第4話 ボクサー

夜の繁華街の武蔵大宮。時刻は23時頃だろうか。

周囲は既に酔っ払いのサラリーマンが列をなし、我先にと駅舎へ吸い込まれていく。そんなざわつきの中で、飯尾は1人、ポケットに両手を突っ込み夜の繁華街をうろついていた。


しかし、ゲームやスロットに夢中ではしゃぎすぎてしまい、所持金が3千円ほどにまで減ってしまっていた。自身の所持金と楠田から強奪したお金を含めて4万円ほどあったはずだが、すっかりと財布がスリムに痩せ細ってしまっていた。


「ちくしょう」

道端に転がる酒の空き缶を蹴り飛ばす。その場にどっかりとヘタレ込むように座る飯尾。メインの通りは、飲み客や飲み屋のキャッチで溢れかえっていた。飯尾はそういった連中を軽蔑するかのように睨みつけている。逆に、通り過ぎる連中もまた飯尾を見下したような視線を投げる。


「そろそろ帰るかーそれとも」


気だるそうに舌打ちをする飯尾。弱そうな学生か泥酔したサラリーマンでいい。かつあげでもして資金を増やそうかと企んでいた。この時間は高校生の塾帰りも多い。遊びの資金確保にはもってこいだ。いつも通りにやりと不敵な笑みを浮かべる飯尾。そして、新たなる獲物を狙って立ち上がり、駅前ロータリーへと歩を進める飯尾。


と、その時だった。突如、路地裏から明るい服装の少女の頭が飯尾の肩に遠慮なくぶつかってきた。飯尾はびっくりしたが、相手がか弱そうな女の子とわかるや、顔をしかめた。

「ってえなあ」

飯尾が大袈裟に肩を抑え込む。よし、今日の獲物はこいつだ。舌をぺろりと出して目の前の赤髪の目つきの悪い少女を見つめる。少女もまた、切れ長の瞳で強気な表情を崩さない。中学生くらいだろうか。おそらく近隣の町のヤンキー少女と言ったところだろう。少女は怯むことなく、飯尾を軽蔑したような目で睨みつけている。


「なんだよてめえ」

少女は力強く言い放った。何と口の悪いクソガキだろうか。飯尾の頭に血が昇っていく。

「ああん。てめえからぶつかってきたんだろうが。挨拶もねえのかクソガキ」

飯尾がいかつい顔をしかめて凄んだが、少女は舌打ちをする。

飯尾の頭の中で何かが切れた。決めた。こいつから金を奪い取って、裏で強姦もしてやる。


「てめえこっち来いや」

飯尾が、睨みつける少女の髪の毛を強引に引っ掴み、そのまま路地裏に連れ込もうとしたその時だった。路地の奥から、飯尾よりもガタイの良い少年がずかずかと歩み寄ってきた。少女は悲鳴を発しながら、飯尾の腕を懸命に引っ掻いて応戦している。

「なんだてめえ」


「どうした、玲奈」

異変に気づいた少年は、目にも止まらぬ速さで、飯尾の腹に右の拳を突き立てた。飯尾の腹が盛大に歪む。胃液が勢いよく逆流する。酸っぱくて熱い感覚を口の中が襲う。悲鳴を上げることもできぬまま、飯尾はその場に力なく崩れ落ちた。つかの間、左頬に強烈な蹴りを食らった。頬が熱を発して腫れ上がるような感覚。左目の視野が狭まる。続いて右頬にも、おそらく蹴りを入れられた。もはや蹴りなのか拳なのか判別つかなかった。顔面が狭まる感覚と、たとえようもない激痛。

