第19話 幸せの強奪

少女は笑顔で尋ねてきた。


「あなたのお名前は?私は浅倉和那と言います」


「な」


まるで蚊の鳴くような声でつぶやく玲奈。


「はい?」


「玲奈」


ぶっきらぼうに玲奈は答える。


玲奈の迫力に和那は委縮したようだった。


しかし、ここで玲奈の腹が盛大に鳴ってしまった。


玲奈は恥ずかしさのあまり顔を真っ赤に染め上げる。


和那はそれを聞いて満足そうににっこりと笑う。


「玲奈ちゃんですね。わかりました。今日はお食事を食べてからおうちに帰ってください」


玲奈は耳を疑った。


食事をもらえる?それは今の玲奈にとってはこの上ないご褒美に違いなかった。


しかし、玲奈は戸惑っていた。


この和那がホタルイカの手先ならば、夕食に毒を盛られるのではないか。


苦しんで死ぬのは怖い。


玲奈の血の気が引いていった。


今のうちに逃げよう。


そう玲奈が決心したその時、


「うちに到着しました」


目の前の大きくそびえる門の前で和那はピタリと止まった。


慣れた手つきで鍵を鍵穴に差し込み、玲奈をそのまま門の中へと導く。


門の中には中世ヨーロッパにでもありそうな2階建ての横長の洋館がひっそりと佇んでいる。


玲奈はぽかんとした表情を浮かべていた。


まさか、ここまでの洋館にこの天然そうな少女が住んでいるのか?


もはや怪しさしか感じられなかった。


絶対にこのだだっ広い洋館の中にホタルイカがいるのではないだろうか。


玲奈は不敵な笑みを浮かべた。


食事をもらって一息ついてから、ホタルイカを捜し出して、熊田の復讐を遂げよう。


「玄関はこちらです。ようこそ玲奈ちゃん」


和那が立派な玄関を指し示す。


大きな木の玄関の扉が開け放たれた。


薄暗い館内が目に飛び込む。


玲奈に緊張が走った。


どこかにホタルイカが既に潜んでいるかもしれない。


和那が電気のスイッチを入れると、瞬く間に洋館中の電気が点灯した。


玲奈は圧倒された。


自分の住んでいるボロアパートとは訳が違う。


西欧風の内装とアンティーク品の数々に目を奪われていた。


まるで、西欧諸国の美術館に足を踏み入れたかのようだ。


玲奈は見慣れない光景に身震いした。


「こちらがリビングですよ」


すっかり見惚れてしまっていたが、ハッと我に返る玲奈。


玄関すぐ右横の通路を進むと、これまた大きなリビングルームとその奥にキッチンカウンターとキッチンスペースが広がっていた。


玲奈は目を輝かせて、これらの光景を見つめていた。


「すごい」


思わずこぼれる溜息。


と、満面の笑顔が玲奈を覗き込んできた。


「ありがとうございます。ゆっくりしていってくださいね」


玲奈は再びハッと我に返り、緩んだ表情をしかめっ面に戻す。


そして、ソファにどかっと乱暴に腰かけた。周囲をしきりに見回す。


どこかに隠し扉があって、そこから銃弾が飛んで来やしないだろうか。


精一杯緊張の糸が切れぬよう、玲奈は警戒に当たる。


「そんなに緊張しなくていいですよ。テレビでも観てリラックスして待っててください。すぐにご飯つくりますから」


和那はテレビのスイッチを入れた。


玲奈は逃げ出せるような体勢を取りつつ、テレビ画面を睨みつけた。


和那は玲奈にテレビリモコンを手渡す。玲奈はリモコンを手に持ったまま硬直した。


ちょうど18時のニュース番組をやっている最中であった。


「続きまして、昨日夜8時頃、さいたま市大宮区の雑居ビル内で少年1人が殺害された事件です。拳銃で射殺された被害者の19歳の少年は、高校生連続殺人犯の怪人ホタルイカが関与している見方が強まってきています。現場では警察の取り調べが続いておりますが、凶器に使用されたと思われる拳銃がまだ見つかっておりません」


