思い出の味
「最近、思い出せない事が増えた」
「……認知症?」
そう言うと彼女は突然身を乗り出してチョップをしてきた。その行動はほぼノータイムな上に僕はリラックスした態勢な為、躱す事も防御出来る事も出来ず、僕は直撃を受け悲鳴を上げる事なくテーブルに倒れ伏してしまった。
「い、いきなり暴力を振るうことないじゃん…」
「ごめん。反射的に……これ」
謝罪の印のつもりか、彼女の手前に置いてあったフライドポテトを指差した。あまりにも申し訳なさそうな表情をしていたから怒ってないアピールをするためにポテトを一つ抜き取り、彼女にも見える様に口の中に放り投げてみせた。
「……それで?実際の所どうなの?」
「どうとは?」
「いや、物忘れだよ。酷いのかって話」
「……」
彼女は少しだけ口を閉ざし、片肘をついては少しだけ唸り声を上げては溜息を吐き出した。
「……認知症…とは違うと思う」
「そのこころは?」
「…………君の事以外、ぼんやりとしてしまう」
そう言う彼女は顔を伏せ、両腕で頭を覆い隠す。しかし彼女の細腕では頭を隠し切る事ができず、隠しきれなかった耳は赤く染まっていた。
「……なんだ惚気か。照れるな」
「違うよ馬鹿!」
「顔、真っ赤だぞ?」
咄嗟に顔を上げた彼女だが、僕の言葉を肯定するかの様に真っ赤になった顔では否定の言葉も説得力を持たない。
正直、彼女にそこまで思ってもらえるのは嬉しくもあり、その可愛らしい姿を見続けていたいという思いもある。しかし、これ以上煽ってしまえば今度は殴る蹴るの先程とは違うハードなものが飛んでくると予想できてしまうため、彼女が落ち着くのをただ待っていた。
……些細な事なんだ。
落ち着いた彼女は僕から視線を合わせない様に横を向き、窓の外を眺めた。つられて僕も彼女の視線の先に目を向ければ語る事のない、薄暗い雲が空を覆っていた。
「昨日の夜は君とカレーを食べた」
「水分量を間違えてほぼスープカレーみたいのだったけどね」
「水分量を間違えたのは?」
「君」
「そう」
挑戦的な君はいつも説明書を読まない。大体のイメージで入っていたであろう物や何となくで分量を決めて作っていく。
料理が出来ない典型的な人間。毎回テーブルに並べられる失敗作達を僕達は腹痛にならない程度に頬張る。悔しそうに頬張る彼女に何度「ちゃんとレシピ通りに作ろうね」と言ったことか。
「一度でもいいから君の成功例を食べてみたいよ」
「はいはい」
そう言う彼女の表情はどこか投げやりで、きっと次もチャレンジ精神全開で作り始めるのだろう。
「……いやそうじゃないや。脱線したけどそうじゃない。食べた物は覚えているんだ」
「じゃあ何を忘れたのさ?」
「……」
「……え?それすら思い出せないの?」
彼女はとても悲しそうに僕と視線を合わせた。
「ねぇ、学生時代の友達の名前は言える?」
「言える」
「何処で何をしていたかは?」
「それとなく覚えてる」
「私は何も思い出せないの」
ポツポツと雨が降り始める。
ガタガタと風が窓を揺らす。
なのに部屋はシンとして彼女の声を響かせる。
「友達の顔も、学校生活が楽しかった事も覚えている。なのに、その友達の名前が思い出せない何処に行ったのかも思い出せない。……君との思い出しか……思い出せない」
「……それは」
喜ぶべきことなのだろうか?僕との生活が彼女の中で大きくなり、昔の思い出すら埋め尽くしてしまったという事だろうか?