飯尾はなす術もなく、その場にうつ伏せに倒れこんだ。


「さすが‘武蔵の闘犬’熊田」

玲奈と呼ばれた赤髪の少女はくすりと笑うと、寝転んだ飯尾に唾を吐きつけた。

「何だよ玲奈、こんな小物に襲われかけたのかお前」

熊田と呼ばれたガタイの良い少年は苦笑いする。


「うるせえ。男には力で叶うわけないじゃん。遅えよ。早く助けに来いっての」

ぶすっと少女は膨れっ面をする。

「ま、その素人の男もプロを前にしたら一溜りもねえわけだけどな」

熊田はふふんと顎をさする。どうやらこの男はプロの武闘家であるらしい。

「ほんとプロ意識ねえなお前」

玲奈は膨れたまま言い放つ。


「何言ってんだこれは正当防衛。愛する彼女が襲われかけてるのに、武力行使で止めない腰抜けがいるもんか」

「また調子良いことばっかり言う」

玲奈はやや顔を赤らめる。玲奈はすっと左手を静かに差し出す。

「ふふ、今日は寝不足確定だな」


熊田もにんまりと笑うと右手を差し出す。2人は手を繫いだ。そして、そのまま路地裏の怪しい古びたビル街の方へと消え去った。


 いつも通りの横山家の朝がやってきた。新聞とにらめっこする父。化粧ポーチを片手に鏡とにらめっこする姉。汚れたお皿とにらめっこする母。総理もまたテレビとにらめっこして、ニュース番組を見ていた。


 今日はロスト・チャイルド現象関連のニュースは全くなかったためか、昨日のようなとげとげとした雰囲気は室内になかった。

 総理はニュースを一通り頭に叩き込み終えて、洗面台へと足を運ぶ。すると、先客の父が鏡とにらめっこしながらスーツのネクタイをピッチリと締めている。

「よし総理。今日は俺が駅まで送っていくぞ」

そこへ、化粧をばっちり終えた姉の愛理も顔をひょっこりと出す。

「あ、私が総理を送ってくよお父さん」


総理は間に挟まれて溜息をこぼす。どうも、この家系は心配性な人々が多いらしい。どこの誰がこんな快晴の朝っぱらから、高校生とは言え、大の男を連れさらう気になろうか。この家族は全体的に普通の家庭であるが、心配性の部分だけは常軌を逸している。


「そうよ総理、今日こそは送ってもらいなさいよ」


キッチンで洗い物をこなしていた母までもが、泡だらけのスポンジを手に、この戦いに参戦する。その表情には一抹の不安が宿っていた。


「どうする?愛理。どっちが総理を乗っけていくかジャンケンするか?」

 父と姉もどちらの車に総理を乗せるかで言い争っている。総理はふつふつと苛立ちが募ってくるのを感じた。

「そうだ。それならば総理本人に決めてもらおう。どっちの車がいいのか」

「そうねお父さん。総理が乗るんだもんね」

「総理、父さんの車がいいんだろう?」

「アピールはダメよ、お父さん。純粋に総理に決めてもらうんだから」


どうやら解決しなかった上に、決断を総理に放棄したらしい。父も姉も純粋そうな眼差しで息子、弟を見つめてくる。自分が乗せてやる、と言わんばかりの顔である。総理の頭の中で何かがプチっと切れる音がした。


「アホたれ。こんな朝っぱらから、大の男をさらう悪趣味な奴がいるか」


総理はふんと鼻で笑い、鏡の前を占拠していた父親をどかす。自分の歯ブラシを手に取って、鏡とのにらめっこを始めた。両親と愛理は腑に落ちない表情で見つめ合っていた。


総理としては、送ってもらうこと自体を否定しているわけではなかった。この年にまでなって、ここまで割れ物を扱うかのように接してくる両親や姉が疎ましかった。そして、それを美稀や大聖に見られてしまうということはどうしても避けたかった。夜の帰り道ならまだしも朝の行きの道である。

