第三章〜帰ってくる〜

 終わったー!!!

 ついにだ。ついに。ついに、宿題を終わらせた。戦いが終わったのだ。とても長い、苦しい戦いだった。お兄ちゃんが帰ってくるまでに終わらせることができてよかった。お兄ちゃんが帰ってくるのは明日だ。


 翌日、お兄ちゃんが帰ってくる日。

 待ちに待った、この日。私は、通学でいつも使う駅の前で、お兄ちゃんを待っていた。お婆ちゃんと一緒に。

「もうちょっと、家にいてもいいんじゃない? まだ、二時間もあるよ」

「いい。家で待っているだけじゃ、焦ったくて嫌だし、二時間早く着くかもしれない」

 私は、そう言って、お兄ちゃんが来るまで待っていた。

 

 しかし、待っても、待っても、電車は来ない。そういや、この田舎村じゃ、電車の数もかなり少ない。だから、途中で、関係のない電車さえも来ない。今、思ったが、電車の数の少ない田舎村は、電車の来る時間帯も限られる。だから、どう待っていても、電車が来るのは二時間後と決まっている。焦ったいのは変わらないのでは。それなら、家でテレビでも観ていればいいのではと思った。その通りだと思った。

「一旦、帰ろう。お婆ちゃん」

「そうだね。電車なんて、滅多に来るものじゃないから」

 結局、私は一時間三十分を家で過ごした。


 もうそろそろ、電車が来る。お兄ちゃんが帰ってくる。……彼女を連れて。いったい、どんな人なんだろう。でも、まだ、十何分くらいはある。早く来ないかなぁ。本当に焦ったい。焦ったすぎて、そこら辺を歩き回った。しばらくして、遠くの方から音がした。電車の音だ。兄ちゃんが帰ってくる。やったあ!

 電車は、駅に到着する。車両が一つしかないワンマンだ。停車した電車のドアが開き、乗客が降りてくる。それも、一人、二人。

 その、一人、二人の乗客こそが、

「わぁ! お兄ちゃんだー!」

 お兄ちゃんと、もう一人、女の人。あの方が例の彼女さん。

 私は、お兄ちゃんに手を振った。お兄ちゃんも、それに気づいて振り返してくれた。そして、お兄ちゃんたちは、駅を抜けた。

 私は、すぐさまお兄ちゃんのもとへ駆けつけた。そこで、何かナイスなことを言ったらとてもよいワンシーンになるはずだが、何を言えばいいのかわからず、止まった。すると、お兄ちゃんの大きな手が、私の頭に優しく置かれた。

「ただいま、八海。宿題はちゃんとやってるか?」

「おかえり、お兄ちゃん。宿題はとっくに終わってるよ」

「珍しいな。八海が早いうちに宿題を終わらすなんて」

「ナメてもらっては困りますー。私もやればできるんだから」

 ふと気になった。お兄ちゃんの彼女。私は、ひょっこり顔を出して、お兄ちゃんの後ろにいる女性を見た。

「あぁ、紹介するな。彼女は萌絵もえ。前に言った俺の彼女」

「よろしくね」

 優しい笑顔で手を振る彼女、萌絵さんは、よく見る感じの女の子で、ミディアムヘアで、服装も至ってシンプル。清楚せいそ派なのだろう。アイドルグループにいそうな可愛かわいらしい方。

 私は、お兄ちゃんから離れた。

「おかえり、ようちゃん。みんな、帰ってくるのを楽しみにしてたんよ」

「ありがとう、お婆ちゃん」

 私たちは、家に戻った。お兄ちゃんが帰ってくることは、この地域中に広まっているため、すれ違う人たちは、皆、足を止め、私たちに声をかけた。

お婆ちゃんと仲の良い年配の夫婦は、

「陽助、帰ってきたんか」

「大きくなって」

「可愛い子連れてるしな」

 などの声をかけられた。お婆ちゃんも、お兄ちゃんのことを、自信満々に周囲に自慢していた。まるで、著名人が、地元に帰ってきたかのようだ。萌絵さんも、

「すごい人気だね」

 と、驚いている様子だ。まぁ、当然の反応ではある。こんな盆地村じゃ、若者はスーパーアイドルだからね。

 