ニュースキャスターが淡々と原稿を読み上げていく。


玲奈は手を強く握ってわなわなと震わせ始めた。


許せない。


怒りと悲しみ、警戒。


混ざり合ったあらゆる感情が玲奈の心の中に渦を巻く。


強く握られた玲奈の手からリモコンが零れ落ち、床に大きな音を立てて弾んだ。


キッチンスペースで調理していた和那が心配そうに覗いてくる。


「何かありましたか?大丈夫ですか?」


玲奈の目頭が熱くなっていた。


そして、熱い涙が目から零れ落ちていく。


鼻をずずっと啜りながら、現場ビルの映像を憎らしげに見つめていた。


歯を食いしばって睨みつける。


 和那は何事かと恐る恐るリビングルームまで出てきた。


そして、玲奈のぐちゃぐちゃの顔とテレビのニュース画面を交互に見つめる。


これは只事ではないと和那も焦った。


「ど、どうされましたか?」


和那は困惑した表情を浮かべる。


先程まで緊張していただけと思っていた女の子が、急に泣き出し、鬼のような形相で睨みつけていたら無理もないだろう。


玲奈はしばらくおいおいと涙を流しながら、鬼のような形相でテレビ画面をじっと睨みつけていた。


ニュース画面が終了し、バラエティ番組が始まってもしばらくそのままだった。


ようやくそのまま手をついてソファの上で泣きじゃくり始めた。


和那はタンスにしまってあった薄い桃色のブランケットを取り出した。


そして、それを玲奈の元へと持っていき、優しく玲奈の小さな体に掛けてやった。心なしか玲奈は安心した物に包まれた気分になり、気持ちがやや落ち着いた。


しかし、涙はとめどなく流れ出てくる。


許せない。許せない。


「何か事情がおありなんでしょうけど、今はゆっくり休んでくださいね」


和那は優しく微笑み、玲奈の体を優しく撫でてくれた。


しばらく小さな体は薄い桃色のブランケットの中で小刻みに震えていた。


そして、キッチンスペースへと足早に戻り、てきぱきと食事の準備を続けていく。


 しばらく静かな時が流れ、スタジオの笑い声が響く中、和那はてきぱきと2人分の食事を作り終えた。


テーブルへいそいそと出来上がった食事を運んでいく。


しかし、玲奈は未だに体を起こさない。


が、いつの間にか小刻みに震えることが見られなくなった。


和那はしばし、ソファにゆっくりと腰かけて玲奈の起き上がるのを待っていた。


やがて、ブランケットの奥から安らかな寝息が聞こえ出した。


 和那はポカンとした表情を浮かべると、何事か思案し、玲奈の分をラップでてきぱきとくるみ始めた。


テーブルにそのまま玲奈の分は残しておく。


 和那は静かに1人で食事を摂り、そのまま食器をスムーズに片づけた。


 かれこれ50分ほど経過したが、玲奈はいっこうに起きてくる気配がない。


安らかな寝息を立てて、そのままソファにうつ伏せになっている。


和那はしばらく玲奈の様子をテーブルから眺めていたが、そのままテーブルで宿題を広げる。


宿題も一通り終了すると、時計は午後9時30分を差していた。


和那はそのまま明日分のご飯を研ぎ、そそくさと入浴しに浴室へと向かっていった。


 入浴をしながらふと和那は考えた。


あの少女、玲奈は何故あの公園にいたのか。


食事すらとっておらず、睡眠もおそらくほとんどとっていない。


入浴もできている様子はない。


あの子の親は一体どこにいるのか。


ネグレクトか。


ニュース番組で殺人事件を報道している際に悲哀と怨恨を感じたが、まさか被害者が玲奈の大切な人なのか。


 入浴を終えて寝間着姿でリビングルームに現れたが、まだ玲奈は眠りの世界から抜け出せていないようだった。


ラップに包まれた食事たちは未だに手を付けられていない様子だった。


ひどく疲れ切っているようだ。このまま朝まで寝続けてしまうかもしれない。


 和那はそのままリビングテーブルの椅子に腰かけ、しばし玲奈を見つめていた。


可愛い。


まるで自分に妹ができたみたいで、和那はとても嬉しかった。


和那は1人娘だったし、両親は仕事熱心で家のことよりも仕事というくらい真面目だった。


しかし、家族としての時間を過ごした記憶は年に1回あるかないかだ。


基本的にどちらかが出張などで欠けている日が多く、家族3人が揃うのは年3日程度だったように思う。


和那は2階の自室に戻り、デスクトップパソコンを起動させた。


先程の大宮区での殺人事件を調べるためだった。


どうしても玲奈の涙と鬼のような形相が頭からこびりついて離れなかった。


掲示板のコメントが開かれ、どうやら被害者がプロボクサーの熊田圭吾という男性であることがわかった。


画像も表示する。


玲奈ちゃんのお兄さん?熊田玲奈ちゃん?いや、兄にしては顔が全然似ていない。


そして、犯人が既に特定済ということに驚いた。


「ホタルイカ」


和那はぼそりとつぶやいた。


聞いたことがある。


確か高校生の連続殺人事件の真犯人。


しかし、何故高校生の連続殺人犯が今回は未成年とは言え、プロボクサーの彼を殺害しなければならなかったのか。


カタン。


 突如、和那の扉の向こうから物音が響き渡った。


和那がビクッと体を震わす。玲奈が起きたのだろうか。


和那はおそるおそる扉を開いて階段へと続く廊下を見つめた。


真っ暗な闇に包まれた廊下はシーンと静まり返っている。


各部屋の扉もきっちりと閉められている。


