第16話 格闘家の末路

※暴力シーンがあります。苦手な方はご注意ください。


「もう勘弁してくれ」


うつ伏せの少年が声を絞り出すようにうなった。


ふとその少年は力なく宙を見上げる。


青いたん瘤と血にまみれ、凹凸のひどい顔であった。


鼻も唇も変形してねじ曲がってしまっている。


どれだけ圧倒的な暴行を受ければこのような状態になるのか。想像もできなかった。


助けを求める腕が虚しく天井へ伸びる。


ここは薄暗い応接室のような一室。


壁はすすけて古めかしさを演出してるが、備品は高級そうなソファから高級そうな事務机。


あからさまに取ってつけたかのように備品はほぼ綺麗な状態を保っていた。


その部屋の隅っこで先程のズタボロの状態の少年が力なく横たわっていた。


それは和田恭平の変わり果てた姿であった。


あの日、ビルの隙間から表通りに出ようとした矢先に取り押さえられてしまったのだ。


叫ぶ間もなく喉を潰されて、その場で暴行を受けた。


気絶させられてそのままこのビル内に連れ込まれてしまったのだ。


もうかれこれ3日ほど経過しているだろうか。


精神的にも体力的にも極限状態を迎えていた。


傍らには大柄な色黒のスポーティーな若い男と、中学生くらいの小柄な赤髪の少女が、ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべながら、さながらゴミ屑を見るかのように見下ろしていた。


色黒のその男、熊田圭吾は和田が天井に突き上げた腕を力いっぱい踏んづけた。


和田はあぎゃあっと短い悲鳴を上げてもがき苦しんだ。


「けっ情けねえ奴だな。弱い者いじめはする癖に、いざされる側になってみたらママーって泣き叫びやがって。とんだ屑野郎だなあ」


熊田はくくっと薄ら笑いを浮かべる。未だもがき苦しむ和田のお腹に、電話の子機を放り投げた。


「さ、資金調達今日もがんばんな」

「今日は目標100万ね」


玲奈もニヤリと嫌らしい笑みを浮かべる。


「ひゃ、100万なんて勘弁してくれ。も、もう無理だ」


和田は息を切らしながら嘆願したが、受け入れられることはなかった。


突如、腹部に目の覚めるような鋭い蹴りが炸裂した。


鈍い音とともに熱い胃液が喉を伝う感覚が襲う。和田は目をカッと見開いた。


「ぐええっ」


途端に和田は胃液を吐き出した。


食事も水も最低限しか与えられておらず、もはや胃の中から吐き出せる物は何も残っていなかった。


和田はむせ返ってしまい、何度も激しく咳込んだ。


「ちょっと圭吾。やめてあげなよ、電話できなくなっちゃうじゃん」


玲奈が熊田の腕にしがみつきながら言う。


普段の強気な態度とは全く異なり、熊田の前では女の顔を見せる玲奈。


熊田は鼻の下をさすりながら言う。やり過ぎてしまった自覚はあるらしい。


この男、格闘技のプロであるにも関わらず、力のコントロールは下手のようである。


「ま、それもそうか。てかお前、家族以外に宛てはねえのかよ?昨日家族から500万振り込んでもらってまさかそれだけ?それだけで俺らがお前を帰すと思うのか?このホタルイカ様の側近である俺が。親戚でも友達でも近所でも何でもいいからよ。とっとと振り込めってんだよ」