 たくさんの人に声をかけられ、たくさん足を止めたため、予定よりもかなり遅い時刻に家に着いた。

「さあさあ、上がって、上がって」

 まごが帰ってきてとても嬉しいのだろう。さっきからお婆ちゃんは、テンションが上がりまくりだ。

 家に上がると、全員が茶の間に行き、お兄ちゃんカップルと私とお婆ちゃんで対面した。ほんのり緊張感があった。

 まず、お兄ちゃんが口を開く。

「お婆ちゃん。こちらが、お付き合いすることになった、萌絵さん」

十路そじ萌絵です。よろしくお願いします」

 彼女は、清楚で、礼儀もしっかりしていそうな印象を持った。綺麗な方だ。

「『十路そじ』さんって、珍しい苗字だね」

 確かに。読み方も特殊だ。『十路』と書いて『そじ』と読む。

「はい。それで、結婚を前提にお付き合いをしているんですが、その時の苗字は、私の苗字にしたいと思っています」

 え! もう、結婚の話になってるの⁉︎ そして、お兄ちゃんの苗字が変わる⁉︎ どういうこと?

「つまりは、俺が婿むこ入りするってこと」

 婿入り⁉︎ 嫁入りではなくて? それって、お兄ちゃんが向こうに行ってしまうということ?

 この状況を飲み込むことができない私。情緒が不安定になっていく。

「あと、ほら、お土産みやげ。向こうで買ってきたお菓子なんだけど、八海の好きそうなやつだよ」

 と、お土産の入った紙袋を渡された。中のものを出してみると、八つ入りの饅頭まんじゅう。私は、饅頭が好きだ。特にこしあんの。

「あんこもこしあんだから、良かった食べてよ」

「……ありがとう」

 好きな食べ物を渡された私は、いつもなら大喜びのはずだが、今回は、そうはならなかった。複雑な思いだ。何故か、お兄ちゃんがお兄ちゃんじゃないような気がした。他の家の人のように感じた。去年まで、ずっと一緒にいたあのお兄ちゃんはどこへ? あの、強くて、優しくて、大好きなお兄ちゃんはどこへ? 

 寂しいような、むなしいような、難しい気持ちになった。お兄ちゃんは、私のお兄ちゃんではなく、萌絵さんの彼氏さん。後に夫となるのだ。それも、彼女の方に行くのだ。お兄ちゃんが、婿入りするのだ。とてもおめでたいことだと思う。お兄ちゃんは、運命の人と巡り合えて、結ばれるのだ。おめでとう、お兄ちゃん。と祝福しておく。しかし、私の心は、祝福の気持ちよりかは、そうでない気持ちの方が強かった。

 私は、饅頭の袋を抱え、二階の自分の部屋へ向かった。


 どうしたらいいんだろう。

 よくわからない、謎の疑問が、私の脳裏に居座った。そのとき、私の天使てんひ悪魔あくまが現れた。矛盾むじゅんし合う二つの気持ちが、バチバチと対抗していた。

 『お兄ちゃんは、もう成人なんだし、彼自身の道だから、彼を応援するのが、良い妹なのよ』と、天使。

 『いいや。八海は、もっと自分の心のままに生きるべきだ。お兄ちゃんは、八海のお兄ちゃんなんだ。どこの馬の骨かもわからない女に奪われてたまるか!』と、悪魔。

 『そんな言い方はないでしょ! 彼女は、お兄ちゃんにとって、大切な存在なんだから!』悪魔に反論する天使。

 『八海には、関係ないだろ! お兄ちゃんは、八海のものだ!』

 そんなわけがない!!!!

