口の傷跡

 疎らに漂う雲は空の青さを引き立て、近くの木々は微風に揺られて心地良い音を奏でる。対岸が遠くに見える程の湖に陽の光が反射し、魚が飛び跳ねた際に出来た波で万華鏡の様にキラキラと光った。

 これだけ聞けばとても素晴らしい環境と思える。しかし、現実にはそれに付け加えるのが湿地帯ならではの蒸し暑さ。微風は木々を揺らすが涼しさは提供してくれず、流れる汗に気が付いたのか、忘れそうなタイミングで飛んでくる虫達が鬱陶しい。そんな茹だる様な場所だった。


『釣りに行こう』


 久しぶりの友人からかけられたのはそんな言葉だった。経験が無いわけではないが、別段、釣りが好きなわけじゃないし、そもそもアウトドアでもない。ただ『友人からの誘い』という一点だけで僕は二つ返事で了承し、陽が昇る頃に集まり、何時間も釣り糸を垂らしていた。

 釣りは待つのも醍醐味と聞くけれど僕はそうは思わなかった。魚を釣る準備をして何時間も根気強く待つ。待つ間は何をするかといえば、雑誌を読んだり、携帯で動画を見たり、はたまたぼーっと浮かんだ浮きを眺めたり。不意に針にかかった魚に気がつけば真剣勝負というかの様にリールを巻いては魚を釣り上げたり逃げられたりする。……それの何が楽しいのか。

 釣り糸を垂らして直ぐに釣れる様な環境ならわからなくもないけど、釣りをほっぽってまで暇潰しに雑誌や携帯を持つ理由がわからないし、楽しんでる最中に魚が来て中断されるのも正直いって不快だ。それなら始めから湖なんて来ないで、見晴らしのいい山や草原で昼寝をしている方がまだ気分転換になる。

 ましてや、高いお金をかけて餌やルアーを消費してまで釣り上げた魚を逃す意味もわからない。何の為に魚を釣っているのか甚だ疑問である。

 しかし、それはあくまで僕の意見であり、魚を釣りに来た君は違うのだろう。横目で視線を向ければニコニコしながらも浮きが沈む瞬間を待っていた。

「お?」

 君の声に釣られ、視線だけではなく顔ごと君に向けた。舌舐めずりをした君はチキチキとリールを回しては引っかかった何かを引き寄せる。次第に大きく動き回る釣り糸を見ては、少なくとも長靴とかのゴミではないと予感できた。

「手伝おうか?」

「お願い。網を構えてて」

 僕は自分の竿から手を離し、近くに置いてあった網に持ち替える。側によれば糸は激しく動き回り、リールを巻く音に合わせてうっすらと何かの影が見えた。

「結構大っきいね」

「やっぱりそう思う⁉︎」

 横目で君を見れば真剣な表情の割には楽しそうに見え、僕は考えるのをやめて釣り上げられるのを待った。所詮、今の僕は君の…君達に対しての脇役だ。君が見事に釣り上げたら『近くの男が網で掬い上げた』と書かれ、逃げられたら『「ドンマイ」と肩を叩かれた』と書かれる。そんな顔の見えない誰かだ。

 不意に『ヂャプン』と大きく水面が叩かれれ。あまりの大きさに君は竿を強く握りなおし、僕は目でそれを追った。

「大丈夫…焦るな……焦るな」

 君の独り言に答える様にリールが『チキチキ』と声を上げる。負けじとソレは水面を叩いて威嚇する。どちらも譲らずに戦い続けるが……どうやら向こうには分が悪かった様だった。

「網!」

「っ!」

 声に視線を向ければソレ…まぁ魚なんだけれどもほぼほぼ釣り上げられており、一度大きく震えると抵抗するのをやめてしまった。その瞬間に近くの僕が網で掬い上げた。網で掬い上げるとまた抵抗を始めるがどう考えても遅すぎるのだ。

「ナイスファイト」

 この場の功労者に声をかけると、君は釣り上げたら魚を嬉々として眺めていた。僕は君ほど魚に詳しくない為「折角だし写真撮るよ」と言って携帯のカメラを構えた。

「はいチーズ」

 そんなありきたりの合言葉と共にシャッターを切る。君は満面の笑みを浮かべながらピースをしているのに、僕は魚の口元に刺さった釣り針が気になって仕方がなかった。

 写真の出来栄えを確認して喜ぶ君に「その魚はどうするの?」と問いかけると「逃すよ」とあたりまえの様に言った。

 僕の知らないところでも釣っていたのか、君は鼻歌を歌いながらも慣れた手つきで針を外す。綺麗に針が抜けたというのに釣れた魚の口元からは血が流れ出ていた。昔、魚は痛みを感じないというのを聞いた事があったがどうやらそうではないらしく、魚にも痛覚があるらしい。

 君が魚の傷を最小限に抑えて針を抜けた事を確認しては「よし!……それじゃあありがとうね」と逃してしまった。水に入る時、溜まっていた血が水面に浮かび、一瞬で溶けて消えてしまった。一度痛い思いをしてしまったのだ。暫くあの魚は此方には近づいてこないだろう。

「さぁ!釣りは始まったばかりだよ!君も頑張ってね!」

「……そう…だね」


「今日はありがとうね!」

 あれから僕らの釣りは夕暮れになるまで続いた。全然釣れない僕に対して何匹も釣り上げる君。途中、お昼をつまんではお昼寝をしたり、再開したり。……きっと君はとても良い時間を過ごせたのだと思う。もしそうなら幸いだ。

「別に良いよ。どうせ予定も無かったんだ」

「はははっ、寂しい事言うなよ〜」

 助手席で上機嫌で今日の成果の記録を眺めている君が疲れたのか大きく欠伸を零し「あぁ、ごめんごめん。楽しくて疲れちゃった」と笑った。それを見た僕も「寝てて良いよ。着いたら起こすから。君と比べて体力は有り余っているからね」と笑い返した。

「じゃあお言葉に甘えて」

 シートが倒れ、目元をタオルで隠すと数分もしない内に君から寝息が零れてはあまりの速さにまた笑ってしまった。

 きっと今日は偶々僕だったのだろう。もし僕が連絡を受け取りそびれたり拒否をしたなら、きっと君は他の人の所に連絡を入れていたのだと思う。

 ……もし、僕が連絡を受け取りそびれたり拒否をした時、君が釣りに行くのを止めていたのならどうなったのだろう。あの魚達はあの傷を負う事はなかったのだろうか。もしかしたら僕が受け入れたからあの魚達は傷を負ってしまったのでは無いのだろうか。

 指を釣り針の様に曲げ、自分の口に引っ掛けては横に引っ張る。そういえば爪を切り忘れていたのか、伸びた爪が内頬を引っ掻いてしまい口の中に血が流れ出した。きっと釣られた魚達はこれの何十何百倍痛かったのかもしれない。

 横目で寝ている君に視線を向ける。幸せそうな口元に溜息を吐いてしまう。

「誰だって被害者で加害者だ」

 釣られた魚は思っている以上に痛がってる。ただ僕は、それを隠すのが他の魚よりも上手だっただけだった。

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