第7話 山本香澄(2)

 会社帰りに私は澄子を保護してもらったお礼に、百貨店で贈答用ゼリーを買った。

 急遽お礼というと、それが一番適当ではないかと思ったから。

 ゼリーが嫌いな人間は多分居ないはず。


 啓一の飲み会のせいで、普段は保育園に澄子を迎えに行くのは彼の役目なのだけど、今日は事前に彼に連絡を入れてもらって、私が迎えに行くことになっていた。


 ……最近は離婚調停時にどさくさに紛れて我が子を連れ去る自分勝手な親が居るせいで、事前連絡を入れないと、保育園側もいきなり行っても子供を引き渡してくれないらしく。

 面倒。でも、仕方ないのよね。巻き込まれる子が可哀想だわ。


 道中で百貨店を通るので、素早くお礼のゼリーを購入する。

 自分でも食べたことがあり、実績あるものを素早く選んで、娘を迎えに行った。

 お礼のスパン、本日中で済んだから良かった。

 普段はそんなに早く帰れないから、今日中に済ませたかったのだ。


 忘れた頃にお礼されても、お礼された本人も嬉しくないはずだし。

 こういうのは早ければ早い方がいいはず。


「ちょっとママ、朝のお姉ちゃんにお礼言ってくるから」


 時間帯は夕刻。

 そろそろ夜に差し掛かる時間。


 家に着いて澄子に留守番をお願いし、私は隣にお礼を持って行った。


 ……居るよね? 

 誰も居なかったら、問題です。


 あの子は居ないかもしれないけど、ご両親どちらかくらいは……


 まぁ、もし居ないなら。


 その場合、お礼のお手紙を書いて、ドアノブに吊るしておこうかしら。

 出来れば避けたいけど。いい加減な印象が拭えないし。


 インターホンを押した。


「はーい」


 幸い、居た。


 出てきたのは朝の子。

 相変わらず、可愛かった。


 ……ご両親は居ないのかな? 

 ふと、思った。


 何か、事情がある子なのかもしれない。

 ひょっとしたら、ウチ同様共働き両親なのかもしれないが。


 でもまぁ、確認するのは失礼なのでそこで考えるのを止めた。


「あまり高くないから申し訳ないけど。ありがとうね」


 ゼリーをその子……徹子ちゃん……に差し出した。

 徹子ちゃん、嬉しそうだった。


「ありがとうございます。そうだ……!」


 ちょっと待っててください。

 言って、トントントンと奥に引っ込んでいって。


 戻ってきたら、タッパーを抱えていた。

 かなり大きく、中に何か煮物のようなものが入ってる。


 アタシが作ったおでんです、そう言った。


「作り置き用に大量に作ったやつですけど、良かったら」


 ……この子、自炊してるの? 

 本当、しっかりした子ね。


 見た目で判断するの、良くないわね……。


 きっと、髪を染めてるのは何か深い事情があるのよね。そうに違いないわ。

 澄子も「いっしんじょうのつごうでそめてるから、すみこは真似するなって言われた」って言ってたし。


「その年齢でしっかり自炊してるの? ご両親は?」


「ウチ、母親居ないんで。父親は今は仕事の事情で遠くで暮らしてます」


 そう、別段辛そうもなく、特殊な事情を言ってくる。

 多分、複雑な事情があるんだろう。掘り下げるのは失礼だ。


「そんな事情で、出来合いに頼らず、全部自分で作るなんて……しっかりしてるのね。偉いわね」


 おでんだけ作ってご飯炊かないとか無いと思ったから、素直に私は彼女を褒めた。




 次の日の夕食に、私は食卓にあのおでんを出した。


「え? おでん? いつ作ったの? 出来合い?」


 最近の我が家の料理履歴に無い品だったので、啓一はそう私に尋ねてきた。


「お隣の、多分女子高生の子が作ったの。ちょっとお世話になったからお礼しに行ったら、くれた」


「へぇ。しっかりした子なんだなぁ……」


「そうよね。偉いわよね」


 と、二人で彼女を褒めながら、おでんを口にしたら……


 すごく……美味しかった。

 こんなの。お店でもお目にかかれない。

 これで屋台を出せば、きっと行列が出来る。

 そのくらい、美味しかったのだ。


 ビックリした。


「……ちょっとこれ、美味しすぎない?」


「……私史上、最高のおでんだわ」


 二人して、黙った。


 食事で感動したの、はじめてかもしれなかった。


「……あのさ」


 啓一が口を開いた。


「香澄ちゃん、このおでんの作り方、教えてもらってきてくれない?」


 本気の顔で、啓一が私にそう言ってくる。


 そして、ガシッ、と私の手を握って


「本来なら僕が習いたいところだけど、女子高生だろ? こんな30過ぎのオッサンがそんなの言えば、即逮捕だろ。だから、お願い。だめ、かな?」


 彼は、今度、家呑みするときに、香澄ちゃんと一緒に食べたいんだ、と続けた。


 ……確かに。これだけ美味しいおでんはお酒が欲しくなるところ。

 呑むときに、自分たちで作れるなら、こんなに嬉しいことは無いわけで。


 ……ここは、一肌脱ぐしかないわね。

 頼むだけ頼んでみましょ。拒否されるかもしれないけど。


 私は、わかったわ、と答えた。



 そして週末にお願いしに行ったら、快くOKしてくれて。

 最初レシピだけ教えてもらうつもりだったのに、実演までしてくれると言ってくれた。


 どんだけ良い子なの。


 私はこの隣人の女の子に、ますます好感を持った。


 習う側としては、手を抜くわけにはいかない。

 技術職時代を思い出し、実演内容を何一つ観察し残すまいと準備して臨んだ。

 スマホよし。メモよし。


 ……研究者時代は、ひらめきと観察眼はなかなかだなとお褒めの言葉を主任研究員に貰ったことだってあるんですから! 



