第11話 洋館の怪異④
カタン。
総理の寝息が微かに聞こえる部屋で、開けられていたベランダ側の窓から物音がする。
と、次の瞬間、部屋のカーテンが何者かによって暴かれた。
ややあって室内に黒衣を纏った何者かが慣れた手つきで室内に侵入してきた。
そして、その黒衣を纏った者は総理が寝息を立てているベッドまで足を運ぶ。その者の腕がすっとベッドの布団まで伸びた。手を掛けられた掛け布団が力強く剥ぎ取られた。
直後、総理が勢いよく跳ね起きてその黒衣の者を蹴り飛ばした。黒衣の者は背後の観葉植物に派手に衝突した。飛び起きた総理はすぐさまベランダの窓へと向かい、窓を閉めて鍵を掛けた。これで、黒衣の者の退路を断った。
しかし、黒衣の者は観葉植物を跳ね除けて起き上がると、部屋の扉に手を掛けて押し開けた。廊下側へ逃げる気だ。だが、扉は何故か僅か10cm程しか開かず、黒衣の者は扉に衝突した。
扉の外を見ると、扉板の下側についている金属の輪っかに結束バンドがぎっちりと結ばれていた。そしてそれは、廊下の床に埋め込まれている隣の部屋のドアストッパーにしっかりと括り付けられている。
「くそ」
黒衣の者が結束バンドに手を掛けて解こうとしたその瞬間、背中にじんわりとした大きな衝撃が走った。
先程の観葉植物の壺が背中にのしかかる。黒衣の者はそのまま床に体を叩きつけられた。
そして、総理は黒衣の者に対してマウントを取り、手早くその両腕と両足を結束バンドで固定する。
そこで、総理は廊下に向かって叫んだ。
「美稀、完了だ」
室内の電気が明るく灯された。ややあって、結束バンドを撤去し終わったのか。2人の寝間着姿の少女が緊張した面持ちで部屋の中に入ってきた。
「やっぱり総理の予想通りだったね。建物の構造に詳しい。2階のベランダに上がってこれる場所があったんだ」
「そう、ベランダ側の雨樋がしっかりしていたから、もしかしたらと思った。そこからいとも簡単に侵入できるとはな」
総理は横たわっている黒衣の者の顔を覆っているマスクに手を掛けた。黒衣の者は抵抗していたが、すぐに観念したのか全く動かなくなった。マスクが完全に外されたその時、初老の男性がその顔を露わにした。
和那が思わず口を手にやって叫んだ。
「お父様」
「何?」
総理と美稀は驚愕した。初老の男は苦虫を噛み潰したような表情をする。
「く、和那」
父は冷汗をかいている。総理は父を抱き起し、話を聞くことにする。
「何で?何でお父様がこんなことを?それに今はロサンゼルスにいるのでは?」
父は観念したかのように語り始めた。
「ふふ、バレてしまったのなら仕方ない。実は1週間前から母さんと内緒で帰国していたんだ。まあ、もちろん仕事の案件があってな。それで、今回こそは和那とともに、家族全員でロサンゼルスに行きたいと思ってな」
「どういうつもりだ?実の娘に」
総理は厳しい視線で問いただす。
「勘違いしないでくれ。別に私は何の考えもなしに変態の真似事をしていたわけではない。ロスト・チャイルド現象がいかに怖いものなのか、和那に理解してもらいたかっただけなんだ。今やロスト・チャイルド現象が埼玉県にも来ていると聞く。私たちはそれを聞いて不安に思った。年頃の実の1人娘を残して、仕事とはいえ、海外に行かなければならない。そこで、今回東京でのビジネスの案件をこなしながら、母さんと2人でどうすれば和那を説得できるか必死に考えた。そこで思いついたのが、これというわけだ。和那には悪いが、身を持ってロスト・チャイルド現象の恐ろしさを理解してもらう以外、和那を説得できる方法はなかった」
「アホたれ。和那は本当に怖がっていたんだぞ」
総理は冷たく言い放った。
「もちろんだ、わかっている。ただすまん。私たちにはこれしか思いつかなかったんだ。和那、本当にすまん」
父は正座したまま、頭を何度も下げた。
「お父様」
呆然とする和那。
「お前は人前ではおっとりしているが、家庭内では頑固でわがままな部分がある。器用そうに見えて、実に不器用だ。そんなお前を説得してロサンゼルスに連れていくためには、これしかなかったんだ。もし、お前が本物のロスト・チャイルド現象に巻き込まれてしまったのなら。私たちはアメリカの地で気狂いしてしまいそうだ。私たちの気持ちもわかってくれ。本当にこうすることしかできなかったんだ」
うなだれて泣きじゃくる和那の父。
父の涙をただ見ているだけしかできない、総理と美稀。
和那はどう決断するのか。ロサンゼルスに両親と一緒に行くのか、それとも。
