09 マスクマン

 まだ例のウィルスが世界中に広まる前のこと。

 俺の大学の同級生に、〝マスクマン〟というあだ名の男がいた。

 つけていたのは、当時としては何の変哲もない白いガーゼのマスク。入学当初は俺も周囲もきっと花粉症なんだろうと流していたが、春が終わり、夏を過ぎ、秋になってもその男は、一日たりともマスクを外したことはなかった。つまり、その男は俺たちの前で飲食したこともなかったのである。

 どうしていつもマスクをしているのか。俺たちの間で熱い議論が交わされたが、最終的に本人に直接訊いてしまったほうが早いということになり、同級生の一人が代表してその男に訊ねた。マスクを外さないこと以外は至って普通のその男は、このマスクがないとこうして話もできないからだよと苦笑して答えた。

 ということは、あの男は対人恐怖症で、マスクをしていれば日常生活が送れるということか。

 奇っ怪だが、世の中にはそういう人間もいるだろう。ひとまず俺たちは納得し、マスクはその男の顔の一部と考えることにした。しかし、クラスの中に一人だけ、どうしても〝マスクマン〟の素顔を見たいと言ってきかない奴がいた。

 不幸にも、そいつは金持ちの馬鹿息子で、下僕のような取り巻きたちもいた。運命のあの日、哀れな〝マスクマン〟は講義が終わるやいなや取り巻きたちに包囲され、にやにや笑う馬鹿息子の前で無理やりマスクを剥ぎ取られた。

 マスクのない〝マスクマン〟は、やはり至って普通の顔をしていた。だが、マスクを取られるまではあんなに必死に抵抗していたのに、取り巻きの一人にマスクを取り上げられた途端、ぴたりと動きを止めてしまった。


「何かしゃべってみろよ」


 馬鹿息子が嘲るように言った次の瞬間、〝マスクマン〟の声はあらぬ方向から返ってきた。


「そいつは無理だ。しゃべれるのは俺だからな」


 取り巻きが、ぎゃっと叫んで空中にマスクを放り投げた。それが床に落ちる前に、〝マスクマン〟が右手を伸ばして掴みとる。しかし、表情はなく、動きもどこかぎごちなかった。


「というか、俺のほうが本体なんだよ。まったく、ガキみたいな真似しやがって」


 そう愚痴る声は間違いなく〝マスクマン〟のものだったが、〝マスクマン〟の厚ぼったい唇はまったく動いていなかった。ゆっくり右手を広げ、皺だらけのマスクを裏返して馬鹿息子のほうに向ける。


「とりあえず、今日限りで退学する。ここにいたんじゃ、いつ殺されるかわからない」


 白いマスクの内側に生えていた薄い唇は忌々しげに言い捨てると、〝マスクマン〟の手によって定位置に戻り、悠然と教室を出ていった。

 その後、〝マスクマン〟は宣言どおり退学した。が、あの場にいた人間は、俺も含めて全員マスク恐怖症になった。

 しかし、今やマスクをしない人間のほうが排斥されるご時世だ。俺たちは毎日マスクに怯えながら、いつ終わるともしれない地獄の日々を送っている。

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