第18話 刺客か女神か
玲奈は傷心だった。
公園のブランコに腰かけて延々と泣き晴らしていた。
足元の土が涙でにじむ。
心が苦しい。痛い。
もう私には何も残っていない。
熊田の笑顔が脳裏をよぎる。
そして、憎い。ホタルイカが憎い。
見つけ出してこの手で殺してやりたい。
ホタルイカに対する怨恨だけが、玲奈の心を支えていた。
「くそう」
玲奈は地団駄を踏んだ。
しばらくして冷静さを徐々に取り戻す。
玲奈は鼻をすすりながらも、溜息をこぼした。
桶川市の自宅に帰るべきだろうか。
だが、帰ったところで怠惰な母親が寝ているか、男を連れ込んでいるかだけだ。
そして、男は私に暴行を加えるに違いない。
やっぱり自宅には帰れない。
では、これからどうするのか。
不良仲間の家にお邪魔するか。
いや、ボスと大喧嘩をして飛び出してきてしまったため、今更戻ることはできないだろう。
不安が玲奈を襲う。
1人きりでどう生きていけばよいのだろうか。
ブランコの鎖を力強く握ったまま、震えが止まらなかった。
不安と悲しさ。
ホタルイカへの怨恨は今のところ鎮まり、これからどう生きていくかが最優先課題となっていた。
久々に脳味噌をフル回転させたため、頭が痛くなってきた。
そこへ、1人の幼稚園児くらいの男の子が玲奈の元へ駆け寄ってきた。
玲奈は涙を目に浮かべながらも、幼稚園児の男の子をギリっと睨みつけた。
だが、男の子は一切怖がるどころかむしろ玲奈に構ってほしいらしく、執拗に玲奈の肩に触れてきた。
玲奈はその手を力強く振り払った。
男の子が口を開けて呆然としている。
「触んな、クソガキが」
玲奈が男の子を怒鳴りつけると、男の子はみるみる目に涙を浮かべた。
そして、わんわんと泣き出してしまった。
玲奈が舌打ちをしていると、突如、怒鳴り声が玲奈に降ってきた。
「うちの子に何すんのよ」
振り返ると、この男の子の母親らしき女性が憤怒に満ちた表情で、玲奈を睨みつけていた。
玲奈は一瞬ビクッとしたが、負けじと母親を睨み返す。
母親は玲奈に構わずに、男の子をよしよしと宥め始めた。男の子が徐々に落ち着いてくると、再び母親が玲奈を冷淡な表情で睨みつけた。
「何だてめえ」
負けじと玲奈も睨み返す。
母親もドスのきいた声で玲奈に吐き捨てた。
「次にうちの子に何かしたらただじゃおかないからな」
母親は男の子を抱っこすると、そのまま公園の出入口まで歩いていき、出て行ってしまった。
玲奈はその背中を睨みつけながら、唾を吐いた。
「ぬるま湯家庭が。調子に乗んなよ」
玲奈は地面を何度も蹴りつけた。
しかし、いくら幼稚園児1人に怒りをぶつけたところで、この不安と悲しさが解消されるものでもない。
おそらくだが、しっかりとした母親の存在が羨ましかっただけなのだ。
玲奈は再び沈黙した。
ゆっくりと地面を見つめる。
これから果たしてどうすれば良いのか。
熊田無しで自分1人でやっていけるのだろうか。
今日の夕飯はどうしようか。
不安と悲しみは尽きなかった。
ポッカリと開いた心の穴はあまりにも大き過ぎた。
「おお!飯尾じゃん」
始業前の教室内。
教室内に入ってきた総理、大聖の前には、湿布1枚を頬に貼りつけた飯尾の姿があった。
飯尾はふてぶてしく自席に腰かけていた。
復活初日であったが、元々いかつい顔をさらにしかめている。
不機嫌なのだろうか。
普段あまり話しかけてこない女子生徒たちもすっかり引いてしまっている。
総理と大聖は飯尾の席へと足を進めた。
「何だよどうした?そんなおっかねえ顔して」
大聖が快く声を掛けるも、飯尾は憮然とした表情を崩さずにいた。
「橋本ちゃんに怒られちまってよ」
飯尾が舌打ちをする。
「あ?」
大聖が空気の抜けたような返事をする。
総理は飯尾の不機嫌そうな表情に一抹の不安を感じていた。
復活初日にも関わらず怒られたって言うのは、おそらく楠田のことじゃないだろうか。
今のところまだ楠田は登校していないようだ。
楠田が来たら、また飯尾が何かやらかしそうだ。
「うるせえな、ほっとけよ」
飯尾は大聖を怒鳴り散らす。
