第4話 カチカチだね

「カチカチだね、このギブス」

「だから麻由、私の右足で遊ばないでよ」


 紅白戦で右足首に重度の捻挫を負ってしまった私は、それから二週間、ギブス&松葉杖生活を余儀なくされた。

 部活は見学――なんてことになるわけもなく、ベンチに座ったままで左足を使う特訓をさせられることになったのだ。麻由と一緒に。


 麻由が私にボールを投げる。

 私はベンチに座ったまま、左足で麻由に蹴り返す。

 その練習を毎日五百回、繰り返す。

 

「ごめんね、麻由。毎日毎日こんな練習に付き合わせちゃって」

「気にしないでメル。私はレギュラーなんて別に狙ってないから」

「でも……」

「それにね、メルが有名になってくれたら私嬉しいの。これだけのスタミナがあれば、なでしこリーグでだって活躍できるわよ。そんでもって「あの時の練習があったから」って言ってくれたら私泣いちゃう」

「麻由……」


 麻由には本当に感謝してる。

 彼女の気持ちに応えるためには、今この練習を活かさなくちゃいけない。

 なんとしてでも左足を上手く使えるようにならなくては……。


 インサイド、アウトサイド、インステップ、インフロント、アウトフロント。

 麻由が投げてくれたボールを、それぞれの蹴り方で百回ずつ彼女へ返す。

 最初はあっちゃこっちゃに飛んでいたボールだったが、ギブスが外れる頃には麻由の元へちゃんと返せるようになっていた。



「左足、上手く当たるようになったね、メル」

 練習上がりの桜先輩が、私の元にやってきた。

 麻由はグラウンド整備に行っている。そんな同級生の後ろ姿を眺めながら、私は校庭脇のベンチでボールを磨くことしかできなかった。

「ありがとうございます」

 ベンチの隣に腰掛けようとしている桜先輩にお礼を言う。先輩、ちゃんと私の特訓を見ていてくれたんだ。ほんのり香る汗は、石鹸のように爽やかで羨ましい。

 でも、紅白戦での鬼畜なタックルは忘れてはいませんけど。

「左足は、そうやってインパクトの瞬間に集中する癖をつけておくといいよ。試合でもきっと役に立つから」


 桜先輩の柔らかな言葉には説得力がある。

 キャプテンに上から目線で言われたら、意地でもやるもんかと思っちゃうけど。


「最初はね、『なんで右足と同じように動かない』って思い詰めちゃうから嫌になっちゃうの。だからね、融通の利かないテニスラケットかゴルフクラブみたいなもんだと思っておけばいいのよ」

 へえ、そんな考え方があるんだ……。

「テニスラケットだって、スイートスポットに当たればちゃんと飛ぶでしょ? そんなイメージでいいの」

「先輩はそうやって練習してたんですか?」

「そうよ。ちゃんと飛ぶようになったら面白くなるから。面白くなったらこっちのもんよ」


 確かにそう思う。

 怪我をした日の紅白戦、左足でパスをミスした時は本当に嫌になった。あれは右足と同じようにパスしようと思ったから嫌になったんだ。

 でもその後で、桜先輩の背後へ左足で転がせた時はちょっと面白く感じた。きっとそれはダメもとと考えていたからなんだろう。


 桜先輩に教えてもらったら、早く上手くなれるような気がする。

 だったらいろいろ訊いてみよう。


「紅白戦の時のフェイント、すごかったです。完全に騙されました。あれ、どうやってやるんですか?」

「センタリングの時のアレね。どうやってって、メルは見てたよね。絶好のポジションで」

「見てましたけど……」

 すると桜先輩は真剣な眼差しで私を見た。

「いい? 覚えておいて。技ってものは教えてもらうものじゃなくて盗むものなの。人にはそれぞれ得手不得手があるんだから。やりたいと思ったプレーを試行錯誤しながら身に付ける。そうでなきゃ、試合で出すことなんてできないよ」

 

 鋭い言葉が私の胸を貫いた。

 確かにその通りだ。ちょっと甘えすぎていた。

 桜先輩はいつも優しいけど、やるときは容赦ない。紅白戦の時の真剣なタックルがそうだ。そんな厳しい一面を持っている。

 もしかしたら、あのフェイントは私の目に焼き付けるためにやってくれたんじゃないだろうか。そのイメージを体現できないようなら、所詮それまでの選手だったということ。そう言われているような気がした。


「わかりました。自分なりに練習して絶対ものにしてみせます。足が治ったら、ですけど」

「あのフェイント、結構効くわよ。手足の振りと視線で騙すの。サイドバックだったら必須かもね。もしメルが全速力トップスピードであのプレーができるようになったら、まさに無敵だと思うけど」

 全速力の状態で!?