と、和那は父の肩に優しく手をやった。
「安心してください、お父様」
和那の薄桃色の唇が微かに動いた。
「私は、ここに残ります」
表情はさながら女神のように柔らかいが、和那は力強く宣言する。
そう、私はもう1人じゃない。こんなにも私のことを思って、私のことを守ってくれる大切な友達がいる。この大切な友達との未来を見てみたい。
和那の父は未だに涙をボロボロとこぼしながら、娘の満面の笑顔を見つめている。その娘の顔には今まで見たことのない気迫がみなぎっていた。
「今まで、私はお父様とお母様に大切に育てていただきました。その感謝の気持ちを忘れたことはありませんし、これからも変わりません。でも、私はそれによってありとあらゆることを我慢してきました。私の努力不足もありますが、転校が多すぎて学校では友達もろくにできず、家に帰ってもお父様とお母様がお仕事でいません。毎日のように1人で寂しくて悔しい思いをしていました。そして今、ここでお父様とお母様の言うことを何も考えずに受け入れてしまうことで、また私は同じ気持ちになると思いました。もうこれ以上同じ思いをしたくはありません。お父様、お願いします。いつまでもわがままな娘で本当に申し訳ないですが、この総理さん美稀ちゃんとの、大切な友達との未来をどうか私に恵んでください」
和那はその場に土下座して頼み込んだ。総理と美稀は驚愕した。和那はプライドも全て投げ捨て、父親に請うた。父親も信じられないといった様子で、両目を見開いている。
「和那」
和那はまだ顔を床につけたまま、微動だにしなかった。和那の強い思いがひしひしと伝わってきた。
今までの和那の心情を思うと、本当に悔しく寂しかったことだろう。学校に行っても友達がおらず、家に帰っても両親が仕事でいない。
ずっと物理的にも精神的にも1人で思春期を過ごしてきたのだ。とんでもない精神力だ。思わず総理の口から突いて出た言葉。
「愛情がないわけではないのはわかるが、もうこれ以上大切な娘を悲しませたり、怖がらせたりするな」
父は目を見開いた。そして、目を閉じた。思考をあれこれと巡らせているようだ。和那はまだ床に頭をつけていた。
「わかった」
父のその言葉に、和那はようやくゆっくりと顔を上げた。そして、和那は満面の笑顔を見せた。総理も美稀もホッとした表情を浮かべる。
「ありがとうございます、お父様」
「ただし、危険な目に遭ったらすぐに連絡するんだぞ。その時は父さんと母さんと一緒にロサンゼルスに来るんだ。約束だ」
父も真っすぐな瞳で和那を見つめた。その瞳は娘を想う親のそれであった。和那もまた真っすぐに父を見つめている。そして、こくりと力強くうなずいた。
「はい」
和那と美稀は手を取り合って喜び合った。きつく抱き締め合う2人。総理もまたホッと安堵の溜息をついた。
と、同時に総理自身も両親、姉からの愛情をしっかりと見つめ直そうと考えた。心配性は鬱陶しいが、確かな愛情がそこにあるのだと感じた。それを和那に教えられた気がした。
父は道路端に停止していた黒いセダンの助手席にいそいそと乗り込んだ。バタンとドアを勢いよく閉めた。
「全く、お前に似て本当に頑固でわがままだよ」
父はシートベルトを手に取りながら、苦笑いを浮かべる。運転席にいる、中年だが美しい女性が口に手を当てて上品に笑う。
「何をおっしゃいますの。その性格はあなた譲りでしょう」
「そんなことないだろう。一度決めたら頑固に貫き通すところなんて、結婚前のお前そのものじゃないか」
父が反論する。どうやら運転席の女性は和那の母であるらしい。やや垂れ目で美しい顔立ちは娘を彷彿とさせた。そして、月明かりを浴びながら上品に微笑む母。
「違いますよ。幹部会議の浅倉社長に大変そっくりですわ。あれじゃあ、部下の方々も振り回されて大変ですわ」
オホホと口に手を当てて、上品な笑いをこぼす母。父は困惑したような表情を浮かべる。
「まあでも俺の娘だからな。人当たりはいいはずさ。大丈夫だ」
父はにこりと笑い白い歯を見せた。
「そうですよ。私の娘ですもの。しっかりしてますわ」
母もまたにこりと笑った。
「頼もしい友達ができて良かったな、和那」
「ふふふ」
母が笑いを止められないと言った様相でいると、父もまた笑いが止まらなくなった。
どことなく不気味な雰囲気を放った車内。
それは筆舌に尽くしがたい、まだ何か娘への隠し事があるようである。
しばらく2人で闇夜に笑いのコーラスを奏でた後、父が大きな溜息をついた。
