08 メービウス

 ――疲れたんだ。


 ひとは言った。

 そうして、さびた手すりに手をかけ、それをまたぎ――

 落ちた。

 俺は何もできなかった。

 ただ阿呆のようにその場に立ちつくしていた。

 すぐに下のほうでグシャッという嫌な音が響いた。

 女生徒たちの甲高い悲鳴。ざわめき。

 やがて、救急車のサイレンも俺の耳に届いた。

 それでも、俺は日当りのいい屋上で、呆然としていた。


 ***


 真人は立ち読みをしていて、急にうずくまってしまった。

 立ちくらみでもしたのかと思いきや、真人は両目を片手でおおい、声を殺して泣いているのだった。


 ――立てよ。みっともない。


 周囲の目に、俺はあわてて真人の手を引っ張った。


 ――最近、涙もろくて。


 そう言うと、真人は素直に立ち上がった。

 俺は真人が今まで読んでいたらしい中古のマンガ本を見た。

 ギャグマンガだった。


 ***


 二学期が始まった頃から、真人の様子はおかしくなった。

 以前から神経質なところがなかったわけでもなかったが、少なくとも、今の真人ほどではなかった。

 ひどく憂鬱そうで、学校も休みがちになり、学年でも常時十番以内に入るほどの秀才だったのに、一気にランキング外に落ちた。

 何かあったのかと訊いてみても、真人は曖昧に笑って、首を横に振るばかりだった。

 俺も気にはなっていたが、次々と矢継早にやってくる秋の行事のハードルを越えるのにかまけていて、深くは追及しなかった。


***


 ――くだらない。


 真人はまた、いらだたしげに呟いた。


 ――何が?

 ――みんな……さ。


 皮肉そうに口を歪めて、真人は笑った。


 ――どうせさ、生まれてきたからにはいつかは死んじまうのにさ、どうしてこんな苦労して、こんな勉強なんかしなきゃならないんだ? それなら楽に死ねる方法でも考えたほうがずっといい。そうは思わないか?


 俺は何も言わなかった。いや、言えなかった。


 ――本当にくだらない。学校も家も俺も。


 真人は頭を抱えて、狂ったように髪をかきむしった。


 ――やめろよ。おまえ、疲れてるんだよ。


 いたたまれなくなって、俺は真人の手を押さえた。

 真人はスロー映像のように顔を上げ、俺を見た。


 ――そうか。俺は疲れてるのか。


 ***


 ――おい、屋上は立入禁止だぞ。


 階段掃除の手を休めて、俺は上にのぼっていく真人を呼び止めた。


 ――だって、開いてるぜ。


 真人はきかなかった。


 ――いい天気だ。隆史たかふみも来いよ。気持ちいいぜ。

 ――……そうか。


 好奇心に突き動かされて、俺は真人の後に続いた。

 屋上は、まるで温室のように暖かかった。


 ――こんな日は、大掃除なんかしてないで、昼寝でもしてたいよなあ。


 俺はほうきを持って背伸びした。

 真人は校庭を見下ろしていた。


 ――どうかしたのか?

 ――いや……


 静かな表情で、真人は軽くかぶりを振った。


 ――疲れたんだ。

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