世間からすれば日常だし、自分もそう思っていた。

 その日はいつもと何も変わらない、なんて事のない普通の一日だった。

 夏がもう直ぐ終わるというのに、昼間はセミの声が煩かったのを思い出す。

 夏がもう直ぐ終わるからと、なんとなく短パンではなくて長ズボンを選んでいた。

 夏がもう直ぐ終わるからって、今日が雲ひとつない晴天だとか、嫌になる程の大雨だとかそういうのはなく、至って思い出にもならない雲が、普通にいくつも頭上を漂う普通の空だった。


 ……ただ一つ、いつもと違う事を挙げるとしたら、何でもない日でも、何かは普通に起きるという事だった。


「——お姉ちゃん?」


 呼ばれて我に返る。握っていた受話器からは何かを言っている気がした。妹の心配そうな表情に気を持ち直し、汗ばむ手で受話器を握り直し、その何かに耳を傾けた。

 耳からこぼれ落ちそうな音を拾っては、手元の白紙を黒く塗り潰し、何度も聞こえる単語にペンを握る力が籠った。

 体感的に数時間に及ぶ応答も、受話器を置く際に表示された通話時間は十数分程しか経っていなかった。


「お姉ちゃん……何か…あった?」


 通話が終わり、妹に視線を戻すと何かを感じていたのか、不安げな表情を浮かべていた。

 膝立ちになり、妹を見上げる様な形でその身を抱き寄せる。この時、無自覚で自分の体が震えていた様で、それを察した背中に手を回してくれた。

 息を整え、感情を整え、決意を固め、妹から体を引き剥がし、視線を合わせて息を吸った。


「ユキ…落ち着いて聞いてね……お母さん達の乗った車が事故に遭ったの。それで……それで、二人とも病院で…」


 そこまで話すと、妹は全てを察したのか表情が崩れる。肩に触れた手が服を強く握りしめていた。縋る様に倒れる妹を胸に抱き寄せでは両手で背中と頭を包む。

 僅かに感じる涙と嗚咽に自分が何としても妹を守らないといけない。そう思った。



 妹が落ち着いた頃、親戚の人がやって来ては病院まで車に乗せてもらった。

 病院に着いて両親を前にした時、欠損が激し過ぎてを両親と見分けが付かず、浅はかにも実は死んだのは両親ではないのかもなんて思ってしまった。無論、そんな事はなく、潰れた両親の車や所持品の財布から、折れ曲がった免許証が出て来ては自分に呆れて笑いが出そうだった。

 直ぐに葬儀の手続きや色々な所への連絡等、やらないといけない事が沢山ある事を知らされる。その大半を親戚の人達が手伝ってはくれたものの、自分でもやらないといけない事は多々あった。

 それらを終わらせる頃には陽も暮れてしまい、いつもと変わらないヒグラシの鳴き声がほんの少しだけ腹ただしく聞こえた。


「それで、ナツキちゃん達はどうしようか?」


 両親が死に、急かされる様に葬儀の手続き等をしている間に、気がつけばお通夜に入っていた。テーブルに並べられた普段ではあまり食べる事のないオードブルの数々を前に、離れた所からそんな話が聞こえた。


「姉さんの所で預かる?」

「ウチは子供もいるから厳しいわね。アンタの所は?」

「俺の所は良いけど…正直地元から離れ過ぎてるし、こっちは男ばっかりだ。女の子二人となると戸惑わせちゃうから最終判断程度に思ってくれれば」


 聞き耳を立てなくとも聞こえる内容に視線が落ちる。両親が死に、自分達の扱いを当人達のいない所でされる。例え他からすれば自分達はまだ子供かもしれない。それでも。……それでも、自分は利口な子供ではなくなったのだと。


「お姉ちゃん?」


 妹は泣き疲れたのか、ちびちびとオードブルを突いては口に運んでいた。そんな妹を数回撫でると何かを思い出したかの様にフッと力が抜け、いつものいつもの声で喋ってしまう。


「ユキ、これから親戚の人の家にお世話になるより、二人で暮らさない?」


 あまりにもするっと出た声に、自分でも驚いてしまう。そして同時にそれを聞いた妹は小さな声で「お姉ちゃんと一緒?」と呟く。


「そう。家はあるし、お金もある程度ある。その代わり、家事とかそういうのは二人で頑張らないといけないけど。……どうする?」

「………お姉ちゃんと…頑張る」

「そっ、なら話は決まりだ」


 未開封の瓶ビールをラッパ飲みし、親戚達の語り合いに割り込む様に肩を叩く。


「あっ、ナツキちゃん。今ね?二人のコレからの事を話していたんだけどね?」

「話は纏まってないんですよね?聞こえてました。……それでユキと話して決めたんですが、私達はあの家で二人で暮らす事に決めました」


 突然…という程ではないにしろ、親戚の人達がギョッとした表情でこちらを見つめていた。

 それもそうだ。この人達からすれば子供だけで生活していくなんて無理だと思っている。

 確かに、両親が死んでしまった事でやる事は山積み・今後と同じ生活は厳しいのは分かっている。分かっているからこそ、それを乗り越えてこの人達を、周りを、そして両親を安心させたい。