と、ここで教室の後ろの扉が開いて、包帯塗れの楠田がのそのそと現れた。
そして、教壇の前の自席へと歩を進める。
案の定、飯尾を一瞥したような目で見ていたが、通り過ぎてスッと自席に腰かけた。
次の瞬間、総理の嫌な予感が的中した。
飯尾が舌打ちをして、椅子を跳ね飛ばして立ち上がる。
飯尾は最前列の席に直行した。
飯尾を止めなくては。
総理と大聖が手を伸ばして飯尾を宥めようとした時には、飯尾は楠田に雷鳴のような罵声を浴びせていた。
「てめえ、先公にチクりやがったな。ああん?」
「よせ、飯尾」
総理と大聖が止めに入るも、荒ぶった飯尾は止まらない。
飯尾は楠田の胸倉をつかんで振り回そうとした。
「止めなさい」
と、教室の前の扉が開き、叫んだ1人の少女がいた。
渡井美稀だった。
美稀の表情は珍しく怒りが溢れていた。
だが、飯尾の高ぶった神経を逆撫ですることにしかならなかった。飯尾は近づいて来た美稀を突き飛ばした。
美稀の小さな体は付近の机と椅子にぶつかる。
総理の頭の中で何かが切れる音がした。が、次の瞬間、
「やめろ」
飯尾の顔面の湿布部分に楠田のきつめの頭突きが入った。
楠田の表情にも怒気がこもっていた。
「ぐわあ」
飯尾は表情を歪めてよろける。
そして、楠田の胸倉からも手を放した。
「それ。かかれえ」
大聖の号令とともに、総理と楠田が飯尾の巨体を押し倒す。
飯尾はされるがままに倒れこんだ。その巨体の上に3人でのしかかった。
突き飛ばされた美稀にも、宮葉と大槻らが駆け寄った。
幸い、美稀は肩を強打しただけのようだった。
恐怖の表情を浮かべているが、痛がっている様子はなかった。
「てめえ、いい加減にしやがれ飯尾」
大聖が珍しく本気の罵声を浴びせる。
大聖もまた、飯尾の両腕をしっかりと押さえつける。
総理と楠田も飯尾の腹回りにがっつりと乗っている。
「ありがとう、横山君。赤嶺君」
ボサボサ頭のその少年はペコリと頭を下げた。
楠田は間違いなく、美稀が壁に叩きつけられてからスイッチが入ったようだ。
総理は宮葉らが言っていた、楠田は美稀が好きという噂は本当だったのかと直感した。
「おうよ。ま、俺らもこいつらの悪行にはうんざりしてたからなあ」
大聖がにっこりと満面の笑みを浮かべる。楠田ももらい笑顔をこぼした。
「よく美稀を助けてくれた」
総理もお礼を述べる。
そして、騒ぎを聞きつけた教頭の大澤と隣のクラスの藤川という男性教師が続々と教室に入ってきた。
事情を女子生徒たちが事細かに説明する。
大澤と藤川は何やらコソコソと話し込んでいたが、飯尾を抱きかかえて起こした。
そして、飯尾はそのまま2人の男性教師に取り押さえられながら、職員室へと再連行されていった。
教室は騒動の後というだけあって、しばらくザワついていた。
総理と大聖は事情を説明してくれた宮葉と大槻に感謝を述べる。
そして、美稀も楠田のところへ頭を下げに行った。
「ありがとう、楠田君」
美稀の満面の笑みを前にして、楠田は顔を赤らめた。
そして、明後日の方向を向きながら、どぎまぎとした表情で答える。
「あ、いや、べ、別に、その」
楠田がまごついているところに、総理と大聖も今までの飯尾と和田の愚行について謝罪を入れた。
「すまん、飯尾と和田の暴走は許されるものじゃない」
総理と大聖は楠田に頭を下げた。
楠田は何が起きているのか、わからないような表情できょとんとしていた。
ボサボサの頭を跳ねらかせながら、楠田は首を横に振った。
「でも、横山君と赤嶺君が悪いわけではないし」
「まあ、俺らがもっと強めに止めていれば、こんな大事にならなかっただろうからな。すまなかった」
大聖はさらに頭を深々と下げる。
楠田は居心地が悪くなったのか、総理と大聖に頭を上げるように言った。
「大丈夫だって。横山君と赤嶺君には何もされてないんだから」
楠田の言葉に総理と大聖は少し救われた気持ちになった。
総理と大聖は頭を上げた。
「あいつらも罰を受けることになるだろうし、しばらくは大丈夫だろう。あいつらが学校に復帰しても今後は俺らが何とかするぜ」
大聖がどんと自らの胸を叩いてみせた。
