろん、探索のことで教わったことは多い。でもそれ以上に、一緒に寝起きして、二人で買い物に行ったり、お菓子を食べたり、夜寝るまでの間にベッドの上でお喋りをしたり、とても楽しかった。仲良くなれて嬉しかった。

 このパーティが、仲良く穏やかにしている雰囲気が好きだった。それが自分のせいで壊れてしまったのだと思うと、エメは心臓をぎゅっと絞られるような気持ちになる。


「あの……」


 お守りアミュレットを服の上からぎゅっと握り締めて、エメはなんとか声を振り絞った。大好きなパーティがバラバラになる前に、言い出さないといけなかった。エメはメンバーの好意に甘えて、判断しないままここまできてしまった。もっと早く言い出していれば……それともあの時パーティの誘いを断っていれば良かったのだろうか。


「わたし、パーティ抜けます。ごめんなさい。今まで……本当にありがとうございました」


 エメは顔を上げて、なんとか笑ってみせる。大丈夫だって言って笑いたかった。自分がこれまでそうしてもらったように。泣きそうになるのを堪えて、ちっともうまく笑えてはいなかったけれどそれでもエメは俯かずに、自分からそう伝えることができた。




 レオノブルの乗合馬車は、もう翌日に出発するところだった。パーティメンバーと顔を合わせているのがツラくて、エメはよく考えもせずにレオノブルに戻ると言った。

 翌朝、朝食も取らず、同室のイネスに軽く別れの挨拶をしただけで、エメは宿屋を出た。

 乗合馬車の駅でベンチに座って出発時間を待っていると、エルヴェが息を切らせてやって来た。


「良かった、まだいた」


 エルヴェはエメの前に立って、息を整える。エメは顔を見ることができなくて、俯いた。


「あ……ごめんなさい、挨拶もしないで」

「いや、それは良いんだ、そんなことじゃなくて」


 エルヴェはエメの前に立ったまま、苦しげに目を閉じた。そのまましばらく何か悩んでいるような顔でじっとしていたが、やがて目を開いて、エメを見下ろす。


「俺と……俺とパーティを組む気はない?」


 思いがけない言葉に、エメは思わずエルヴェを見上げた。エルヴェの顔は大真面目で、エメは戸惑う。


「だって……エルヴェさんはもうパーティがあるじゃないですか」

「抜けるよ。二人でパーティを組んで、初心者向けダンジョンなら二人でも大丈夫だと思うから。なんなら、俺が回復術師ヒーラーになっても」

「無理ですよ」


 エルヴェが必死に積み上げた言葉を、エメは一言で崩した。


「やってみないとわからないだろ。俺は……君とこのまま別れたくはない」

「無理です。きっと、続きませんよ、そんなの」

「そんなこと」


 なおも言い募るエルヴェに、エメは首を振る。


「わたしが無理なんです、ごめんなさい。しばらく、誰かとパーティ組むなんて無理です。

 それにわたし、エルヴェさんたちのパーティ好きですよ。だからまた、元みたいにみんなで頑張ってください。これでエルヴェさんまでパーティを抜けちゃったら、わたし、本当にツラいです」


 エルヴェは唇を噛んで俯いた。エメはそうやって目の前に立つエルヴェとは視線を合わせずに、ぼんやりと街並みを眺めていた。


「ごめん……無理を言ったみたいで」


 やがて、エルヴェがぽつりと言った。そして、エメの膝の上にリュックを置いた。


「受け取って欲しい。何かに使って。売っても良いし」


 エメが慌てて返そうと立ち上がったけれど、エルヴェは走り去った。追いかけようかと迷っている間にエルヴェの背中は遠ざかる。返しに行こうかと迷ったけれど、そこで他のメンバーに会うことになったらツラいなと思ってしまった。

 中身を見ると、冒険者ギルドが売り出している携帯食お弁当が半月分と、ダンジョン探索で使いそうな消耗品、それと馬車代くらいのお金が入っていた。もしかしたらエルヴェは、このままエメと二人でどこかに行こうと本気で考えていたのかもしれない。


「うまくいくわけないのに」


 エメは小さな声で呟く。

 冒険者ギルドの携帯食お弁当は一パック10銅貨もしたはずだ。それをこんなにもらっても良いのだろうかと悩んだが、やっぱり返しにいく気にはなれなくて、このままもらっていくことにした。


 そしてエメは、一人でペティラパンを出発した。




 ペティラパンを朝に出て、一番近くのシロシュレクという村には夕方頃到着する予定だ。

 エメは馬車に揺られながら、窓の外をぼんやり眺める。馬車には、エメを含めて九人の乗客がいた。定員が十人なので、馬車の中は狭い。

 六人パーティの冒険者の一団が乗っていて、彼らのうち誰かがの顔を知っていたらしく、エメの顔を見た後に声を潜めて噂話を始めた。

 乗合馬車の車内はそう広くはなく、車輪がわだちを刻んで車体ががたがたと揺れる音に紛れて、その噂話のところどころはエメにも聞こえていた。

 まだ冒険者やってたんだ、とっくにやめたのかと思ってたけど。を拾ったパーティがいたはずだ。が一人で馬車に乗ってるってことは、そのパーティにも愛想を尽かされたんだろう。