「さて、我々も明日からまた本格的に仕事に戻ろうか。人材派遣の業務は何とも忙しない」
父がくたびれた表情でつぶやいた。母は黙って車のエンジンを入れた。
二筋のライトが住宅街の森の中を明るく照らす。気が付けば、車はそのまま住宅街の合間を縫って姿を消していた。すぐにまた平穏に寝静まった住宅街だけが取り残された。
朝は小鳥たちのさえずりと共にやってきた。心なしか窓から降り注ぐ陽光がお洒落だ。
総理は眠い目をこすって起き上がる。ほどなくして自宅の自室でないことを思い出す。
アンティークの品々と近くにデーンと転がっている観葉植物。切り取られて放置された結束バンド。
昨晩の強烈な出来事が夢でなかったことを物語っていた。総理は放置されていた物品の片づけを開始した。片づけをしながら思案した。
和那の父の「わかった」と言い放ったシーンが無限に回想された。まるで覚悟を決めたような重々しい声色であった。これからは娘の成長を信じて愛し続けてくれるのだろうか。
と、片付けがひと段落したところで扉をノックする音が響く。扉がゆっくりと開かれた。
「総理さん、朝ですよ」
昨日とは明らかに異なる、すっきりとした表情の笑みを浮かべた制服姿の和那が現れた。
どうやら昨日のあの出来事で全て吹っ切れてくれたらしい。和那の表情には今までとは違う、精神的な余裕が感じられた。良かった。元気を出してくれていた。
「ああ」
総理は力強くうなずいた。
制服に手早く着替えて、階下に降りていく。2人の笑い声が鼓膜を突いた。美稀と和那が協力して朝食を作っている様子だった。ほんのりと甘い卵焼きのような匂いが鼻腔を突く。
総理がテーブルに腰かけると、朝食の配膳を和那がしてくれた。いただきますと手を合わせたその瞬間、大聖の顔がなぜか思い浮かんだ。
「あ、いけね」
総理はふと大聖に全く連絡をしていないことを思い出した。ご存知の通り、大聖と美稀と3人で毎朝、県庁前駅に集合してから登校するのが日課となっていた。
今日は和那の自宅の最寄り駅である与野駅から電車に乗るため、それができない。
総理は携帯電話を取り出した、ところまでは良かったが、特に罪悪感も出てこなかったので、携帯電話を鞄の中にしまい込んだ。
「まあ、いいか後で」
簡単な朝食を3人で食べ終え、片付けをして、学校を目指す。昨日抱いた心理状態とは異なり、どことなく軽やかな心で洋館を出発した。美稀と和那が快く談笑しながら、総理は黙ってそれについていく。
住宅街も昨夜とは異なり、通勤・通学ラッシュの忙しない雰囲気を放っていた。スーツ姿、制服姿がチラホラと見受けられる。
そのまま交番と公園前の道路を通り、開店に向けて準備を進める駅前のスーパーも通り、小さな駅前ロータリーに辿り着く。昨日の陰鬱な感情はどこへやら消えてしまった。久しぶりに晴れやかな気持ちの朝を迎えられた気がする。
駅舎へ続くエスカレーターに乗ると、美稀が思い出したように総理に言った。
「そういえば、大聖には連絡してあるから。そのまま今日は学校でねって言ってあるよ」
「ああ、そうか」
総理はまたも大聖への連絡を失念していた。大聖に悪いという気持ちが芽生えた。ただ、同時にやっぱり連絡したかと感じた。
こういった大聖が絡んだことに関して、美稀は仕事が特に速くなる。羨ましい気持ちだった。大聖は今日も美稀に好かれている。おそらく総理がこの件で大聖に敵うことはきっとないだろう。
そしてまた、再び美稀と和那は2人の世界に入ってしまった。
そういえば、総理はふと昨日のことについて違和感を抱いていた。何故、美稀は総理たちの後をつけてこの与野駅まで来たのか。
途中、レストランでの和那の話を聞いたり、結局与野駅前には1時間以上も居座っているのだ。
それにも関わらず、一切美稀は俺たちに声を掛けることなく、先程の公園まで黙ってついてきていた。
それは一体何故なんだ?まさか、美稀は自分のことがちょっぴり好きなのでは?何故か淡い期待をしてしまった。まあ、そんなわけないか。
表情が思いのほか緩んだ。
「総理、何ボサッとしてるの?電車来ちゃうから急ごう」
我に返ると、美稀が笑顔で振り返っていた。和那もまた、行きましょうと微笑みかける。
総理は美稀と和那について、改札口からホームまで突っ走った。
今日もまた、いつもと同じ日常が少し味付けを変えて始まる。
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