1-20 依存

 ◇◆◇◆◇◆◇


「繁村先生!」

 翌々日の朝、職員室に行くや否や、甲斐教頭が慌てたようにこちらに来た。

「何でしょう!?」あまりの慌てっぷりに繁村も辟易へきえきする。

「今朝、嶋廻さんから渡されましたよ!」

 教頭が手に持っていたのは一通の封筒。そこには『休部届』と書かれていた。裏面には『嶋廻愛琉』と書かれている。

 持って来てしまったか、という思いで顔をしかめた。想定していたと言えどアクションまでの時間が早いことに驚きを禁じ得なかった。相当、彼女にとってショックだったのだろう。


 教頭は、崎村監督との会話の内容を把握していない。2回戦の終了までいたが、その後は用事があったのか部員の皆に労いの言葉をかけて、早めに帰っていったのだ。

 そして、土日のどちらかは、過度な練習によるスポーツ障害や外傷を回避するため、休養日として充てるべし、という繁村自身の方針から、昨日は練習はなかった。

 教頭には次の月曜日に相談しようと思っていたところ、事情を知らない教頭への突然の『休部届』に驚いたに違いない。


 隠し立てして良いことは何もない。正直に昨日の顛末を話した。

 すべてを話し終えると甲斐教頭は口を開いた。

「先生は何も間違ったことをしていませんよ」

 意外だった。選手に休部届を出させたことをとがめられると思っていたからだ。

「しかし、愛琉は泣いて帰っていったんですよ」

「教育者が生徒に対して、将来の可能性としてより良いと思われる道を示すのは、当然のことです。それが本人の希望に添わないにしても」

「そ、そうかもしれませんが」

 教頭は言わずもがな教育者の立場で語る。確かにそうなのだが、このままでは本当に愛琉は部を去っていってしまうのではないかと、気が気でない。

「ただ、色々とタイミングが悪かったかもしれない。嶋廻さんは女子相手に気合いが入っていたでしょうが、いい結果を残せなかった。そんな中で先生が、もし毅然と北郷学園からの提案を断ってくれたら、と思ったんでしょうが、先生はすぐには断らなかった。それはひょっとしたら、嶋廻さんにとっては、監督に見捨てられた、と言っても過言ではないかもしれません」

「では、どうすれば……」繁村は頭を掻きながら問うた。

「焦っても仕方ありません。とにかくいまはそっとしておきましょう」

「それでは、本当に転校手続きを始めるかもしれません」

 繁村はいちばんの懸念を伝えた。

「そこまで焦る必要はないと思いますよ。いくら転校って言ったって、こんな中途半端な時期に一朝一夕で話が進むもんじゃない。形の上では編入試験だって必要になってくるだろうし、授業の進度や内容の調整だって簡単には行かない。しかも話を聞く限り、北郷学園でもスポーツ特待が適用できるのか協議中なんでしょう? あと、下世話な話ですが、清鵬館宮崎高校うちの授業料は日割り計算での返納はしていないので、月初めでの転校はないでしょう」

 教頭の回答は、どこか得心のいくものだった。確かにそうだ。高校の転校手続きはそう簡単なものではないと思われる。学期始めの転校ならまだしも、いまは10月初旬。中途半端な時期に、北郷学園としてもすぐに転入が可能なのだろうか。いくら、北郷学園の女子野球部が愛琉を求めていたとしても。

「わかりました。少し待ちましょう」

「まだここに出ているのは『休部届』であって『退部届』ではありません。少し冷静になれば、また部に戻りたいという気も起こってくるかもしれません。もし、本当に転校するという話になれば、私も嶋廻さんとの話に加わります。嶋廻さんが望めば、ですけど」

「ありがとうございます」

 やはり教頭は頼りになる。少し肩の荷が下りたような気がしたところ、教頭から一点、釘を刺された。

「残された部員のケアをしっかりお願いしますよ。部において嶋廻さんの役割は、想像以上に大きかったと思っています」

 それはまさしく同意するところだ。彼女の存在でいつも部は明るかった。野球が楽しそうにやっている。それはスポーツをする上で、もっとも大事なところだと思っている。かくいう繁村も、愛琉がいるときの練習は楽しかった。まるで現役時代に戻ったかのように。よって、選手たちのモチベーションの維持は、非常に大変なものかもしれない。

「そうですね。分かりました」

「お願いしますね。先生」


 ◇◆◇◆◇◆◇


「あれ、今日、愛琉はいないっすね」

「今日は事情があって来ないんだ」

「珍しいですね。初めてじゃないですか?」

 選手に対して嘘はついていないが、休部届を出してきた、とは言えない。皆勤賞だったのでいぶかるのも当然だ。休部届は受理はしているが、復帰は妨げない、というスタンスだ。