「でもねナツキちゃん。私達はナツキちゃんの事を思って」

「分かっています。皆さんが私達の事を思って話し合いしているのはとても感謝しております。ですが私は今年からとはいえ、就職している身。それにユキだって中学生です。いつまでも子供ではありません。……ですから、少しだけ任せてはもらえませんか?何かあれば皆さんの思いに縋らせてもらいます」


 その後、一悶着も二悶着も無く、ある程度の面倒事の解消といった空気で話は纏まり、両親の遺体を親戚に任せて一度妹と家に帰った。

 家に帰れば当然明かりは灯っておらず、ただいまと声をかけても両親のおかえりの声は聞こえなかった。


「……お姉ちゃん」

「ユキ、二人でお風呂に入ろっか?そして久し振りに二人で寝よ?」


 促すまま妹と浴室に入る。大人になったばかりの自分と中学生となった妹。浴槽に二人で入ればギリギリで、交互に体を洗っては肩まで浸かれず百数えた。

 着替え終えて暫くすると、妹が枕を抱えて部屋を訪ねて来てくれた。互いに疲れているだろうと、直ぐに明かりを消した。


 カチ…カチ…カチ…。


 一定に聞こえる時計の音が遠ざかる事はなく、冴える目はぼんやりと天井を見つめること以外にする事が無かった。


「……お姉ちゃん」

「ごめん、起こしちゃった?」

「ううん。私も眠れない」


 向かい合った妹の瞳が、窓の外の星明かりを反射する。その瞳を覗き込むと、突然妹が頭を抱き抱えてくる。


「ゆ、ユキ?」

「……私、ずっと考えていたんだ」

「考えていた?何を?」

「お姉ちゃん、まだ泣いてない」

「……そうだっけ?」


 妹との言葉にそう言えばと思い出す。確かに、両親の悲報にてんやわんやしてしまい、妹の為にと気を張っていて、思い返せばその通りだと気がつく。


「お姉ちゃん。これから二人で力を合わせていくんだから。…絶対にお姉ちゃんだから頑張らないととか言って無理したり、隠し事しないで頂戴」

「で、でも…それは…」

「私にだって出来ないことがあるし、お姉ちゃんがこれまでやってきた準備とかは何も出来なかった。分からなかった。これからもそういうのがあるかもしれない。だからそんな時、その間に私にも出来ることがあったら言って欲しい。私に気を使わないで欲しい。私も……私もお姉ちゃんの力になりたいから」


 妹の言葉に必死さを感じる。もどかしかったのだろう。顔は見えないけど今にも泣きそうな顔をしているのだろう。

 思えば妹だと思っていたけど、自分自身、親戚の人達と同じ様に妹を子供だと、庇護対象の様に見ていた気がした。


「大きくなっていたんだね」

「お姉ちゃん?」

「ううん。……分かった。約束。なるべく隠し事は互いに無し。困ったら相談。互いにカバーできるように心がける。その代わり、ユキもちゃんと守りなさいよ?」


 指切り。そう言って妹と小指を結び数年ぶりにあの歌を歌った。


 指切りげんまん 嘘ついたら針千本のます 指切った。


「ユキ、これから周りから色々言われるかもしれない。もし、それで嫌な事があったら言いなさい。私はユキの事で迷惑だなんて思わないから」

「それじゃあお姉ちゃん、そろそろ泣いてもいいんだよ?」

「……じゃあ、今日はユキの胸を借りちゃおうかな」


 そうは言ったものの、泣こうと思うと中々上手く泣き始めれない。両親の死は確かに悲しかった。けれど、ここ何年も泣いていない私はド忘れをしてしまった様子。

 どうしようもないまま心音に耳を傾けていると、今度はどうしようもなく悲しくなってしまい、妹を強く抱き締めた。

 泣けたかどうかは分からなかったけれど、今聞こえるこの心音が消える事だけは考えたくなかった。


 翌日。予定通りに両親の葬儀が行われた。親戚の人達が啜り泣く中、二人は毅然とした態度で二人を見送り、遺骨を家に持ち帰った。

 周りからは偉いとか、強がっているとか、可愛そうとか小声で何度も言われたけれど気にする事はなかった。

 何故なら、乗り越えないといけない壁を既に一つ乗り越えたのだから。

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