総理は急いで口をすすぎ、歯ブラシを定位置に戻す。


愛理が車のカギをじゃらじゃらと手の中でこねくり回している。

「そうだけどもさ、総理。あのね、お姉ちゃんもお父さんもお母さんもね、総理に何かあってからじゃ遅いって思って心配してるんだからさあ」

「行ってきます」

総理は愛理のくどい説教を全て無視して、そそくさと玄関へ向かった。

「あ、ちょっと総理。待ちなさい」

愛理が玄関に向かった頃には、既に玄関の扉が固く閉ざされていた。そこに父と母も玄関まで姿を現す。母の手にはまだ泡だらけのスポンジが握られていた。


「え?総理行っちゃったのか?」

「そうなのよ。私、追いかけるから」

愛理もまた靴を強引に履きながら、玄関扉を開いた。

「あ、愛理。鞄忘れてるじゃない」

母が泡だらけの手で愛理の鞄を持ってくる。愛理がハッとした表情で短く叫ぶ。

「お母さん、泡。泡。キャー」


 一方の総理は、既に閑静な住宅街の朝を突き破るように歩いていた。太陽が力強い日だった。まだ朝にも関わらず既に気圧が力強く、押し付けられるような気だるい暑さが感じられる。周囲は比較的静まり返っており、犬の散歩をする近所の人や駅を目指して歩く会社員が散見される程度だった。総理は腕時計を確認しつつ、県庁前駅までの途を急ぎ足で進む。時折、ハンカチで顔の汗を拭う必要があるくらい暑かった。駅前のシャッターがきっちりと締まった商店街を抜け、駅前のロータリーへ差し掛かると、学生服姿の人間も少しいたので、ホッと胸を撫でおろす。


 昨日、さいたま市にロスト・チャイルド現象が初上陸してから、さらに加速度的に行方不明者が発生してしまうのかと思っていたが、どうやらそうではないようだ。


 ロータリーからそのまま駅舎へ吸い込まれていく人の群れ。そこに2人の笑顔の少年少女が立っていて、総理に手を振っている。また、今日もいつも通りの日常を始めてやる。ロスト・チャイルド現象なんぞにこの日常を奪われてたまるものか。総理は強く心に刻んだ。


「いやー昨日うちの学校のすげえ可愛い女の子に道案内頼まれちゃってさあ、なあ総理」


電車内はいつものように座席がほぼ埋まっており、扉の前を3人で陣取って談笑に耽っている。


大聖は狂喜のあまり、鼻の下をだらしなく伸ばし、体をくねくねと捩じらせている。そう、大聖は昨日の可愛らしい女の子とのエピソードを披露していたのだ。美稀は一瞬で呆れた表情に変わる。


「絶対、俺に気が合ったから話しかけてきたんだよ。なあ総理」


大聖の表情は恍惚という言葉以外当てはまらなかった。昨日からこのテンションを維持しているのだから、相当惚れ込んでしまったのだろう。しかし、美稀からは手痛い横槍が飛んできた。


「そんなわけないじゃん。どこの誰がよりによってこんな優しくなさそうな奴らに話しかけるのよ」


美稀はふうっと溜息をつく。


しかし、今の大聖には痛みを感じる機能が麻痺していたようだ。一切聞く耳を持たず、延々と体を捻らせている。


「与野だからめちゃくちゃ近いしな。たはーあ。また会いたいなあ」


大聖は再び妄想に耽っていた。膝をパシパシ叩いて悦に浸っている。蕩けそうな表情が気持ち悪かった。


「そんなことより、昨夜南銀の路地で、うちのクラスの飯尾君が誰かに殴られて怪我したらしいよ」


美稀が話題を華麗にすり替える。


「え、飯尾が?」


総理は唖然とした。昨日、確かにゲームセンターで会った時は何の異常もなかったのだが、あの後何か喧嘩にでも巻き込まれてしまったのだろうか。


「和田はどうしたんだ」


「和田君?」


美稀がすぐに聞き返す。


「ああ、昨日は飯尾と和田の2人でゲーセン行って遊んでたんだ。俺たちは帰り道にばったり遭遇してたんだ。怪我したのは飯尾だけだったのか?」


冷静に言葉を並べる総理。珍しいものを見たといった様子で美稀はぽかんと口を開けていたが、すぐに思い出したように喋り出す。


「いや、和田君の話は聞いてないなあ。たまたま塾帰りだったうちのクラスのみやびが見たんだって。人だかりができてるから、何事かと思って見てみたら、見たことある人が救急隊に囲まれてるなあって。で、うちのクラスの飯尾君だって気づいて私に連絡がきたんだよ」


みやびとは美稀の友人の1人である大槻のことだ。確か、そこそこのお金持ちだった気がするから、私立の学校に加えて予備校にまで通っているのだとか。学業優秀というのもうなずける。


「そういうことだったのか」


総理は顎に手を当ててしばし考え込む。奴らの仲間割れか?いや、低身長の和田がそもそも腕力であのいかつい飯尾に勝てるはずもない。では、誰かに絡まれて飯尾だけが喧嘩を買ってしまった線が濃厚か?