和那はそそくさとリビングルームへ向かった。


 リビングルームではまだ玲奈が薄桃色のブランケットに包まれて安らかな寝息を立てていた。


相向かいのソファにゆっくりと腰かけて、玲奈を微笑ましく見つめる和那。


そろそろ夜の1時だ。


玲奈が一体いつまでここにいるのかもわからない。


今夜のところはさすがに無下に帰すわけにいかない。


明日の朝で玲奈を帰らせよう。


明日は休日で学校もない。


午後からは美稀と2人で遊ぶことになっていた。


しばらく明日の流れをぼんやり考えていた。


和那もいつしか充電が切れたように、そのままテーブルに突っ伏して眠りについた。





玲奈はビクッと体を震わせて起き上がった。


 静かなリビングルーム。そうか。


先程、見知らぬ和那とかいう少女に連れてこられたんだ。


玲奈はぼんやりする頭で、記憶の回路を辿っていった。


時計を見上げると、時刻は既に深夜3時を回っていた。


相向かいのテーブルには、寝間着姿の和那が突っ伏した状態で安らかな寝息を立てている。


こんなのんびりとして可愛らしいお姉さんがホタルイカの手先とは思えない。


そして、和那がもしホタルイカの手先であるとするならば、私は寝ている時にサクッと殺されていただろう。


玲奈は安堵の溜息を零した。


 目の前にラップ包みされている食事を眺める。


お腹が突如、ぐーっと情けない音を立てて鳴る。


白いメモ用紙が貼ってあった。


玲奈は白いメモ用紙を見つめる。


「玲奈ちゃんへ 起きたら、電子レンジで温めて食べてください。お皿は洗っておくので、キッチンに戻しておいてください。おやすみなさい 和那」


丁寧な優しい字で書いてあった。


玲奈はややホッとした気持ちになった。


 玲奈はキッチンスペースへ向かい、ご飯とおかずの生姜焼きを温め始めた。


レンジは静かに稼働を始める。


玲奈はじいっと回転するお皿を眺めていた。


美味しそうな生姜焼きの匂いにやられ、食欲が俄然増してきた。


 やがて、温め終えたお皿を運んで、リビングテーブルで箸を取り出す。


ご飯はふっくらとして温かい。


すっかり飢え切っていた胃袋が喜びの声を上げる。


生姜焼きはやや甘めで玲奈には極上の味付けだった。瞬く間に平らげてしまい、玲奈は満足感で満たされた。


食器は片づけずにそのままにして、和那の様子を窺う。


和那は未だに安らかな寝息を立てて起き上がる気配はなかった。


玲奈は周辺の棚を物色することにした。


何か金目の物はないか。目をぎらつかせて、それでも静かに棚を物色し始めた。


 リビングルームの棚の引き出しを全て漁ったが、特にお金になりそうな物は何も出てこない。


と、最後の棚の中にあった写真に目を奪われた。


 気品があり、聡明そうな眼鏡を掛けた背の高い男性。


そして、これまた気品がありそうですらっとした綺麗な女性。


その男性のズボンにしがみつく茶髪の毛が腰までたなびく幼い美少女。


男性はきりっとした表情でカメラを見つめ、女性は優しく包み込むような笑顔。


少女は満面の笑顔がとても可愛らしい。撮影年月日は今から10年以上前であった。


おそらく和那の昔の家族写真だろうか。


何とも羨ましい。


こんなに仲が良さそうで幸せそうな家庭が。


玲奈は写真を持つ手が嫉妬で震えていた。


やっぱりこの幸せを少しでもわけてもらうしかない。


玲奈は写真を元に戻す。


すっかりと散らかったリビングルームを出て、今度は2階へ上がるべく、玄関前のスペースへと向かう。


奥にそびえる階段を静かにのぼり、各部屋を覗き込みながら、貴重品がありそうな部屋を探す。


そして、最奥の和那の部屋に差し掛かった。


電気をつけると可愛らしいピンク色を基調とした年頃の女の子の部屋が目の前に現れた。


やや高級そうな学習机の上に、財布らしきものがポンと置いてあった。


玲奈は心臓を弾ませながら、財布をバッと取り上げた。


財布の中を急いで確認する。


1万円札が10枚ほど入っており、玲奈はワクワクした気持ちに襲われた。


元々サラリーマンを相手にした商売はしていたが、ここまで一度に大金を手にしたことがなかった。


玲奈は何度も背後を気にしながら、その1万円札の束をスカートのポケットに突っ込んだ。


と同時に言い知れぬ幸福感に襲われた。


嬉々とした表情で、そのまま和那の部屋を物色する。


と、学習机の引き出し内に高級そうなブレスレットが見つかった。


これもまた、質屋に入れるなどしたら良い値段になりそうだ。


心臓の鼓動がトランポリンのごとく跳ね上がった。


良い家に侵入できて本当に良かった。


玲奈はその後も、和那の部屋を順調に散らかしていった。


時計が朝5時を指そうとしていた。


そろそろ和那も起き出しかねない頃合いだ。


外はまだ薄暗いがやや肌寒い。


玲奈は一通り物色した状態で、そのままこの屋敷をお暇することにした。


忍び足で薄暗い階段を下りていき、リビングルームを何気なく覗く。


和那はまだリビングルームのテーブルに突っ伏したままだった。


どことなく申し訳ない気持ちも覚えながら、しかし、自分が生きるためだと言い聞かせ、玲奈は玄関の扉に手を掛けた。


玲奈はそのまま薄暗い住宅街の中へと姿を消していった。

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