◆第四章

第9話 強くなること

 ──メキシコ合衆国

 北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家で、南東にはグアテマラとベリーズとに国境を接し西は太平洋に、東はメキシコ湾とカリブ海に面している。首都はメキシコシティ。

 そのメキシコ南東部のカンペチェ州──カンペチェ油田があり、南部はグアテマラのペテン県と接しており、スペイン植民地時代に築かれた城壁や要塞などの防衛施設群がユネスコの世界遺産に登録されている。

 そんなカンペチェ州の落ち着いた街並みが広がる一角、五十代にさしかかろうという男が店で酒を飲んで帰路に就いていた。

 やさぐれた印象の顔立ちにブラウンの短髪は、さほど手入れをしていないのか好きに飛び跳ねている。

 飲み過ぎたかなとつぶやいてボロアパートに入り、ふらつきながら階段を上る。

 男はひと仕事を終え、手にした金にニヤつきながらいつもとは違う高めの店でしこたま酒を飲んできた。

 二階の自室前に辿り着くと鍵を開け、ノブを回してきしむ扉を開く。

「ん~。明かり、明かりっと」

 見知った場所に確認もせず、スイッチをオンにすると薄暗い照明がついた。背後にトラッドがいるとも知らず、水を飲むためキッチンへ──

「やあ」

 低く、くぐもった声にビクリと強ばり、その拍子にコップを落とした。マットに落ちたガラスのコップは、割れることもなく水をまき散らす。

「こんな所にいたんだね」

 男はゆっくりと振り返った。

「……誰だ」

 見知らぬ青年にいぶかしげな目を向けながら、予期していた最悪の結末に向かっているであろう予感にゴクリを喉を鳴らす。

「よく逃げ回ってたって褒めてほしい?」

「ま、待ってくれ! は誰にも言うつもりはない。これからもだ! 現に、いままで言わなかっただろう!?」

「そうだね」

 トラッドの抑揚のない返事に引き気味に小さな叫びをあげる。

 その声色には、お前の言葉なんか信じていないという感情がありありと示されていた。もはや、何の言い逃れも無駄なのだと愕然とする。

「懸命に隠れていたんだね。年老いても傭兵ってことかな」

 それに、いまの仕事は報酬もいいよね。

「麻薬密輸の護衛だもの」

 見返りはかなりのものだろうね。

 ──メキシコは主要な麻薬の生産国、中継国だ。ヘロインの生産量は少なくとも、外国製麻薬の半数以上はメキシコカルテルの支配下にある。

「あ、ああ。そうだ、これまでの金を──」

「全部あげるから見逃せって?」

 魅力的な申し出だけど残念、君が持っている秘密とじゃあ、釣り合わない。

「な、なんでだよ! 俺は、俺たちは、あいつの言う通りにしたじゃないか! 言う通りに皆殺しにした」

「でも、肝心の対象は逃がしちゃったよね」

「それはっ──」

「ああ、いいんだよ。そんなことを責めてる訳じゃないんだ。今は、逃がしてくれてありがとうって言いたいくらいだし」

「──なん?」

 意味がわからず困惑している男にトラッドは目を細める。

「元々、君たちがなんだから。解ってほしいな」

 男はそれに目を見開き、悔しさと怒りに歯ぎしりした。

「初めから、俺たちを殺すつもりだったってことか」

「みんな死ぬはずだったんだけどなあ」

 君はトイレに行っていたんだったね。運が良いよ。

「毒なんか……盛りやがって」

他人ひとがいくら死んでもいいけど、自分が死ぬのは嫌だよね」

 ただ、それだけ。寄せ集めの集団に、情なんて無いよね。金で誰でも殺せるんだから。

「助けてくれ。頼む」

 以前なら闘っていたであろう男は自らの老いには勝てず、軽薄な青年にさえも力なくひざまづいて必死に命乞いをした。

 トラッドはそれに口の端を吊り上げる。

「そうだね。僕を殺せば、またしばらくは逃げられるかもしれないよ」

 すぐに殺すはずだったけど気が変わった。

「きさま」

 殺しを楽しんでいるのか。かつての俺のように──見逃す気はないんだな。

 男はゆっくりと右手を腰の後ろに回し、取り出した折りたたみナイフを起こして一気に突きだした。

 トラッドはそれをさらりとかわし体勢を崩した男のみぞおちに膝を打ち、痛みに腰を折ったその背中に肘を食らわせる。

 醜い悲鳴をあげて転がる男を冷たく見下ろした。

 ──僕は、何をやっているんだ。初めから勝ちは見えているのにふと、この男の最後のあがきが見たいと思ってしまった。

「いや、違う」

 きっとそうじゃない。

 全てはベリルを捕らえるためにと、言われるがままに戦術や格闘を学んできた。それによって僕は所謂いわゆるを任されるようになった。

 父さんの唱える理想のために、邪魔なものは排除してきた。

 でもこれは、父さんがやり残した殺しだ──父さんは、傭兵たちはいつかA国の施設を誰かに話すかもしれないと、初めから殺す計画で彼らを雇った。

 毒を盛られた本人が他人に毒を盛るとは、随分とウィットに富んでいる。

「これは、憂さ晴らしだ」

 口の中でつぶやく。

 ベリルを捕らえるためには、生半可な技量では無理だと僕は必死に訓練を重ねた。けれど、新たに得たベリルのデータに毎回、打ちひしがれた。

 追いつこうとすればするほど遠のいていく。

 どうして? そのままでも強いのに、どうしてまだ強くなろうとする。死なないのに、どうしてそんなに頑張るの。

 君の能力ちからは、一人を救うためじゃない。世界を救うためにあるんだ。僕が、君の進む道を示し、助けてあげる。

 ああ、そうだった。僕は、彼の右腕になりたくて、強くなろうとしたんだ。彼が望むことを行うために、強くなろうとしたんだ。

「もういいよ」

 憂さは晴れたから。

 痛みで悶える男に、減音器サプレッサーを取り付けたハンドガンの銃口を突きつけた。

 男は恐怖に歪んだ表情を顔に貼り付け立ち上がることも出来ず、やめてくれと両手のひらを向けて縮こまる。

「たすけ──」

Dagバイバイ

 軽い破裂音と共に男のひたいに穴が空く。

 ごとりと倒れた男を見下ろすトラッドの瞳は、壊れた人形を見るかのように何の色も表してはいなかった。





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Dag(ダハ):オランダ語で「一日」という意味。別れの挨拶によく使われている。

(トラッドは父のハロルドと同じく、アルカヴァリュシア・ルセタの出身)

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