と、話をこっそり聞いていたのか、今まで体をくねらせ続けていた大聖も、冷静さを取り戻して口をはさんできた。


「そりゃあ、あいつらの仲間割れじゃねえのか?どうせスロットか何かの取り分で揉めたんだろ」


「にしては、飯尾君だけが救急車沙汰ってやり過ぎじゃない?」


「わかんねえぜ。和田の奴もキレると止まらねえからなあ。飯尾も性格悪いから、絶対取り分で揉めたんだと思うぜ」


「いや」


考え込んでいた総理が突如、口を開いた。大聖と美稀は総理に視線を戻す。


「ロスト・チャイルド現象の線ってのは無いのか?」


総理が冷静につぶやくものの、美稀と大聖が狼狽した表情で聞き返す。


「え、ど、どういうことだよ?」


うーんと再び考え込む総理。


「要は何者かによる誘拐未遂だ。何者かによって、飯尾を路地裏に連れ込もうとして、助けを呼ばれたかで失敗して、その腹いせに飯尾に怪我を負わせた」


しばし、シーンと静まり返る3人。しかし、大聖が雰囲気に呑まれじと反論する。


「でもま、今回はただの喧嘩じゃねえか?あそこヤクザの事務所もあるんだろう?仮に誰かを誘拐したいってのがロスト・チャイルド現象だったとしても、わざわざガタイの良くていかつい顔した飯尾を連れ去るか?」


「何故飯尾なのか?と言われると確かに答えはわからないけど、1つ言えるのは素行の悪さじゃないか」


総理が大聖を見つめる。


「確かに素行はめちゃくちゃ悪いな。学校一じゃねえのか?」


これには大聖もうなずいた。美稀は何故か無表情のまま、黙って両者の話に聞き入っている。


「ロスト・チャイルド現象は一見、高校生が勝手に失踪しているかのようなイメージを持たれているが、実際はそういった問題のある高校生を作為的に選んで誘拐しているんじゃないかと思う。さいたま市で初めて失踪した高校生も登校拒否になってしまっていたらしいからな」


「うーむ、でも、何でそんな面倒くさいことするんだ?」


「そこまではわからん」


と、ここで目的の武蔵大宮駅まで到着し、3人はいそいそとホームへ降り立った。ホーム上は通勤、通学者でごった返す。そのまま、階段をのぼり、改札口を潜り抜ける。


歩きながら総理は考えていた。そう、確かに何故そんな手間のかかることをするのか。動機がわからないのだ。ただし、総理の見解としては、精神疾患に罹った高校生たちが一斉に失踪することよりも説明がつきやすいと思っている。


 3人はそれ以降、ほとんど言葉を交わさないまま学校までの道のりを歩いて行った。


しかし、総理にはどうしても引っかかることがあった。 ただし、言葉には上手くできなかった。汗が止めどなく滴っていた。


 やっとの思いで辿り着いた教室内には、どんよりとした不穏な空気が漂っていた。


ひそひそ話に興じる女子生徒たち。その女子生徒たちの中に吸い込まれるかのように美稀は混ざっていった。いつもの変わらぬ美稀の笑顔。


一方の男子生徒たちからは負のオーラとでも言うのか、落ち込んだような空気が充満していた。自席にどっかりと腰かけていた飯尾は、腫れ上がった両頬にどでかい湿布を貼り付けていた。苦々しい顔が惨状を示していた。もはや誰なのかわからない。隣の席には青い顔をした和田がちょこんと腰かけていた。総理はやはり違和感を拭えなかった。


周囲の女子生徒たちは時折、そんな2人をチラチラと見ながら、ぺちゃくちゃとお喋りに花を咲かせていた。憐んでいるのか蔑んでいるのかわからない視線を2人に送っている。


「おい飯尾。大丈夫か」


大聖が飯尾の元へ駆け寄る。総理も大聖の跡に続く。飯尾は苦い顔を見せつけたまま、顔を上げた。


「昨日何があったんだよ?あの後」


大聖がたまらずまくしたてる。すると、和田が青い顔で俯いたまま話し始めた。目は驚きのあまり見開かれ、両腕がわなわなと震えていた。


「昨夜9時過ぎに俺だけ先に帰ったんだ。飯尾はまだスロットを打っていきたいって言うから。それで、しばらくして飯尾が店を出たら、赤い髪の女の子が路地裏から突然現れてぶつかってきたんだって。で、腹が立った飯尾がぶん殴ろうとしたら、彼氏らしい男が路地裏の奥から現れて、瞬く間にボコボコにされたって」