「そう言えば、一昨日の試合のあと、早く帰っちょったよな? 片付けもせずに」

「何かあったと?」

「さては、あいつ、男け?」

「あり得るな。黙っちょれば美人やかい」

 部員の男子たちの憶測が、事実と大いにかけ離れていることに、ずっこけそうになった。

「さあ、もう練習の時間だぞ!」繁村は選手たちに活を入れた。


 ◇◆◇◆◇◆◇


 そして嫌な予感は的中する。愛琉不在の部活の初日と2日目こそ、選手たちは普通に練習をしていたが、3日目くらいから徐々に気迫が失われてきたように見受けられたのだ。声も出ていないしエラーも多い。合同練習後に自主練をする部員も少ない。練習に遅れてくる部員だっている。そして、部員の中には愛琉の不在を心配する声やいぶかしむ声が聞かれた。

 繁村自身、練習中に何度も活を入れるも、一度失われた緊張や集中力は容易には戻らない。こんなにも如実に、チームのムードというものは悪化するものなのか。そして一人のチームメートの在否はこんなにも大きいものなのかということを痛感し始めた。

「監督!」

 練習後に声をかけてきたのは横山仁志だ。学年首席で入学し、無理矢理、愛琉に野球部に連れて来られ入部し、いまや部内では『参謀』としてその地位を築いている。しかし、そんな彼も練習では精彩を欠いていた。未だ守備は安定しないながらも、少しずつではあるが確実に上達してきたところだった。

「どうした? 横山」

「単刀直入に聞きますが、どうして嶋廻は来ないんでしょうか?」

 想定された質問だが、率直に尋ねられるとやはり答えにくい。

「それはだな。彼女にも事情があるんだ」

「そこを出来れば教えて欲しいんです。正直に言いますと、心配してるんです。部活に来ないのもおかしいですし、廊下で会ってもどこかよそよそしいんです。どう考えても、あの練習試合で何かあったとしか思えません」

「そうだな。でも彼女にも知られたくないことがあるだろう」

「そうかもしれません。実際に今日も嶋廻を見かけたんで、聞いたんですけど話してくれませんでした。まず元気がないんです」

 確かに1年F組に物理の授業をしに行ったときに愛琉がいたが、元気はなかった。横山は続ける。

「みんな、心配してます。青木も畝原も黒木も泥谷も……」

 もう隠しておくのはできないと限界を感じた。

「簡単に言うと、北郷学園の女子野球部にヘッドハンティングされたんだ」

「おお! あ、でも転校するんですか? それが部活に来なくなる理由になるんですか?」

「彼女も多感な時期なんだ。いろいろ心が揺れ動いている。俺としても、愛琉がこのまま男子野球部ここにいて才能を開花させる場がなく埋もれていくのはいかがなものかと思っている。それとなくではあるが、転校も視野に入れさせている」

「それは困ります」言下に横山は言った。「僕はアイツに絶対勝つって誓ったんです。アイツより上手くなるって。まだいまは勝ててないけど近付いているような気がするんです」

 横山は確かに上手くなった。後ろに逸らすことも少なくなったし、球際たまぎわも強くなった。そして、元来のコントロールの良さはそのままに、鋭い返球が出来るようになった。これも練習の賜物ではあるのだが、結構自主練習中に横山が愛琉にボールの投げ方のを習っていた。学校の勉強は横山が教えているらしいので、ギブ&テイクなのだが、とにもかくにも彼はめざましく成長している。一方で横山はチームの『参謀』であり繁村にとっては非常に大切な部員だ。最近ではすっかりその役割が定着しつつあるが、彼の負けん気がこんなにも強かったとは。さらに横山は続ける。

「監督さえ許して頂けたら、僕が嶋廻に話しに行ってもいいですか?」

「え?」

「もし本気で嶋廻が転校することを監督が望んでいたらやりません。でも、僕はまだ嶋廻に勝ってないし、いろいろ教えてもらいたいことだってあるんです! 僕は部活にアイツがいないと嫌なんです! 監督は嶋廻がいなくてもいいんですか?」

「お、俺だって、愛琉にはいてもらわなきゃ、こ、困るんだ」

 思わず本音が出てしまった。愛琉の不在は明らかに部に悪い影響を及ぼしているが、それ以上に繁村の指導に熱が入らない。率直に、楽しくないのだ。

「じゃあ、俺、さっそく嶋廻と話してきますから」

「……」

 教頭は待ちなさいと言ったが、部員の方が耐えられなかったようだ。すっかり部員たちも繁村も愛琉にしてしまっていたようだ。

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