 いざ、実演に臨んでみると驚きの連続で。

 私たちの台所事情がどれだけ未熟だったのかを思い知らされるハメに。


 なんという恐ろしい子。

 使ってる道具はアナログなのに、あんな味を叩き出すなんて。


 この少女……佛野徹子ちゃんの底に知れなさに、唾を飲み込んだ。



 そして。

 煮込み等の待ち時間になると、二人してお喋りした。

 テーブルを挟んで。


 私は、自分たち夫婦のこと。

 彼女は、自分のこと……。


 いや、ちょっと違うかもしれない。

 一方的に、家族の話になった時、私が彼との馴れ初めやらこれまで辿ってきた歴史の一部を話したとき。

 ついうっかり、彼女にも話を振ってしまったんだ。


 悪いことをしたと思ってる。

 多分、わけありなんだろうな、って予想してたのに。


 自分が啓一と本当に恋人として付き合うようになったのは中学の時で、そこの話からうっかり「徹子ちゃんは彼氏とはどういう感じなの?」って聞いてしまったのがいけなかった。

 最初に会ったとき、デート衣装だったから、デートしているなら彼氏は当然居るはず、って漠然と思ってて。


 聞かれた瞬間、彼女の顔が強張った。


「……アタシ、彼氏居ません。というか、作る気全くないです」


 へ? と思った。

 そしてうっかり「どうして?」って聞いてしまった。


 理由のタチなんて、予想はついてたはずなのに。

 馬鹿だったわ。


「……アタシの血が、汚れているからです」


 彼女は、言い辛そうだった。


 ポツリ、ポツリと話して、教えてくれた。


 彼女の母親の話を。


 彼女の母親は、よくモテる女だったらしい。

 彼女の父親は、そのときに彼女と付き合っていた男のうちで、一番経済力のある男性で。

 母親曰く「真面目一辺倒で、面白くないけど、金だけは良く稼いでくるからね」だったらしい。


 でも、段々それでは我慢できなくなったらしく。


 あるとき、外に男を作って、恋という名の欲望を追いかけ、自分たちを裏切って捨てて行ったらしい。


「アタシは、そういう、自分の欲望に忠実で、誠意や義理、責任という言葉からかけ離れた、汚れた最低の人間の血を引いているんです」


「だから、恋愛なんてしちゃだめなんです。きっと、同じことをするに決まってるから……」


 酷い……! 


 私は彼女に同情した。

 彼女の責任じゃないのに、そんな業を背負わせるなんて。


 彼女の母親は、確かに最低だ。

 家族を持ったら、自分の動物的欲求は抑えなきゃいけない。

 そんなの、当たり前のことのはずなのに。


 そんな当たり前のことができない、最低の人間が世の中には居る。

 彼女はその犠牲者。

 本当なら、もっと人生を謳歌できる子のはずなのに……


 可哀想で、ならなかった。


「……なーんて」


 彼女は、笑った。


「すみません。自分の中ではとっくに折り合いついてる話なんですけど、ついうっかり、マジになっちゃいました!」


 無理に明るくしているようで、何だか、痛々しくて。


 思わず、近寄り、彼女を抱きしめた。


 彼女は、ハッとしたようだった。


「……アタシ、できることなら山本さんの家の子に生まれたかったですよ」


 そういった彼女の目は、とても悲しかった。



 そこから一気に仲良くなっていった気がする。

 おでん以外にも、色々なレシピを教えてもらった。

 そのどれもが、抜群に上手かった。



 私たち一家に、徹子ちゃんという新しいピースが加わった。

 幸せに、加速がついた気がしたんだ。


 でも。


 その日が、無情にやってきた。



 保育園に澄子を迎えに行ってくれた啓一と合流し。

 駅前のケーキ屋で、ケーキを受け取り、帰宅する予定だった。

 その日、澄子の誕生日だったから。


 誕生日プレゼントは、ランドセル。

 そんなの、どのみち買うから他のにしなさいと言ったけど「これがいい!」って言って聞かなくて。

 しょうがないからそうなった。


 ケーキ屋と横断歩道を挟んで、向かいの道に車を停めた。


 ケーキ屋を見る。

 さっき連絡で「ケーキ屋についた。受け取ったら迎えお願い。香澄ちゃんはもう着いた?」って来てて。

「着いたよ。待ってる」と返した。


 しばらくすると、ケーキ屋から二人が出てきた。

 私は手を振った。


 ここよ、と。


 二人が気が付いて、横断歩道に差し掛かった。


 信号は、青だった。


 確かに、青だったのに。


 一瞬、何が起きたのか分からなかった。


 ものすごい速さの巨大な塊が、二人を撥ね飛ばした。


 それが、信号無視で横断歩道に突っ込んできた、トラックだと気づくのに数秒必要だった。


「事故だ!」「人が撥ねられたぞ!」「救急車!」


 目の前に、人の形に近いものがある。

 ちいさなものと、それなりにおおきなもの。


 木っ端みじんになったホールケーキ。

 見覚えのある、服。


 白いあれは、脳みそ? 


 あれは、眼球? 


 散らばってるのは、歯、かしら? 

 それとも、頭蓋骨の欠片? 


 ……誰の? 


 ……ねぇ、一体、誰の? 


「あ……!」


 喉の奥から、声が漏れてきた。


「ああああああああああああああ!!!」


 私は、ハンドルを握ったまま叫んでいた。

 獣のように。


 泣きながら。

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