和田は俯いたまま言った。総理は思った。どうやら普通の喧嘩らしい。ロスト・チャイルド現象ではなく、飯尾の自業自得ということか。腑に落ちなかった点が呆気なく解決してしまった。総理は腕を組む。和田はまだ俯いたまま続ける。


「ただその後、奥の古いビルの方に引きずり込まれそうになったんだって」


「何だって?」


大聖が眉間にしわを寄せる。和田はまだ俯いている。


「理由はよくわからないけど、そこって昔からヤクザの事務所とかある場所だから、もしかしたら連れ込まれてとんでもない目に遭わされるかもしれないもんな。ただ、必死に悲鳴を上げていたら、通りから数人のキャッチのお兄さんたちが様子を見に来てくれて。それで何とか救急車を呼んでもらって助かったらしい」


総理と大聖は顔を見合わせた。この追加情報によって、もはやただの喧嘩なのか、はたまたロスト・チャイルド現象だったのか。よくわからなくなってしまった。


「結局、その飯尾を殴った彼氏とその女の子は警察に捕まらなかったのか?」


大聖が和田を振り返って尋ねる。和田は若干顔を上げたが、首を力なく縦に振る。


「たぶんね。警察がその後、周囲を探してまわったらしいけど、それらしい人たちは見つからなかったってさ」


4人の間に沈黙が舞い降りる。結局、謎が残ってしまった。しかし、相手がヤクザ絡みともなると迂闊に調べることもできない。何とも後味の悪い結末だ。総理は残念に思った。


 と、そこに正面の扉をガラリと開けて、中に入ってきた小さな人影。ボサボサの頭に弱々しい表情をした少年。楠田だった。楠田はちらりと4人を窺うと、飯尾の席から横に1つ飛ばした自席、つまり今和田が座っている席の右隣へと歩を進めようとした。和田がその楠田のノソノソとした様子に苛立ったのか、じろりと睨みつけて舌打ちをする。相変わらず弱い奴には強気なんだな。情けない。総理は思った。


「なんだよてめえ」


和田が座っている椅子を蹴り飛ばすように立ち上がると、楠田に飛びかかろうとした。咄嗟に総理と大聖は和田を押さえつけてなだめた。教室が騒然となる。大聖が前から和田の両肩を押さえ、総理は背後から両腕を押さえ込む。


「よせよ和田、朝っぱらから」


大聖が優しくたしなめるも、和田は依然興奮状態のままだ。顔を真っ赤にして、今にもとびかかろうとする豹のごとしだ。目の前に棒立ちしている楠田は困惑の表情を浮かべている。


 ここで、再び正面の扉が再び乾いた音を立てて開かれた。若い女性が快活に入ってくる。担任の橋本だ。総理はホッと胸を撫でおろした。和田は再び舌打ちをしたが、両腕の力が一気に抜けた。総理と大聖は安心した表情で、和田を解放する。


「はい、じゃあ席について」


生徒たちがそれぞれ自席に戻っている間に、橋本は顔面湿布だらけの飯尾に声を掛ける。


「昨夜治療したの?怪我の具合はどう?」


「あいじょうぶ」


飯尾はしゃべりづらそうにつぶやく。おそらく、頬が腫れ上がってしまってうまく喋ることができないのだろう。


「最悪の結果にならなくて良かったけど気をつけてよ。皆さん、放課後は寄り道なんかせず、真っすぐに帰宅してください。飯尾君も夜遅くまで街で遊ぶのはよしなさい」


「へーい」


飯尾は気だるそうに返事した。どうやら、この男は一切懲りていない様子だった。まさかこの顔のまま、今日も夜の街に繰り出そうとしているのではなかろうか。


「さてじゃあ、ホームルームを始めます」


橋本が淡々と通達事項を述べていく中で、総理はふと何気なく楠田に視線を送った。楠田はぼんやりとした生気のない顔で黒板に視線を送っている。そして、気のせいだろうか。心なしか楠田のその顔にうっすらと笑みが浮かんでいるのが見てとれた。総理はそれを見て不気味さを覚えずにはいられなかった。

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