しかし、あまりにも悲しそうな表情をしている為、その様な事は言えない。確か彼女はほぼ毎日の様に友達とはしゃぎながら帰っていたのだ。友人関係を大切にしていた彼女にとってそれが思い出せない事は間違いなく違和感であるからだ。
「……確か卒業アルバムがあったはずだ。とりあえずそれを確認しよう」
§
彼女の自室。本棚に立てかけられた卒業アルバムを手に取る。手で軽く埃を払い、ベットに寄りかかりながら厚いページをめくる。
クラス紹介のページには若かりし頃の僕達が制服の姿で写っており、その懐かしい姿に思わず歳をとったと実感してしまう。
「あった」
そんな中、彼女の友人達を見つける。名前もしっかり書いてあるため、その名前をしっかりと口にする。
「思い出した?」
「名前はね」
続けてページをめくっていく。クラスの日常風景に委員会、部活に修学旅行に文化祭。沢山の出来事がそこには映っていた。時折、自分の写った姿に恥ずかしさを覚えて視線を動かせば彼女達のはしゃぐ姿が目に映った。
「文化祭、何してたか覚えてる?」
「焼きそば屋で売り子をしていた」
続けてページをめくっていく。写真が無くなり、本来は真っ白な最後のページ。ただ、彼女の卒業アルバムにはクラス全員の寄せ書きが書いてあった。
仲の良い友達。あまり話したことのない人。担任の教師。
「君からのメッセージは?」
「……無いよ。だってクラスが違うから」
§
またリビング戻り彼女と向き合う。完全ではないにしろ、友人の名前や学生時代の出来事を思い出せたのか、少し安心した表情をしていた。
二人分の珈琲を淹れてそれぞれの前に置く。僕のは少し苦めの珈琲。対して彼女のは砂糖やミルクを大量に淹れたカフェオレに似た甘めの珈琲。それを見た彼女は「また子供扱いする」と文句を言いながらカップに手を添えた。
「物忘れ…いつから?」
「分かんないよ。ずっと君と過ごしてたんだ。……ちょっとしたふとした瞬間。『そういばあの人の名前なんだっけ?』『そういば昔にここに来たことあった様な』そんな数秒後には忘れそうな瞬間なんて無限にあるでしょ?」
「まぁ…」
「別に今思い出す必要はない。だってそれより重要な事があるから。そうやって気にしないフリをしている内に同じ疑問が積み重なっていく。それが自分だけの疑問で済んでいるうちは一人で首を傾げ、首がもげそうになったからこうして口出してみた」
ゆっくり冷めていく珈琲が苦手で、僕は直ぐにカップを空にしてしまう。珈琲に限らず、温かいコーンスープに冷たい炭酸ジュース。常温に戻るのが嫌で残す事なくすぐに飲み干して空にしてしまう。
彼女の珈琲は減っておらず、ただカップに手を添えて暖をとっていた。
そういえば彼女はどうだっけ?
§
彼女と付き合ったのは高校を卒業した後だった。
ずっと遠くから彼女を眺めていただけだった。
出会ったきっかけは……そう。テスト期間で図書室で勉強してた時に彼女が友達と一緒に僕の席の前に座ったんだ。
友達は飽きて速攻で寝始め、起きてた彼女も問題が解けずに唸り声を上げては不貞寝しそうな時、ついお節介で溢してしまったんだ。
「そ、そこ。教科書の公式を使えば解けるよ」
「はぁ?……いや、習ってないよ」
「多分習ってるはず。確か……ほらここ。公式にマーカーが引かれてる」
「ん?……あぁはいはいはいはい。カラフル過ぎて気がつかなかった」
彼女は公式を使うと直ぐに問題が解け、満足した表情を浮かべた。
「おぉ!ありがとう。……えぇっと」
「あっ、その、隣のクラスの」
「隣のクラス?……隣クラスだってよく覚えてたね」
「へ?」
「普通そこは何組の誰々っていうものじゃない?」
そうそう。彼女は頭は良くはなかったけど、変な所で感が良かった。この時には僕が彼女の事が好きだった事。そして彼女はその事を友達になりたい人の一人と勘違いしていた事。
これを期に彼女はちょくちょく僕にちょっかいをかける様になり、卒業後に僕が告白するまで続いた。
偶然同じ大学に通い、偶然同じ道を登下校をして、必然的に卒業後に将来を見据えたプロポーズをし、その数年後に彼女は僕の前から姿を消した。
§
———コトッ
§
視線を上げると彼女は微笑んでいた。手には今だに口のつけられていない甘い珈琲の入ったカップがあり、湯気の出方から緩くなっている事が分かった。
「最近、思い出せない事が増えた」
「……認知症?」
彼女は訝しむ様に目を細めた。僕は首を軽く横に振り、もう一度彼女を見た。
「……君が…君が思い出せなくなりつつある」
§
彼女の部屋に入った。掃除の行き届いた綺麗な部屋だった。とはいえ、よく見れば所々に掃除のし忘れが目についた。
もう暫く使われていない部屋。疑問に思えば調べられる様に本棚に並べられた本達も、風景と化したインテリアの様に薄らと埃が積もっていた。
息を吸えば僅かに香る埃の匂い。彼女の匂いはしない。
本棚の引き出しを開け、問題集のカバーがかけられた一冊の本を開く。カバーはフェイクでその本には彼女の筆跡で数年前までの日付と出来事が書いてあった。
『今日は一緒にご飯を食べた。火の通りが悪く、大きく切り過ぎたせいで野菜が硬かった。よく食べるから大き目の方が喜ぶと思ったけど失敗しちゃった。』
『今日は一緒に映画を見た。今流行りの映画らしかったけどよく分からなかった。けど、ヒロインのあの悲しそうな顔だけは印象に残っている。』
『明日は彼の誕生日。カレーが好きなので失敗しない様に気をつけないと。まぁ?ちゃんとノートに手順を書いて台所に置いてあるから大丈夫でしょ』
「……ノート」
§
キッチンに着くと順番に引き出しや戸棚などの中身を取り出していく。ただし、取り出す時は元あった所に戻せる様に出したらしまい、次の場所にを繰り返す。
食器棚、鍋の中、フライパン置き場、戸棚の奥、そして
「冷蔵庫……の上に何かある?」
二人暮らしにしては大きな冷蔵庫。上は天井スレスレで僅かに隙間が空いてるだけで、掃除した記憶が無い。そんな場所に一冊のノートが挟まっていた。
引き抜いて見れば『㊙︎料理メモ!』と書かれており、ページをめくるとそこには彼女の筆跡でこれまで作られた料理と作り方、それに対する評価が記されていた。
『肉じゃが。二十点。
人参やジャガイモを大きく切り過ぎ!硬くて苦いまま!沢山食べる人でも小さく切って火の通りに気をつける!(切り過ぎにも注意!)