 彼らの声色は本当に些細な好奇心から面白がっているだけで、エメに対する悪意はカケラも感じられなかった。反応するのも億劫で、エメは聞こえないフリをして窓の外をただ眺めていた。

 勢いでペティラパンを出てきてしまったけれど、レオノブルに帰っても何かするアテはない。またパーティが組めるとも思えない。また奇跡的にどこかのパーティから誘われたとしても、その誘いを受ける気には、きっとなれない。

 こんな状態でレオノブルに戻って、冒険者を続けられるだろうか。

 それとも、自分はもう冒険者を諦めてしまうのだろうか。村に戻って暮らすようになるのだろうか。どこか他人事のように考えを巡らせてみたけれど、冒険者をやめた自分はうまく想像できなかった。村で穏やかに暮らす未来なんてこれまで考えたこともなかったし、これから先も考えられないような気がしていた。




 馬車に揺られ、窓の外の街を離れた景色を見ているうちに、エメは初めてレオノブルに連れていってもらったときのことを思い出していた。

 エメはお守りアミュレットを服の上から握りしめる。

 あの時に出会ったロラという魔法使いソーサラーは、まだ冒険者を続けているだろうか。レベルはいくつになっているだろうか。

 夜みたいな深い藍色ダークインディゴのローブと、長い金色の髪と、華やかな明るいみどりの瞳。エメがあんなふうになりたいと思う冒険者だった。ちょっとでも近付けていたら良かったのに、近付くどころか、ずっと遠ざかってばっかりに感じられてきて、エメは奥歯を噛み締めて涙を堪えた。

 できれば冒険者として再会したかった。ずっとまた会えたら良いなと思っていたけれど、今のこんな状態では、再会してもツラいばかりだ。

 エメは眠くなった振りをして、馬車の壁に頭を預けて目を閉じた。




 乗合馬車は予定通り夕方にシロシュレクに到着した。そこで一晩泊まって、翌朝またレオノブルに向けて出発する。

 宿で他の人と雑魚寝する部屋は安かったのだけれど、エメは独りになりたくて個室を借りた。少しもったいないと思ったけれど、ずっと気が張り詰めていて、部屋で独りで体の力を抜きたかった。

 ベッドと小さなテーブルと椅子が一脚の狭い部屋だった。今のエメには、これでじゅうぶんな広さだ。内鍵をかけて、テーブルに肩掛けバッグとエルヴェにもらったリュックを置いて、その隣に杖も置く。ブーツを脱いで床に放る。そのまま固いベッドに寝転んで目を閉じた。

 考え事は頭の中からなくなりはしなかったけれど、目を閉じたら疲れに押し潰されて、エメはすぐに眠ってしまった。


 夜中、その小さな村は静かだった。何もかもが寝静まった頃、エメが寝ている部屋の床一面に魔法陣が浮き上がる。ダンジョンの入り口エントランスに似た魔法陣は、音もなく光を発する。魔法陣の照らす光で部屋全体が明るくなるが、エメは眠ったまま気付かない。

 やがて、魔法陣の光が消えると、床に浮き上がった魔法陣もすっと消えた。ベッドに眠っていたエメの姿もなく、テーブルに置いた荷物と杖も床に放ったブーツも消えている。

 最初から何もなかったかのように、静かな夜だった。




 エメが目を覚ますと、見知らぬ部屋だった。ペティラパンを出て宿屋に泊まって、と思い返して、自分が床の上に直接寝転んでいることに気付く。

 石造りのがらんとした何もない部屋だ。目の前には一冊の本が置かれていた。片手で持つには少し重そうな大きさの本だ。厚みがあって硬そうな黒い表紙には、銀箔で細かな模様が描かれている。立派な装丁の本で、エメはぼんやりとしたまま高価たかそうだなと思った。

 床には魔法陣が書かれていて、まるでダンジョンの入り口エントランスみたいだ。顔をあげると、正面の壁一面が床や他の壁と違う石で、ダンジョンの入り口エントランスにある操作石コントローラーと似た材質に見えた。

 硬い石の上で寝転んでいたせいで、体が痛む。ゆっくりと起き上がって振り向くと、ダンジョンの入り口エントランスと違ってドアが付いているのが見えた。

 宿屋の床に放り出したブーツは、自分の近くに同じように転がっていた。宿屋の質素なテーブルに置いたバッグと杖も、エルヴェにもらったリュックも、そのすぐ近くに置かれている。

 それ以外に、目に付くものはなかった。

 何が起こっているのかわからずに、ぽかんと部屋を見回していると、目の前に置かれていた本が、宙に浮かび上がった。そして宙に浮いたまま、勝手に表紙が開かれた。まるでエメに見せるかのように、エメの目の前で本の中程を開いているが、その頁には何も書かれていない。


──最初に、このような強引な手段をとったことを謝罪します。


 まるで誰かが文字を綴っているかのように、本の頁に文字が浮かび上がってくる。濃藍色ブルーブラックのインクだ。何が起こっているのかわからず、エメはぽかんとしたまま声もなく綴られる文字を見ているしかできなかった。


──わたしはグリモワール。ダンジョンマスターがその業務を滞りなく行うために用意された魔道書情報端末です。


 エメはぼんやりと、目の前でひとりでに綴られる文字を見ていた。

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