第16話 地獄の追憶



 おどろおどろしい赤褐色の空が覆い尽くす呪われた世界――『呪界』は、色褪せたセピア色に染まっていた。

 終わらぬ呪いの牢獄。

 朧気な意識、鈍い頭痛。

 音が、空気が、色が、匂いが遠く感じる。

 これを俺は知っている。


(……また、この夢か)


 夢。

 現実ではない。

 脳が見せる幻覚、幻聴。


 地獄の追憶、それがこの夢の世界。


 飼い主を失った羊のように逃げ惑う人々。

 住宅地の面影を残した建物へどこからともなく飛来した大岩が直撃し、轟音を響かせ無惨な瓦礫の山と化した。

 地面から青白い火柱が上がり、直上にいた人が苦しむ間もなく焼死する。

 ずんぐりむっくりな体型の『呪魔』が乱暴に人の頭を掴み、ブチブチと首をねじ切って血肉に塗れた背骨が紐のように宙を舞う。

 死体へ痩せ細った矮躯の『呪魔』――餓鬼が群がって血を啜り肉を食い荒らし骨をしゃぶる。


(いつ見ても酷い光景だ)


 人が死んで、死んで、死んで。

 嘆きと恐怖、絶望が支配する呪われた世界。


 しかし、それを前にして感情は異様なほどに冷めていた。

 俺にとっての本番はこの先だから。


 景色が移り変わる。

 少年とその両親が悠然と追い続ける鬼の『呪魔』から逃げていた。

 情けなく泣きながら覚束無い足取りで手を引かれる少年は昔の俺。

 これは夢、現実じゃない。

 理解していても目が離せない。

 過去を拒むな、向き合え――そう頭の奥で何かが囁く。


(ああ……同じだ)


 瞼の裏で脳裏に刻まれた記憶とリンクする。

 音が、空気が、色が、匂いが波涛のように押し寄せた。

 胸がギュッと締め付けられ息苦しさに見舞われる。

 舌根が渇き、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 肌が粟立ち足が竦む。


 瞬間、小さな俺が足をもつれさせて地面の段差に躓いて転んだ。

 受け身も取れず派手に顔面を打ちつけ膝小僧を擦りむき赤く滲む。

 気づいた両親が立ち止まり目を見開いた。

 起き上がらない俺と迫る鬼のような容貌の『呪魔』を交互に捉え、父親が意を決したように無言で訴える母親に頷き――


(俺のせいだ)


 脆弱な人の身でありながら、俺を守るために『呪魔』の前に立ち塞がる。

 だが、それは虚勢。

 絶え間なく珠の汗が流れ、動作はブリキの人形のようにぎこちない。

 足の震えが止まらず、息も浅く荒い。

 俺を置いて逃げても咎める者はいないというのに、父親の眼差しは死地を定めた兵士のように一点を見据えていた。


 俺は母親に右手を引かれて立ち上がり、泣きべそをかきながら父親を見た。

 不意に振り返った父親は普段あまり見せることがない笑み、それも苦笑を浮かべて「早く行け」と厳しく言い放つ。

 ――そして、父親の首がぐちゃりと弾けた。


 鬼が振るった棍棒が風船でも割るかのような気軽さで頭蓋を粉砕し赤の混じった脳漿を散らす。

 呆然と立ち尽くす俺と母親へ愉悦に歪んだ嗤い声が感情を引き裂いた。

 くずおれて膝をつき物言わぬ父親の骸が地面へ倒れ、肉の潰れた首の断面から血が流れ出る。

 母親の口から耳を劈く悲鳴が響いた。

 俺は理解が及ばずぽっかりと口を開けて父親の最後を見届けていた。


 嬲るようにじわしわと鬼が距離を詰め、無造作に振り下ろした棍棒が母親の背を打ち抜いた。

 めきり、と軋む嫌な音。

 仰け反りながら横合いへと吹き飛んで壁へと激突し、血の華を盛大に咲かせて死んだ。


(俺は、どうして)


 こんなにも、無力だ。



 ▪️



「……っ、は」


 熱に浮かされたように漏れた浅い吐息。

 汗でじっとりと濡れたパジャマが肌に張りついて気持ち悪い。

 ぺったりと額についた髪を手で払う。

 ゆっくりと開けた視界の先には寝室の天井。

 隣を見れば熟睡中の陽菜の子供のような寝顔。

 朝の6時半過ぎ……なんとも微妙な時間だ。

 こんな気分じゃ二度寝もする気が起きない。


「……シャワーでも浴びてこよう」


 陽菜を起こさないよう静かにベットから這い出て、寝覚めの悪さに辟易としながら朝を迎えた。


 着替えの部屋着を携えて脱衣場へ向かい、汗で湿った服を脱ぎ去り中へ。

 シャワーが適度に温まったのを手で確認し胸のあたりから浴びていく。

 跳ねる水音がささくれだった精神を穏やかに鎮めてくれる。

 吐き出したため息は重く、良くないものが混じっていそうだ。


「……酷い顔だな」


 鏡に映るやつれた自分の顔に思わず呟いた。

 顔色も悪い気がする。

 陽菜に見られたら心配されそうだな。

 感情の機微には敏感だし、俺は特にわかりやすいらしいし。


 風呂椅子へ腰を落ち着け、シャンプーを泡立てて髪を洗う。

 髪が長いと面倒だから切りたいが陽菜にやたらと怖い笑顔で止められたのだ。

 不慣れな手つきで教えられた通りに洗い泡をシャワーで流す。

 続いて身体も洗いながら朝食の献立を考える。


「……トーストかなぁ。卵とベーコンを焼いて、軽くサラダでも作ろうか」


 あ、ヨーグルトもあったかな。

 ぼんやりと冷蔵庫の中身を思い浮かべ、こんなものだろうと思考を打ち切る。


 すっかり変わり果てた身体に早くも順応しつつあるのを感じていると、鏡が湯気で薄らと曇り始めた。

 自分が自分でもわからなくなっているようで、チクリと胸が痛んだ。


「情けねぇな、ほんと。また弱くなったな」


 でも、あの時とは違うこともある。

 変わらず支えてくれる人がいる。

 陽菜を始めとして海涼も、冷士さんも、由良さんも。

 釈然としないけど天音も一応。


 きっと、大丈夫。

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