熊田は和田の髪の毛を引っ掴んで振り回す。和田は悲鳴にならない悲鳴を上げることしかできなかった。


身体的な激痛と精神的な苦痛。


和田は、ホタルイカの側近という言葉にこそ底知れぬ恐怖を植え付けられていた。


そう、ホタルイカは去年以降、関東を中心に高校生を無差別に殺傷した正体不明の大量殺人犯。


もしそんな恐ろしい奴に売られてしまったら、それこそ五体満足では帰れないだろう。


子分ですらこの暴れっぷりなのだから、親分のホタルイカはそれこそ粗暴の限りを尽くした怪人なのではなかろうか。


和田は恐怖に身震いするほかなかった。


ここで、熊田のポケットに収まっている携帯電話が着信を立てた。


熊田はいま携帯を2台所持している。


1台は元々の自分の物。残りの1台は和田から奪った和田の携帯電話であった。


熊田は液晶画面をまじまじと見つめる。ニヤリと嫌らしい笑顔がブルーライトに照らし出される。


「お、これはカモだぜ」


携帯電話の着信画面を、自身の白い歯とともに得意げに見せつけてくる熊田。


和田は言い知れぬ緊張感に包まれる。また、家族が狙われるのか。


「飯尾、ちゅうせいくん?」


和田は背筋が凍り付いた。


「やめろ、そいつだけはやめてくれ」


和田は飯尾を親友だと思っている。


和田自身も中学時代までは虐められていた経験があり、それに嫌気がさした和田は、高校からは虐める側の人間につきたいと強く願っていた。


そういった経緯もあり、都内在住でありながら、受験は埼玉県の私立高校を受験。


入学の頃からつるむ連中をガラリと変えた。


それが飯尾であった。飯尾の悪っぷりは入学してからすぐに露呈した。


ともかく相手に対して容赦ない。それに対して和田は憧れみたいな感情を抱いていた。


それから2年、カツアゲや万引きやいじめ、違法すれすれのギャンブル。


やれることは2人で何でもやった。


言わば同じ釜の飯を食った仲間みたいな存在である。


その大親友である飯尾を次の餌食にするのだけは、和田は溜まったものではないと思っていた。


和田が抵抗を試みていると、熊田が玲奈に口をチャックするようなジェスチャーを見せた。


玲奈がコクリとうなずく。


すると、玲奈がたちまちガムテープで和田の口をぐるぐる巻きにしてしまった。


強めに縛られてしまい、喋ることはおろか呼吸もろくにできない。


和田は悔し涙を流していた。玲奈が完了のサインを送ったようだ。熊田が応答のボタンを押した。


「もしもし」


熊田が声を潜めて電話に出る。スピーカーボタンを押したようで、相手方の会話も耳に飛び込んできた。


和田は暴れ出すも抵抗むなしく、玲奈にどっかりとお腹に座られてしまった。


「おう、和田か。どうしたそんな低い声で。風邪でも引いてんのか?」

「飯尾君?和田の兄です」


熊田は声をどことなく和田に似せ始めた。


この男、意外と器用なところがあり、声をどことなくではあるが、本人に似せることができるようなのである。


ホタルイカの伝説で聞いたことがあるのが、変装の達人ということである。


やはり側近も変装技術みたいなものを求められるのだろうか。


「あ、はい。いつもお世話になってます。弟さんいますか」


飯尾が高い声を出す。


熊田は玲奈に向かってニヤニヤと笑いながら、次の言葉を紡ぎ出す。


「いえ。今、弟はサラ金に手を出してしまって、武蔵大宮の南銀座通りのとあるビルにお金を作りに行っているんですよ」

「ええ?」


素っ頓狂な飯尾の声。


それはそうだ。同級生が借金をしているなんて信じられない。


和田はもがいた。しかし、すぐに玲奈によって結束バンドで手足まで縛り上げられてしまった。


もはや玲奈さえどかすこともできない状態になった。和田はいよいよ絶望の淵に立たされた。


「そこで、飯尾君。私と一緒に南銀座通りのビルまでついてきてもらいたい」

「はあ」

「弟は金銭感覚がおかしくなっていたんだ。兄として申し訳ないが、弟の友人である君にしかこういったことは頼めないんだ。お願いだ」


しばしの沈黙があった。


どうやら飯尾が真剣に悩んでいるらしい。


しかし、返事はそこまで時間が掛からずに返ってきた。


「ごめんなさい。今日はちょっと。明日も学校があるので」


和田は愕然とした。


飯尾は学校に対して真面目に取り組むタイプの人間ではない。


どうせ面倒くさいから断ったという魂胆だろう。


もしくは自分がひどい目に遭った場所だから警戒しているのか。


どちらにせよ、飯尾は自分のことを助ける気はないようだ。


俺はお前の敵を討つためにここに来たのに。


何故だ。


虚しさから和田はむせび泣いたが、ガムテープが邪魔でうまく呼吸ができなかった。


「そうか。そしたら、少しだけでもいいんだ。お金を貸してもらえないだろうか」


熊田の表情が徐々に強張っていく。


どうやら歯切れの悪い飯尾に苛立っているらしい。


携帯電話を持っている指にも力がこもっている。


そのまま電話を捻り潰さん勢いだ。


これにはすぐに飯尾は答えた。


「すみません、それもちょっと。実家が貧乏なもので」


和田は目を見開いた。


これは確実に嘘だからである。


飯尾の実家は大企業の重役と聞いた。


和田は飯尾に見捨てられた気持ちに陥った。


あそこまで信頼していた飯尾が、まさか自分に対してここまで何もしてくれないとは。


それとも、飯尾なりに何らかの作戦がある?


