第8話 山本香澄(3)

 誰にも会いたくなかったから、葬式を開かなかった。

 ただ、会社に「娘と夫が事故死しました。休みます」とだけ伝えた。

 電話の向こうは「え?」「山本さん? それってご不幸ってことですか?」「忌引きですか?」って言われてたような気がするけど。

 ちゃんと答えたか分からない。

 何かを答えて、電話を切っていた。

 その後、追加で電話が無かったから、多分問題なかったんだろうと漠然と考えた。


 葬儀と呼べるものは、直葬のみ。

 書類だけ書いて、火葬してもらった。


 あまりにも酷い状態の二人を、そのままにしておきたくなかったから。


 告別式とか、通夜とか。

 そんなのやってない。


 祭壇だけ設けて、そこに二人を安置した。

 娘には、誕生日プレゼントに贈るはずだったランドセルを供えた。

 外に、玄関ドアに忌中札というやつだけ、貼った。


 やった葬式らしいことは、直葬と、それくらいだった。


 だって、何もやる気力が無かったから。

 そんなことをするよりも。

 遺骨になった、最愛の、娘と夫。

 二人と、一緒に居たかった。


 何時間でも、何年でも。


 喪服を着て、部屋で一人、二人と過ごした。


 私をママと呼んで甘えてくる小さい手は、もう無い。

 ベタベタ引っ付いてくれたりもしないんだ。


 赤ちゃんのとき、多分嬉しいと感じたときに、手足をばたつかせるの、可愛かったなぁ。

 この子、どんな大人になるんだろう。

 それを、啓一と話して、楽しかったな。


「澄子が結婚するとしたら、啓一はどうするの?」


「相手の男だけはよく吟味するよ。で、本気で澄子を大切にしてくれると疑いが無いなら、反対しないけど……多分泣くね」


 あの人も、澄子に劣らず可愛かったよ。


 啓一……


 僕らの両親が出来なかったこと、一緒にやっていくんじゃ無かったの? 

 どうして、どうしてよ。


 神様、これ、絶対間違いです。

 こんなこと、ありえません。


 二人を……娘と夫を、返してください……。


 涙がこみ上げるたびに、声をあげて泣いた。


 これから先の未来なんて、想像できなかった。


 電話が鳴った。

 啓一の会社からだった。


 夫が無断欠勤したと思われていたらしい。


 あ、そっか。

 ちゃんと連絡してなかったっけ。


 ぼんやりと考え、事実を伝えた。


 電話の向こうが大騒ぎになった。

 まるで機械のように、聞かれたことを答えて、電話を切った。


 ……あ。

 保育園にも、言っとかなきゃ。


 啓一の件で、そこに思い当たった。


 私は澄子の保育園に電話を入れた。

 大騒ぎになった。


 ……煩いわよ。


 煩わしくなってきた。

 怒鳴りつけてやりたかったが、それは寸前で堪えた。


 理性は、まだ残ってたみたい。



 その後、何時間、何日そうしてたか分からない。

 本当に部屋に居る機械のように過ごしていた。


 あるとき、インターホンとドアを叩く音。

 そして「山本さん! 山本さん!」と叫ぶ、見知った声。


 徹子ちゃん……


 徹子ちゃんが、忌中札に気づき、訪ねてきてくれた。


 さすがに、出た。

 彼女には、事実を知る権利がある。


 それは何の疑いもなく、そう思っていたから。


 部屋に上げて、二人の遺影を見たとき。

 彼女は、泣いてくれた。


 私も一緒に泣いてしまった。


 もう、何回目になるか分からないけど。




 その日の晩だ。

 私は、そのときのことを一生後悔する。


 部屋の通話機器が、来客を伝えていた。

 エントランス前に、ウチを訪ねてきている人物が来ていると。


 モニタを見た。


 上司の、根鳥課長だった。


 ……上司が、お悔やみに来た。

 さすがに、応えないわけにはいかない……


 そんな思いが働いて。

 私は、彼を家に上げてしまった。




「今回は、辛かったね……」


 祭壇に手を合わせてくれた課長は、私にそう言ってくれた。

 私は、力なく頷いた。


「こんなことを言っても、何の効果もないだろうけど……気を落とさないで、頑張ってほしい。キミのご家族も、きっとそう望んでいる」


 それだけ言って、彼は立ち上がった。

 さすがに、来客を、上司をそのまま返すわけにはいかない。


 見送るために、玄関まで歩いて……


 廊下で、いきなり振り向かれて正面から抱きしめられた。


「課長!?」


「……こんなときに言うのはどうかと思う……でも、キミのそんな酷い状態を見て、今、言わないわけにはいかない!」


 私を抱きしめている課長は、そう私に訴えかける。


「……これから、僕がキミを支える。絶対に、キミを幸せにしてみせるから!!」


 僕の、妻になってくれないか? 