総理もうなずく。
「ありがとう、横山君と赤嶺君」
楠田はグスンと鼻をすすっていた。
楠田の目元には何か光るものがあった。
「大聖と総理で呼べよ。なあ総理?」
「ああ、構わないぞ」
「……ありがとう。総理と大聖」
そして、本来の授業開始時間から20分近く遅れて現代文担当の橋本が現れた。
飯尾はついに戻ってこなかった。
「では皆、席について」
クラス中の生徒たちがゾロゾロと自分の席へと戻っていく。
松坂のいつもの号令を受けて挨拶すると、橋本は神妙な面持ちで語り始めた。
「先程の騒動でまず怪我はないですか?」
橋本は生徒1人1人をゆっくりと見渡す。
そして、反応がないことを確かめると、ゆっくりと語りだした。
「飯尾忠成は今日のところは帰宅させます。明日以降も5日間の謹慎処分となりましたので、しばらくは学校に登校もできません。改めて飯尾には処罰を言い渡します。皆さんの安全は全力で確保しますので、どうか明日以降も安心して登校してきてください。何か困ったことがあったらすぐに私に知らせるように。そして、松坂君と渡井さん、学級委員として大変だけども残ったメンバーを上手くまとめていくようにお願いします」
「はい」
松坂と美稀が心地良い返事をした。
飯尾は停学を免れないだろう。
ややもすると退学も有り得るかもしれない。
総理は前方の空席2つを眺めながら考えた。
この問題児2人がいなくなったことで、少しは平穏な日常が戻ってくるだろうか。
「では、遅れてすみません。授業を開始します。教科書は」
橋本は教卓に並べた教科書に目を落とし、いつものように授業を開始した。
玲奈は眠い目をこすりながら、目を覚ました。
遊具の土管の中でいつの間にかぐっすりと眠ってしまったらしい。
玲奈は伸びをする。凝り固まった体が解放される。
ボーっとする頭のまま周囲を見渡す。
何ともう日がとっぷりと暮れてしまっているではないか。
薄暗い公園内に周囲の街灯がチラホラと点灯を始めている。
「うわマジか」
玲奈は慌てて土管の中から這い出した。
周囲は住宅街だ。
夕飯の準備でもしているのだろうか。
近くの家からは美味しそうなスープの匂いが漂ってくる。
それを嗅いでいるうちに、自分が空腹であることに気が付いた。
思わずポッコリとへこんだお腹をさする。
玲奈にとっての問題がいくつも残っていた。
1つは食料調達をどうするか。
どこかのスーパーに行って盗んでくるか。それともどこかの家で盗んでくるか。
いけない考えばかりが頭の中をよぎる。
玲奈はしばらく考え込んでいたが、喉も乾いていることに気が付いた。
ひとまず、公園の水飲み場に足を運び、喉を潤すことにした。
玲奈はくいっと蛇口を軽く捻った。
口の部分を上に向けて、自らの喉を伸ばす。
やや温い水が玲奈の喉を叩く。
だが、今の玲奈にとっては極上の水だった。
しばらく喉を潤した。唇から滴る水を拭い去り、蛇口を止める。
そして、2つ目の問題。
今度は熊田のことが頭をよぎった。
そうだ、自分はもう頼る人間がいないのだ。
寝床は?お金は?寂しさが再び心を覆い隠す。
玲奈は傍らに設置してあったベンチに力なく腰掛ける。
玲奈は両足をベンチの上に乗せて、腕の中に抱き寄せた。
3つ目の問題。ホタルイカへの復讐だ。
熊田がいなくなってしまった以上、私はもはや死んでも構わない。
ただし、ホタルイカを殺さない限りは死んでも死にきれない。
奴にも地獄を見せてやる。
それができたら私みたいなゴミのような人間は、死んでしまって構わないのだ。
ただ、ホタルイカが今どこに居て、そもそも男なのか女なのか、どんな顔の人物なのか何一つ情報が無い。
これ以上無いくらい絶望的な状況である。
明日の衣食住すら怪しく、復讐したい相手の顔も正体もわからない。
どこからともなく靴の音が近づいてきた。
ハッと我に返って顔を上げる。
目の前にいたのは1人の若いメガネを掛けた女性警察官だった。
20代くらいだろうか。
白い肌に肩までの艶っぽい髪を伸ばしている。
女性警官は中腰になって、子供をあやすような調子で玲奈に声を掛ける。