いや、そんなことは決してないだろう。飯尾はそこまで打算的な人間ではない。


行き当たりばったりで計画性などまるでない人間だ。


和田は絶望の深い谷に突き落とされた。


「そうか、残念です。ありがとう」


熊田はそれ以上粘りもせずに、あっさりと電話を切った。


 そこからは暴行の嵐だった。


殴る蹴るの一方的な暴行が延々と続いた。


今まで以上の圧倒的な暴力であった。


鈍い音が延々とこだまする。


痛くても苦しくてもガムテープで口を塞がれて叫ぶことすらできない。


吐き出そうと胃液もそのまま再び飲み込まざるを得ない。


あまりにも悲惨なほど血飛沫が飛ぶ。


流れるのは血と涙だけであった。自身の血ですっかり真っ赤に染まった和田の顔。


「金が作れねえ奴なんかゴミよ」


身動き1つ取れない和田の胸元を引っ掴んで熊田は言った。


和田の両手の先まで血が滴る。


シャツやズボンも汚れと血でどす黒くなってしまっている。


和田は薄れ行く意識の中で、死を覚悟した。


口の中が血と胃液の味でいっぱいである。


大量の血液を失い、寒気すらする。


「けっ。てめえのせいで借りた事務所が血だらけじゃねえかこらあ」


熊田は和田の体をそのまま床に投げつけた。


和田は背中を強打した。


血が壁に飛び散る。


和田はそのまま気を失ってしまった。


「ま、今更泣き喚こうが何しようが、お前の学校や家はロスト・チャイルド現象に巻き込まれたと思われてんだ。お前1人がいなくなったところで、世間は痛くもかゆくもねえ」


 熊田は和田の真っ赤に染まった顔にに唾を吐きつけた。


もはや和田は抵抗すらしなかった。


玲奈はいつの間にやら姿を消してしまっていた。


どうやら圧倒的暴力を直視できず、別の部屋に逃げ出してしまったのだろう。


室内には熊田と抜け殻状態の和田のみとなった。


さて、こいつの体は組に売りつけるとするか。


そうすれば少しは金になるだろう。


今はまだ絶命していないだろうし、これ以上暴力をふるうと内臓を傷つけてしまう恐れがある。


これ以上はうかつに傷つけられない。


熊田は椅子に腰かけると、煙草を吸い出した。


これまた高級そうなジッポライターの火で一瞬室内が明るく照らされた。


熊田の顔も返り血で赤く染まっていた。


こんこんと煙を燻らせながら、熊田は自身の携帯電話を操作し始めた。


コンコン。


 突如、扉の乾いた音が響き渡る。


玲奈だろうか。おそらく、和田への暴行が終わったかの確認だろうか。


熊田は面倒くさそうに煙を吐き出しながら叫んだ。


「終わったよ。さっさと入ってこい」


 扉がゆっくりと開かれた。


熊田はそいつらを目の当たりにして仰天した。


驚きのあまり、咥えていた煙草を机の上に落としてしまった。


 開かれた扉の前に立ちはだかっていたのは、1人の怪人と1人の少女だった。怪人は黒いタキシードとマントを羽織り、


白い仮面をかぶっていた。しかし、その仮面には千切られた新聞紙のような紙片が一面にびっしりと貼り付けられていた。


そして、少女は玲奈ではなく、英国風の金髪のボブカットに瞬き一つしない両目。


右目は黒目が無く、白目を剥いてまるで刀傷のようなものが右頬を顎付近まで走っている。


これまた黒いワンピースをまとって小学校高学年くらいの小さな体躯だ。


「貴様ら、な、何者だ?どうやってここに入った?」


あまりの恐怖にうろたえる熊田。


ここは暴力団の事務所の4階である。


そう簡単に一般人が入ってこれるはずがない。


まず、出入口で門前払いさせられるに決まっている。


それを4階まで上ってくるなんてのはあり得ない。


と、ここでおそらく怪人が口を開いた。


おそらくというのは、どちらの口元も微動だにしなかったためである。


それに、地獄の底を這いまわるかのごとく低いうなり声だったため、とても小学生くらいの少女の放った声とは思えなかったのである。


「貴様が、この私の名前を使っている愚か者か」


ゴボゴボとまるで水中にいるかのような異音までもが漂う。


傍らの少女が表情を変えず、口元だけでクスクスと馬鹿にしたように笑う。


「クスクス。馬鹿な奴」


怪人とはうって変わってソプラノの声が室内に響く。


熊田は恐怖のあまり、冷や汗を浮かべていた。


だが、ここは自らの体術で何とか強行突破をすることに決めた。


相手は得体の知れない2人組だが、怪人の体格は熊田よりも一回りほど小さい。


少女など話にならない。


体の発育は良さそうだ。


せめて売春の道具にでも使わせてもらうか。


熊田はゴクリと唾を飲み込んだ。


未だに感じたことのない威圧感だ。


その威圧感に気圧されるように鼓動がうねり出す。


ゆっくりと熊田が椅子を跳ね除けて立ち上がる。


怪人たちは微動だにしない。


チャンスだ。熊田はせせら笑う。


熊田が怪人に飛びかかろうとしたその瞬間、首筋に冷たい金属性の何かを感じた。


心臓の鼓動が一気に跳ね上がった。


首筋には黒い何かが停まっている。


そして、何よりこの怪人はいつの間に間を詰めていたのか。


熊田は左頬からじわじわと出てきた汗を感じた。


驚きのあまり、両目を見開くことしかできなかった。


「貴様のような犬の糞のようなチンピラなど、生きているだけで反吐が出るわ」


カチリと乾いた音が響く。


熊田は両目に熱い涙を浮かべた。


パーン。


乾いた銃声とともに、熊田は首から噴水のごとく真っ赤な液体を噴出した。ひとしきり噴出し終えると目を暗転させ、その場に力なく倒れこんだ。


突然シーンと静まり返る室内。


返り血を浴びた怪人が部屋の中央にまだ銃を構えた状態で立っていた。


そして、少女は微動だにせず、部屋の出入口に佇んでいた。


「クスクス。馬鹿な奴」


ややあって、2人の姿は消えるようになくなった。


気絶した和田の体と、銃で首に穴を開けられた熊田の肉塊だけが取り残された。

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