 お兄ちゃんは、私のものでも、何でもない。お兄ちゃんは、お兄ちゃんだ。一番、

つらいことは、私のせいで、お兄ちゃんが苦しむことだ。だから、私は、……。

 私は、饅頭の袋を机の上に置いた。今は、食べたいと思わなかった。

 

 今日の夕飯は、いつもとは違った。お兄ちゃんの好きなおかずが並んでいた。帰ってきた祝いだろう。あと、彼女ができた記念。

 母も父も、萌絵さんのことを大歓迎だいかんげいしていた。初めて息子に彼女ができたからだろう。

「萌絵ちゃんとは、どうやって付き合ったの?」

「会社の同期で、席も近いし、仕事のこととかをいつも教え合ったりして、プライベートでも気が合って」

「私は、いつも陽助さんに助けてもらっていて、とてもたよりになるんです」

 二人は、とても仲が良い感じだ。羨ましい限りだ。私にも気が合う人とかがいたらなと思う。

「!」

 一瞬、彼の顔が目に浮かんだ。麦わら帽の彼の笑顔が。

 父は、ビールを一杯、飲んでから、一人、しみじみと浸っていた。まだ、二杯ぐらいしか飲んでいないはず。

「いいねぇ、若い子の恋愛つぅもんは……」

「え、父さん?」

「もう、入ったの?」

 父は、酒には強めのはずだが、かなり早い段階で酔っているようだ。

「いや、もともと、恋愛というものが大好きだからね」

 母が私の言葉を打ち消して説明する。

 え、お父さんて恋バナマニアだったの⁉︎

知らなかった。超意外だ。

「そりゃあ、当たり前だ。恋っていいもんだ。とっても気分が上がる。俺は、この日を長年、待っていたんだ」

「あなたたちは知らないだろうけど、お父さん、寝る前とかによく恋愛ものの漫画まんが読んでるんだよ」

  マジか。私とお兄ちゃんはこおってしまったかのように固まった。昨日までの父のイメージがガラッと変わった。

「……ごめん。クセの強い父親で」

 お兄ちゃんは、萌絵さんにコソコソと小さな声で、謝罪した。私も同じ思いでいる。本当に申し訳ないな。彼女は、苦笑いしていた。

 とうの父親は、気にする様子もなく、三杯目をコップに注いで飲んだ。やっぱり、ちょっと酔ってるんじゃない?

「俺も、若い頃は甘い恋をしてたんよ」

「それって、母さんと?」

 お兄ちゃんはそう尋ねたが、母は無言のままだ。父もお兄ちゃんの質問を無視したようだ。

「あれは、俺がまだ青春を味わっていた頃このこと……」

「もう、話はやめたらどうなの」

 ついに母が静止した。するど眼差まなざしと口調くちょうで。

「あー、すまん。つい」

 父も我に返ったようだ。

「まあ、今も、仲は良好なのか?」

「うん。いい感じだよ」

「萌絵さんも、陽助のことをよろしく頼みますよ」

「はい!」

 彼女は、プチっと弾ける笑顔で返事をした。とても素敵な方だと思った。お兄ちゃんにぴったりだ。

「そういや、お兄ちゃんは、どこで寝るの?」

 素朴に思ったことを口にした。

「前まで使ってた部屋でいいんじゃない。

萌絵ちゃんの分のお布団もあるから、同じ部屋で寝る?」

「あ、はい。それでいいです」

 そこまで仲がいいのか。

 

 時刻は深夜を指している。私は、布団の中で目を開けていた。じっと天井を見ていた。

 眠れない。気になることが多くて。不安なことがたくさんあって。

 お兄ちゃんたちは、とっても仲が良い。それが見え見えだった。素敵なことだと思う。二人はお似合いのカップルだと思った。お互いの仲が良いことに越したことはない。でも、やっぱり複雑だ。私の心情はとても難しくなっていた。化学反応式かがくはんのうしきや、連立方程式れんりつほうていしきのように複雑で、難しいものになっていた。どうしたら解くことができるのだろうか。

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