良い子になりたくない
「——あ。私、そろそろ帰るね」
そう言って姉さんは椅子から立ち上がった。
「え?もう行くの?……もっとゆっくりしていきなさいよ。何ならもう一日泊まって」
「あはは、明日も仕事って昨日言ったでしょ?また来月には来るから」
姉さんは母さんの言葉を流すと、僕に向かって「じゃあ家の事、よろしくね」と言って自分の住むアパートに帰ってしまった。
姉さんは僕より片手分年が離れており、数年前、僕が中学生になって暫くした頃に就職し、職場に近い今のアパートで一人暮らしをするようになった。
当時の僕は思春期故か、家族とはいえ女性である姉さんが家からいなくなった事に対して、寂しさの裏に僅かながらの安堵を感じていた。
家が広くなった!そう思って喜んでいたのは最初だけで、不意に姉がいない感覚により寂しさを感じ、数ヶ月後には寂しさも感じなくなりいないのがいつもの景色に変わった。
そんな姉さんは一ヶ月に一度、実家に帰ってくる。それは実家から食べ物を恵んで貰いにだとか、生活が安定したから仕送りの為とか。帰ってきて一泊して翌日のお昼頃には帰る。僕の寂しさが感じなくなったのも、きっと毎月帰ってくるという安心感があったのも要因だと思う。
定期的に帰ってくる姉さんだけど、ゴールデンウィークやお盆、年末年始の様な長期連休でも一泊だけして帰っていた。それこそ母さんの言う通り「もっとゆっくりしていけばいいのに」とも思った。
「どうして姉さんは直ぐにアパートに帰ろうとするの?」
僕は姉さんが帰ってきたある日、そう問いかけてみた。母さんは買い物に出ていて今は二人きり。姉さんは携帯から視線を外すと少しだけ考えると何処か遠い目をした。
「……私さ、家に居たくないんだよ」
「……そうなんだ」
まぁ、何となく予想はついていた。一人暮らしの自炊や掃除、出費は大変だとは聞いていた為、そうでなければ連休とかはずっと家に居た方が楽だし節約にもなると思う。
すると姉さんは窓の外に視線を向ける。
「確かに家にいた方が何かと楽だよ?ご飯も勝手に出てくるし、お風呂にだって浸かれる。家族がいるから寂しくもない」
「だったら」
「でも、良い子じゃないといけないんだ」
窓の外には何もない。いつもと変わらない景色だけが広がっている。そんな僕にとって当たり前の景色を姉さんは初めて見る様な、通り過ぎた物をみる様に見つめていた。
「私はこの家の長女で君は少し歳の離れた長男。私はお姉ちゃんだから君に夜更かしとかの悪い事を教えない為にずっと良い子でいないといけないんだ」
率先して手伝いをしないといけない。言葉遣いには気をつけないといけない。テストで良い点数を取らないといけない。……僕の見本になる様になりなさい。
「アパートでの一人暮らしは大変だよ。ご飯は自分で作らないといけない。節水の為にシャワーだけで過ごす日が多いし、一人が寂しい夜もあったよ。……けれどさ、あの家は私は良い子じゃなくてもいいんだよ」
気がついた時にすればいい。言葉遣いに気をつけなくてもいい。試験の結果を知らせなくてもいい。見本にならなくていい。
「お母さん達には言ってないけど毎日夜更かししているし、不摂生もしている。ふとした時に夜中なのにコンビニに行ったりもした。家で立ってご飯を食べたら怒られるでしょ?朝にシャワーを浴びたら『どうしたのよ』って半笑いで言われるでしょ?それがないの。良い子でいなくて良いの」
そう言って姉さんは僕の頭を撫でる。
「親不孝者かもしれないし君に沢山迷惑をかけているかもしれない。例え落ち着くこの家に定期的に帰ってきたとしても、私はこの家には長くいたくないの。お母さん達の知ってる良い子を演じたくないの。……私はまだ子供なの。子供だから自分の好き勝手ができるあの不自由で自由な生活の方がいいの」
僕は姉さんの事が好きだった。いつもちゃんとしていて母さん達に怒られたところなんて殆ど見たことがない。いつも優しくて大人っぽい自慢の姉さんだった。
そんな姉さんが僕の頭を撫でるその姿は姉弟にするものではなく、親戚の子供にする様な何処かよそよそしいものだった。
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