けれど出汁?は良かった!』
覚えている。あの時の彼女はとても悔しそうにしていて、次の日になると何故か野菜が細かくなっており人参は食べれる様になったけどジャガイモがドロドロに溶けていた。
『カレーライス。四十点(スープなら八十点)。
カレーライスとしては少し失敗。火をかけたまま離れてはいけない(戒め)。とはいえ偉いぞ私!ちゃんと失敗する事を見越してスープカレーへのアレンジ方法まで書いている!……とはいえ、ちょっと水分量は多かったかもしれない。肉じゃがの時みたいにジャガイモが溶ければ少しトロッとして良い感じに……なってくれ』
「……」
そこからノートの先には何も記載されていない。
「君は言ったよね?『一度でもいいから君の成功例を食べてみたいよ』って」
言った。
「別に傷ついたわけじゃないんだ。ただ、私はこれまでに君を満足させる事が出来なかったんだ」
そんな事、
「勉強。料理。セックス。他にも一緒に色々してきたけどいつも私は君に教えてもらってばかりで何も出来てない。……きっと、私は何も出来ない。君に何もしてあげられない」
違う。
「私は君にふさわしくはない」
彼女は
「そんな事は言わない」
振り返るとそこには誰もいない。
「そう。じゃあ私はなんて言うの?」
「なんて」
思い出せなかった。
§
リビングに一人、僕がいる。僕だけがいる。
カーテンは閉め切られ、雨が降っているのか風が吹いているのか分からず、秒針の止まらない時計で音はせず、静かな空間だけがここにあった。
テーブルには一冊のノートとその反対側に冷めてしまった甘ったるい珈琲擬き。僕はそこに昨日作ったカレー改めスープカレー擬きを加えた。カレーは二日目が美味しいとは言うが、このスープカレー擬きにそんな事はなかった。
当然だ。レシピ通りに作らずただカレーを作る際に水を倍近く入れただけなのだ。カレーをスープカレーにアレンジするわけではなく、始めから失敗したカレーを作ろうとしたのだからだ。
数時間温めたスープカレー擬き。ジャガイモが溶けたが水っぽさは変わらず、美味しいとはいえない。
「そりゃ、本物私が作ったんじゃなくて、私が作るのをイメージして君が作ったんだ。……なんて、君はもうあの味を思い出せないだろうけどさ」
テーブルの向かい側に彼女が、僕の妄想の彼女擬きが答えた。彼女は笑っていた。怒っていた。悲しんでいた。呆れていた。……どんな顔もしていて、どの顔もちぐはぐだった。
「当然さ。この顔をする前にいなくなったんだ。今してる顔はいつの顔だい?」
それは……
「私が友達の名前を覚えてないなんて当然さ。だって君は私に夢中だけど私の友達には興味ないんだ。君が覚えていない事を私が覚えているわけがないだろ?」
彼女擬きは珈琲擬きに手を付けないどころか目も向けない。
「君との思い出はあるのは当然。当事者だからね。けれど君は私が友達と何処で何をしてたかなんて知らない。私だって君がアルバムを見た時もうろ覚えでしっくりこなかったし、そのノートの存在も今の今まで知らなかったよ?」
「彼女は……意外にも勉強熱心だった」
「そうだよ。友達が飽きて寝てても君から教えてもらった事は理解しようと頑張ったし、君が私の成績に合わせる様に学校のレベルを下げた事を知ってからより必死に勉強したよ」
「だから」
「料理だってちゃんと勉強しててもおかしくない。失敗は全部君を喜ばせる為のアレンジ。まぁ、そのノートを見れば分かることだけどさ」
ノートは何年も放置されていたけれども、何度も書き直された跡があった。何ヶ所も僕の事が書いてあった。何処にも僕を責めた文章は無かった。
「愛されていたね」
「知ってたよ」
「想像以上に愛されていたね」
「……まだ知らない彼女の事を知れたよ」
僕は僕の作ったスープカレー擬きを口に含む。彼女の失敗(と僕は思い込んでいた)スープカレーより不味い。いや、あの味すら思い出せない。
ただひたすらに偽物のスープを啜る。啜る度に頭が混乱していく。彼女の料理の味、匂い、香り、癖、話し方、表情、声。それらが僕から絞り出されると偽物の上に落ちた。
「思い出せた?」
「姿しか思い出せない」
僕は彼女擬きに見守られながら新しいスープ擬きをよそいにキッチンに入った。
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