「お嬢ちゃん、どうしたの」
女性警官は玲奈の顔を覗き込むようにして、優しい口調で尋ねる。
しかし、玲奈はその態度が小馬鹿にされたようだと感じ、怒鳴った。
「何でもねえよ」
プイっとそっぽを向いたが、女性警官は全く動じていない。
むしろ可愛らしいくらいに思われたか、さらに優しい口調で尋ねる。
「おうちはこの近くなの」
「うるさい」
そっぽを向いたまま、玲奈は叫ぶ。
女性警官は中腰の姿勢を解き、手持ちのレシーバーから状況報告をする。
しばし何やら話していたが、女性警官はレシーバーを胸ポケットに静かにしまい込んだ。
玲奈は嫌な予感がした。
「それじゃあ、近くの交番でお話聞くね」
女性警官が力任せにグイっと玲奈の手を引く。
が、玲奈は女性警官の手を強引に振りほどく。
「ちょ」
女性警官はややピリピリとした表情を見せたが、すぐにまた冷静な表情に戻った。
再び優しい口調と笑顔で言う。
「さ、行こうか」
と、もう1つの足音がこちらに近づいてきた。
仲間の警官か。
男性警官だったらさすがに力では勝てない。
万事休すか。
警察に連れていかれて親のところに連絡されて。
あの最低な母親の元に連れていかれて、母親のヤンキー彼氏にボコボコにされる。
最悪だ。玲奈は目をつぶって歯ぎしりをした。
「あら、こんなところにいたんですね」
その柔らかいホワホワとした声に、玲奈は驚いた。
驚きのあまり、目を見開いた。
目の前に現れたのは、学生服姿のホワホワした雰囲気の美少女だった。
腰くらいまで伸びた茶色い髪の毛を両端で結わえて、どことなく色気と気品のある笑顔。
高校生離れした大人の雰囲気と、完璧だがどことなく抜けていそうな雰囲気が同居している不思議な雰囲気。
スーパーで買い物をしてきた帰りなのだろうか。買い物用のショッピングバッグを抱えている。
だが、この人は一体誰だろう?
全く見たこともない人だ。
玲奈はまたしても読めない展開に頭がいよいよ混乱してきた。
「あ、この子のお姉さんですか?」
女性警官がホッとしたような表情で少女を見つめる。
「はい、そうなんです。うちの妹が申し訳ございません」
見知らぬ美少女は丁寧にペコリと頭を下げる。
玲奈の脳内は疑問符だけが溢れ返っていた。この人は誰?
「そしたら、失礼します」
少女は迷わずに玲奈の手を引いて、この場を立ち去ろうとする。
女性警官ももはや疑ってかかろうとしない。
玲奈は手を引かれて公園を出て、そのまま住宅街へと連れ出されていった。
やがて、交番が視界に飛び込んできた。
玲奈の心臓の鼓動が飛び跳ねる。
屈強そうな男性警官が交番の前で突っ立っている。
とても逃げ出すことはできなさそうだ。おそるおそる交番の前に近づき、呼吸を止める気持ちで通り過ぎた。
玲奈にとっては恐ろしく長い時間だった。
交番の前を通り過ぎたところで、その見知らぬ少女が笑顔のままようやく口を開いた。
「お困りの雰囲気でしたので、お助けしました」
玲奈はどきっとした。
目は決して合わさない。
相手の正体がわかるまでは何も話すもんか。
もしかしたら、あの最低な母親の手先かもしれない。
「この近くに住んでいるんですか?」
少女は臆することなく、玲奈に質問を浴びせてくる。
玲奈は口を開かない。
美少女はやや困惑した表情を見せていた。
その仕草は可愛らしかったが、玲奈の心を揺さぶるまでには至らなかった。
しかし、この女の人は一体どういうつもりなのだろう。
見ず知らずの玲奈を助け、これからどこに連れて行こうとしているのか。
どう見ても悪い人ではないだろうが、まさかホタルイカの手先か?
ホタルイカが犯行現場を私に見られたと勘違いして、私によこしてきた刺客か?
玲奈は第一発見者ではあるが、犯行現場を直接目撃したわけではない。
ホタルイカがそう勘違いするのも無理はない。
目撃者として殺される可能性があるのかもしれない。
いいだろう。
殺されるくらいなら逆にやり返してやろう。
玲奈はごくりと唾を飲み込んだ。
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