 情熱が籠っていた。

 それだけは分かった。

 心には響かなかったが。


 その彼の手が、私の尻や太腿、首筋に回ってきたとき


 彼が何をしようとしているのか、分かってしまった。


 でも


 私は、抵抗しなかった。拒否しなかった。


 ……現実逃避したかったから。

 セックスという行為に逃げて、この辛い状況を一時でも、忘れたい。


 そんな、見下げ果てた、自分勝手なことを考えていたのだ。

 後で、それを文字通り死ぬほど後悔することになるのに。


 私はそのまま押し倒され。

 身体をまさぐられた。




「それじゃ。山本さん。また近いうちに会社で。こっちは頑張る。気持ちの整理がつくまで、無理に出社しなくていいからね」


 課長はそう言い残し。

 身を整えて、出て行った。


 バタン。


 ドアが閉まった。


 私は廊下に身を投げ出していた。


 私は課長に抱かれた。

 どう抱かれたのか、あまりよく覚えていない。

 何回か、絶頂に達してしまったような記憶があった。


 気が付いたらこうなっていた。


 乱れた着衣。


 シャツの前を開けられ、むき出しの裸の胸。

 スカートとパンツを脱がされた下半身。


 そして。中身の入ったゴム。


 どうやら、課長は避妊してくれたらしい。


 ……啓一以外の男に、抱かれちゃった……


 なんだか、自分がとても卑しい女に思えた。

 何でそんなことをしたのか、今なら理解できたから。


 セックスという快楽に溺れている間は、澄子と、啓一の死という事実から逃げられる。


 ……なんて愚かなの……


 正直、自分の事、賢い女だと思っていたことがある。

 勉強で苦労した覚えはないし、奨学金だって余裕で取れたから。


 でも、違った。

 本当の私は、現実逃避でセックスに逃げてしまうような、弱くて、頭の軽い女なんだ……


 激しい自己嫌悪を感じ、その場で着ているものを全部脱ぎ捨てて、浴室に飛び込んだ。

 自分の愚かな痕跡を、洗い流したかった。


 徹子ちゃんは言った。


『アタシの母親、恋に溺れてアタシたちを裏切って、家を出ていきました』


 聞いたときは、最低の母親だ、母なのに何が恋だ! ときめきだ! そんなの、結婚した時点で捨てるべきものよ! 

 それができない女は、結婚するな!! 

 そう、憤っていたけど。


 ……大差ないじゃない。

 私も、徹子ちゃんの母と一緒よ……


 熱いシャワーを浴びながら、私はまた、泣いていた。

 これまでの涙と違い、後悔の涙だった。




 次の日。

 私は出社した。


 仕事をしに行ったわけじゃない。


 実際、この日は有給休暇を取得していたはず。


 でも、会社に置いている家族の私物を、撤去したかったんだ。

 これからどうなるか分からないけど、まず、会社から家族を取り去ろう。

 澄子の写真とか、啓一がくれたマグカップとか。

 そういうの、全部家に置こう。


 そうすれば、会社では仕事人間に変貌できるかもしれないし。

 そうなれば、何か変わるかも。


 昼休み時間中に、営業部のオフィスに入る。


「あれ? 山本さん? 今日、お休みでは? あ……この度は、ご愁傷さまです」


 後輩の女の子が、私を見てそう言ってきた。

 気遣いが伝わってきて、申し訳なくなった。


「ええ。ごめんね迷惑かけてるわ。ちょっとね、私物を持ち帰りたくて……」


 ちらり、と課長席を見た。


 空席だった。


 おや? 

 課長、お昼はいつもデスクで食事してるわよね? 

 サンドイッチとか、そんな、軽いやつを。


「課長は?」


「ちょっと、すごく個人的な話するから、研究棟の屋上に行く、って言ってました」


 ……ひょっとして。

 私が彼の奥さんになるとか、思いこんでるのかもしれない。


 で、ご両親に報告しているのかも……


 それは、まずい。

 私は再婚する気なんてこれっぽっちも無かったから。


 私の夫は、生涯啓一ただ一人。

 昨日、布団に入った時、やっぱりそう思ったから。


 研究棟の屋上は、一応立ち入り禁止。

 施錠はされていないのだが。


 だからまぁ、他人に聞かれたくない個人的な話をするときは、うってつけの場所だった。


 もし誤解しているなら、まずい。

 はやく、私の気持ちを伝えないと! 


 私は駆け出していた。



 屋上に通じるドアの前まできて、ノブを握った。


 ……鍵が、かかっていた。

 外から施錠されている。


 ……徹底してるわね。


 私は、次の手を考えた。


 ドアを叩いても、そもそも内緒の会話なのだから、応じてくれるとは思えない。

 だったら……


 屋上の下の階は、大ホールになってて。ベランダがあった。


 社員集会、大会議で使う大ホールだ。


 で、ベランダは屋上と距離的には相当近い。

 そこで大声を出せば、屋上に伝わるかも……


 私は階段を降り、大ホールに入った。

 誰も居ない。


 集会も、大会議も予定されてないらしい。


 ベランダへの窓を見る……


 都合がいいことに、ひとつ、開いてて


 そこから、課長の声が聞こえた気がした。


 ……居る! 


