第8話 慣れ行くもの

 聴覚だけが研ぎ澄まされた世界で、ベリルは幾度も反復されるハロルドの演説を聴かされていた。

 それは数時間にも及び、ハロルドは目に見えて疲労の色を濃くする。

「父さん。そろそろ交代した方がいいよ」

 トラッドが声を掛けると、ハロルドはベリルを見上げて溜め息を吐いた。目隠しをしている状態では表情が読み取れず、それでも、ハロルドの話を受け入れていないという意思が伝わってきて険しい顔をする。

「そうだな」

 疲れから肩を落とし、ヘッドセットを外した。

「アイシャ。続きを頼めるか」

「かしこまりました」

 長い黒髪の女性はヘッドセットを受け取ると、部屋から出て行くハロルドの背中を見送り水槽のベリルを見つめた。

 目を閉じて深呼吸を数回ほど繰り返し、意を決してヘッドセットを装着する。

「私はアイシャ。ハロルド様の同志です」

 トラッドはそれに肩をすくめた。

 そりゃあ、そうだよね。父さんの意見に反対の人が話しかける訳がないじゃないか。あえて言う事でベリルの孤立感を煽っているんだろうけど、効果があるとは思えない。

 父さんも、みんなも、この数時間でベリルは精神的に疲れていると思っている。同じことを延々と聞かされているのだから、そう考えるも当然だろう。

 けれど、相手が誰であるかを忘れているんじゃないだろうか。

 結局のところ、彼については僕任せで誰もベリルという人物について詳しく知ろうとはしていない。

 トラッドはそれに少しの苛立ちを覚え、青年たちを一瞥してまわると部屋をあとにする。

「みんな、忘れている」

 彼は普通の人間じゃない。

 いくら水中でも生きているとはいえ、特殊な力がある訳でもない。外見も僕たちと何ら違いはない。だから、みんな現状に慣れて忘れていく。

 たかだか一週間で、すっかり彼はだと認識された。

 彼を捕らえるための訓練を受けたのは僕だけだからと言ってしまえばそれまでだけど、僕はずっと言ってきたはずだ。

「彼が本当に強いのは、精神的な部分だって」

 見えないものを計るのはとても難しい。

 ベリルが生まれた経緯と、これまでの生き方を見れば僕たちがしている事の、いかに困難な道程みちのりであるかを理解出来るだろう。

 そんな相手を言いくるめ、洗脳するのだから前例なんかを当てはめてはいけない。

 最も効果的なのは何も考えさせないことだけど、そんなのは到底、無理な話だし。彼の思考パターンは僕でも未だに理解できていない。

「痛み……か」

 激痛を与え続ける事はいいかもしれない。

 痛みで考えることも出来なくなるだろう。ただ、それを続ける人間の方が先に参る可能性がある。

 彼らは父さんほど、決めたことを冷徹にこなせる強い精神力はないだろう。かといって、僕と父さんでやると今度は彼らの心が父さんから離れていくかもしれない。

 ほんの数分でもやらせて共犯者となることで、結束をさらに強固なものにする方がいい。

 CIAではどうしていたんだろう。彼らが拷問をしていないとは思えない。とはいえ尋ねる訳にもいかないから、僕らの方法を続けていくしかないね。

「あのまま交代で一日中、聞かされるんだろうな」

 かわいそうに。あとで少し様子を見に行ってみよう。



 ──三時間ほど経過してトラッドが部屋に戻ってくる。

「あー……」

 入ってすぐ、三人目が語っている後ろ姿を眺めて頭をかいた。

 アイシャは比較的、上手く語る。しかし、サムはまだ演説になれていない。戻ってきて数分で三回も噛んでいるのを見ると呆れてしまう。

 そりゃあ、経験を重ねることが大事だけど、ベリルを相手にさせるには無謀だよ。僅かな違和感は洗脳を阻む要因だ。

 折角、進んでいても後退する。進むよりも多く後退するかもしれない。

「サム。よく頑張ったね。いい経験になっただろう。次はミシェル、君に任せるよ」

「はい」

 若々しい褐色の肌が青年の快活さを表しているミシェルと呼ばれた男性は、サムからヘッドセットを受け取るとさっそく語り始めた。

「俺はミシェル。これからよろしく。あなたは本当に強い。その強さを人類の未来のために活かしてほしい。冷戦が終わりを告げ、世界は平和になるのかと思ったが、それは大きな間違いだった。むしろ利権を求めた者が増加し、あちこちで内戦が勃発している。こんな状況、いいはずがない──」

 ミシェルは相手のふところに入るのが上手い。彼によってこれまで何人も同志を迎え入れた心強い仲間の一人だ。

 しかし、トラッドはベリルに視線を向けて渋い顔になる。やはり、目と顔の半分が覆われていることで思考が読み取れない。

 このまま、これを続けていいのだろうか。いや、まずは続けるべきだろう。最低でも三日は続けなければ、効果があるのか解らない。

 なのに、何故だろう。僕の中で、無駄な事だと繰り返し声が聞こえる。

「これは、君の声なのかい?」

 水中に揺らめくベリルを見つめてつぶやいた。



「トラッド様」

 再び部屋から出ると、一人の青年に呼び止められる。

「見つかったそうです」

 それにトラッドは目を輝かせた。

「そう。じゃあ、詳細を送ってと伝えて」

「解りました」

 足早に自室に戻り、すぐにスマートフォンを取り出して着信の表示に口元を緩める。内容を確認したあと、しばらく思案してバッグに衣類などを丁寧に詰め込んでいく。

 よほど嬉しいのか落ち着きなく詰め込み作業を進め、まだ終わっていないというのに手を止めてデスクの引き出しに仕舞っていたハンドガンを手にする。

 その黒いかたまりに、まるで愛しいものにでも向けるような眼差しを送り腰の後ろにねじ込んだ。

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