 そんなことができるだろうか?

 いや、逆だ。桜先輩は私に期待してくれているんだ。あのフェイントでディフェンダーを振り切れる選手になれることを。


「そういえば聞いたわ、香月に」

 聞いたって、キャプテンに一体何を聞いたんだろう?

「やけにこだわってるんだって? センタリングに。そんなにセンタリングが好き?」

 センタリングの話ってあの時ね。麻由とちんたらローラー引いてて、キャプテンに怒られたんだっけ。

 私は桜先輩を向く。

「子供の頃に見た試合がすごくて。その時のセンタリングが、今でも忘れられないんです」

「へえ~、誰のセンタリング? 今でも忘れられないって、よっぽど印象に残ったのね」

 桜先輩は顎に手を当てて考え始めた。

「今でも憧れの選手なんです。その選手は……」

 すると先輩は掌を立てて私を制止する。

「ちょっと待って、当ててみせるから……」

 夕焼け空に視線を向ける先輩。そして輝く瞳で私を見た。

「わかった! 友永ともなが選手でしょ!? サイドバックといえば友永選手だもんね」


 友永選手――きっとサムライブルーの左サイドバックの友永選手に違いない。


「まあ、友永選手も好きですよ。運動量は素晴らしいですし、なによりもあの明るさですよね。友永選手のポジティブシンキングはとても参考になります。でも私が見たのは男子ではなく、なでしこメンバーなんです」

「ふうん……。となると清川きよかわ選手とか土輝どき選手とか?」


 清川選手と土輝選手は、現在のなでしこジャパンの右サイドバックと左サイドバックだろう。


「両選手も素晴らしいと思います。が、もっとベテランで、ワールドカップで優勝した時のメンバーだったりして……」

 すると桜先輩は「えっ?」と驚いた顔をした。

「ワールドカップの優勝って九年前だよ? メルって……いくつだった?」


 二〇一一年、ドイツで女子サッカーのワールドカップが行われた。

 なでしこジャパンは決勝でアメリカを破って優勝。

 金色の紙吹雪舞うピッチの上で、青いユニフォームを纏った戦士たちがカップを掲げるシーンは、何度も何度もテレビで放映されている。


「まだ小学校に上がる前でした。だからワールドカップ自体はぜんぜん覚えていないんです。でも小学四年でサッカーを始めた時に、お父さんに連れて行ってもらったんです。芦屋INCAの試合に」

「芦屋INCA? ってことは……遠賀選手だね」

「そうです! そうなんです」


 なんだか嬉しかった。桜先輩の口からその名前が出てきた時は。

 誰にも言えずに一人で決めた目標は、間違いではなかったような気がした。


「渋いね、遠賀選手が憧れって」

「ですよね。でも芦屋INCAの試合で右サイドを駆け上がる遠賀選手を目の当たりにして、私、体中が震えたんです。あんなプレーがしたいって」

「なんとなくわかるよ。メルのプレーって、そんな感じだもんね」


 えへへへ、と私は照れ笑いする。

 そんな感じって言ってもらえたのがとても嬉しい。


「ワールドカップでも遠賀選手はすごかったんだよ」

「そうみたいですね」

 残念ながら私は、ワールドカップの時の遠賀選手のプレーはあまりよく知らない。

「決勝戦でね、遠賀選手が決定的なゴール前の飛び出しを見せたの。それを相手がクリアしてコーナーキックになって、同点の起点となった。あれは凄かったよね。あの飛び出しが無かったら優勝してなかったかもしれないんだよ」


 ええっ!? そんなことがあったんだ。

 ワールドカップといえば、決勝延長での奇跡の同点シュートは何度もテレビで見たけど、そのきっかけを作ったのが遠賀選手だったとは知らなかった。


「何が凄いかっていうと、それが延長後半十分だったってこと。あのアメリカ相手に試合で九十分走って、延長でさらに二十五分走って、それでもゴール前に行けるって驚異的じゃない? メルならできそうだけどね、悔しいけど」

「いやぁ、私はそんな……」

「でもね、メルとは決定的に違うところがある」

 照れる私に冷や水を浴びせる言葉を、先輩は口にする。


「遠賀選手って、元々フォワードだったの」


 えっ?

 遠賀選手って、最初からサイドバックのエキスパートだったんじゃないの?

 あれだけスタミナがあって走れるのに?