 私はベランダに出た。

 ベランダに出ると、確信した。


 ここの真上に、課長が居る! 


 声がはっきり聞こえたから


 根鳥課長! 


 そう、いいかけたが


「うん……ありがとうな。害虫退治2匹、助かったわ」


「おかげさんで、イケそうだよ。ヤレたし。まぁ、キスは拒否されたのが引っかかるけど、時間の問題だろ」


「避妊……? もちろんしたよ。今、孕ませたらどっちの子かわかんないじゃん」


「ああ、無論スゲー高いのを準備したさ。だから彼女の腹がでかくなったら、今は確実に害虫の子」


「そんときは、また、よろしくな。もつべきものは友達だよなー。結婚式には来てくれな」


 え……? 


 害虫……? 2匹……? 

 避妊……? ……やれた? ……結婚? 


 声をあげる直前に聞こえてきた言葉に。

 真実が、見えてしまった。




 気が付いたら、家に戻っていた。


 そして、二人の祭壇の前で座っていた。


 あの事故、事故じゃ無かったんだ……

 やったのは、根鳥課長。

 誰かに頼んで、二人を殺したんだ……


 私を、ひとりにするために。

 そして、自分の妻にするために。


 あいつは、二人の仇だったんだ……


 二人の仇のくせに、ぬけぬけとこの家に上がり込んで、この祭壇に手を合わせて……


 心ではほくそえんでいたに違いない。


 ……許せない……


 そして……


 私は、そんな相手に、知らなかったこととは言え、抱かれてしまった……。


 ああ……


 あああああああああ!!!! 


 頭を抱えて叫んでいた。

 こんなの、絶対許されない!! 


 夫と娘を殺した相手と、交わるなんて!! 


 二人が……二人が私を責めている!! 

 ごめんなさい、ごめんなさいいいいいいいい


 死んで! 死んでお詫びしなくっちゃ!! 


 台所に飛んだ。

 そして、包丁立てから柳刃包丁を取り出した。


 家で肉を切るときに使う、切れ味が特に鋭い逸品だ。

 堺の職人が作った、日本刀を思わせる高級品。


 これなら頸動脈を一気に切れる! 


 荒い息で私は包丁の刃を首筋に当てた。


 涙がポロポロ溢れてくる。


 私は、死ななければならない。

 許されない裏切りをしてしまったから。


 でも……


 あの男は、私が死んでも、目当ての女が勝手に死んだ。畜生、くらいしか思わないんだろうな。

 で、また別の女を探すに違いない。


 何の反省も、後悔もすることなく。

 下劣な欲望で、私の家族を壊しておいて。


 ……そんなの、もっと許せない。


 でも……


 あんなわけのわからない事故で人を殺せる人間が、あの男の仲間なんだ。

 私なんか、どうあがいても返り討ちだ。


 聞いたことを警察で証言しても、証言だけで逮捕できるほど、世の中甘くない。


 打つ手、無いじゃない……!! 


 悔しい……悔しいよ……! 


 台所の床にペタンと尻を落とし。

 カラン、と包丁を投げ出して。


 私は顔を手で覆って泣き出した。


 夫と娘の仇も討てず、このまま死ぬしかない自分……


 こんなの、絶対におかしい! 

 誰か、誰か助けて……!! 


 そのとき。


『……その恨み、本物か?』


 声が、いきなり聞こえてきた。


 え……? 


 周囲を見回す。


 居た。


 二人の祭壇の上に。

 黒い、靄のようなものが。


『山本香澄……その恨み、本物かと聞いている……』


 靄のようなものには、顔がついていた。

 靄で出来た口で、私にそう語り掛けた。


 ……そういえば、寝る前に都市伝説でも見ようと思って。

 サイト巡りしていたら、読んだことがあった。


 地獄に通じるほどに深い憎悪を抱いた人間は、魔界とこの世を繋げて、魔物を呼び出すことがある、って。

 魔物は、対価を要求し、対価と引き換えにその恨みを晴らす、そういう噂。

 馬鹿な噂、そう思っていた。そんなことあるわけないって。


 あれ、本当だったの……? 


 こんなの、相手絶対人間じゃない……! 


 私は状況を把握し、心を決めた。

 靄に歩み寄って、答えた。


「はい。本物です。……夫と子供の仇をとってくれるんですか?」


 この魔物に、お願いしようと。


『ならば、対価を出せ』


 魔物は、言ってきた。


 来た。

 やっぱり、本当なんだ……


「はい。命ですか? ならばここで今首を……」


『違う』


 え? 


『……金だ。いくらでもいい。ただし、本気を感じない場合は、この話は、無しだ』


 金? 

 お金でいいの? 


 お金なら、いくらでも出すわ!! 


 だって、こんなのいくらあっても幸せは買えないじゃない!! 


 全く躊躇いは無かった。


 澄子の学費と、私たちの老後のために、貯金していたお金。


 通帳を差し出した。

 印鑑と一緒に。


「……1500万円あります。これで、お願いします」


『その恨み、承知した。確かに承った』


 靄は消えた。

 通帳と、印鑑と一緒に。

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