「高校生の時に選ばれたU-19では、フォワードでアジア制覇。卒業後に入団したテッテレ東京では、トップ下やウイングだったんだって。代名詞の背番号2が定着したのは、芦屋INCAに移籍してからなのよ」


 トップ下やウイングって攻撃の選手だ。

 だからあんなに足技が上手いのか。

 もともとフォワードでアジア制覇までしてるんだから当たり前だ。

 それに比べて、走るだけしか能がない私が「目標なんです」ってちゃんちゃら可笑しいじゃん。恥ずかしくて穴があったら入りたい……。


「どうしちゃったの? メル」

「いや、そんな凄い選手だったなんて全然知らなくて」

「気にしなくていいのよ、私も知らなかったから」

「えっ?」

 驚いて桜先輩を見る。

 夕焼け空を向く先輩は、遠い目をしていた。

「教えてくれたのは香月なの」

「キャプテンが?」

「あれは入部したばかりの時だった。サイドバックへの転向に納得できなかった私に、香月が話してくれたの」


 それから桜先輩は、入部してから現在までの話しをしてくれた。

 中学までのクラブではフォワードだった桜先輩は、黄葉戸学園に入学して現実の厳しさを思い知ったという。

 ほとんどの部員が自分よりも上手い。

 そりゃそうだ、女子サッカーの名門なんだから。

 頭では分かっていたつもりだったが、実際にそれを目の当たりにするとかなりのショックを受けたという。中学までの常識が通用しない。焦りと苛立ちで自分のプレーを見失ってしまう。

 そんな時に顧問の先生に言われたのが、サイドバックへのコンバートだった。


「悔しかった。信じられなかった。今までの人生がすべて否定されたような気がした」

 

 うつむいて、スパイクを見つめる桜先輩。

 いつも明るい先輩にそんな苦悩があったなんて全然知らなかった。


「そんな時にね、遠賀選手のことを教えてくれたのが香月だったの」

 あのキャプテンにそんな優しさがあったなんて……。

「最初はね、私は聞く耳を持たなかった。だってそうじゃない。香月は私より上手いし、身長も高いし、私から見たら全然余裕で安全圏でしょ。今だから言えるけど、同情はやめてよって思っちゃった」

 確かに女子で一七五センチの身長は恵まれている。

「そしたら懲りずにいろいろと調べてくれて。メルは覚えてる? なでしこ優勝メンバーの左サイドバックの選手」

「えっと、醒鳥さめどり選手……でしたっけ?」

「そう醒鳥選手。彼女もサイドバックをやる前は中盤のドリブラーだったのよ」


 ええっ!?

 なでしこ優勝メンバーの両サイドバックが、どちらも元々は攻撃の選手だったとは!?


「だからね、サイドバックへの転向は逆にチャンスなんだって。私のスタミナを活かさない手はないって。挙句の果てに香月に言われたの、チャンスがあるのに頑張らないやつは辞めちゃえって。カチンと来た私は、やっとやる気になったの」

 きっとキャプテンは不器用なんだと思う。歯に衣着せぬ言動が人を選ぶのだろう。

「頑張って頑張って、ようやくレギュラーの右サイドバックに定着してきたなぁって思っていたら、メルみたいなスタミナお化けが入ってきちゃって……」

 桜先輩の視線は私の瞳を捉える。

「香月もメルも贅沢なのよ。二人とも私に無いものを持ってる」

 それは積もる思いを私に託すように。

「だからね、メル。諦め……」


「ストップ!」


 思わず制止してしまった。先輩なのに。

 でも危なかった。

 桜先輩にあの言葉を言われたら、私立ち直れない。

 すると予想に反し、先輩は私にニコリと笑う。


「あら、私「諦めて」って言おうとしたの、わかっちゃった?」

 えっ!?

 そうだったんですか?

「だって、こんなに苦労して掴んだレギュラーの座なんだもん。メルに奪われたくない」

 私てっきり勘違いして、先輩の言葉を遮っちゃったりして、なんか恥ずかしい……。

「だからね、諦めて。左足の練習もしなくていいのよ。って言われたら、本当に諦める?」

「私、諦めません。先輩に言われて目が覚めました。遠賀選手に近づくためには、もっともっと基礎を身に付けなければいけないってことに」

 すると桜先輩は薄暗くなりかけた空に手を突き出し、大きく伸びをする。

「あーあ、残念だなぁ。目覚めちゃったか……」


 ありがとうございます、先輩。

 先輩のやさしさに感謝します。

 ポジション争いは実力勝負。情けは無用だけど、スタミナだけではダメだってことを私に伝えたかったんですね。

 それに先輩だって、キャプテンや私に無い素晴らしいものを持ってるじゃないですか。

 伸びで強調される先輩の豊かな胸。女の私だって目がくぎ付けですよ。

 

「でも、噂はホントだったのね。メルのNGワード」

 桜先輩が腰を上げながら、くすくすっと笑う。

「芽瑠奈、諦

 捨て台詞とともに小さくなっていく背番号2。

 油断した。

 言われちゃったよ、さり気なく。

 先輩、最初から狙ってたでしょ?

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