鬼頭氏と今川那古野氏について 最新版
わしは、平手五郎左衛門政秀殿の居城である志賀城へと向かっていた。わしは馬に乗り、引き連れている家来は二人である。
わしは夢を観た後、家来を平手五郎左衛門殿の元へ送り、会う約束を取り付けていた。
志賀城は那古野城の北に位置しており、そんなに遠くは無い。
志賀城へ向かう道中、我が鬼頭氏の由来について思い出していた。
鬼頭氏は、鎮西八郎為朝の庶子である尾頭次郎義次が祖であるとされている。
尾頭次郎は産まれた時に、蛇が首に巻きつき、頭と尾を後ろに垂れていたということから「尾頭」姓を名乗ったとされていた。
しかし、尾頭にある鬼頭氏の菩提寺である元興寺を創建した道場法師にも似たような話があるので、それが尾藤次郎に結び付いたのかもしれない。
その後、伊豆大島に流刑にされた源為朝は、伊豆諸島を支配し、伊豆介に逆らったことで、討伐軍を派遣され、自害する。
源為朝の嫡男である為頼は、父の手で殺害されたが、庶子であり赤子であった尾頭次郎は、熱田社(熱田神宮)の大宮司である藤原季範の元へ腹違いの姉とともに送られ、匿われた。
父親である源為朝が子供たちを何とか生き残らせようと、熱田社とやり取りをしたらしい。
そうして、尾頭次郎と姉は、源為朝が伊豆大島で得た家臣たちを付けられ、熱田社へと逃れたらのであった。
熱田社に匿われた尾頭次郎は姉とともに、熱田社の大宮司である藤原季範に我が子の様に大切に育てられたそうだ。
尾頭次郎は義父である藤原季範を大いに尊敬し、熱田社を熱心に信仰する様になったらしい。
わしが、熱田社の神官にそう教わった後に、大宮司が藤原季範と年代が合わないかもしれないと言われた。
熱田社の伝承では、藤原季範の義子と言うことになってるそうなので、余り気にしないようにと言われたが、なら言わないでくれと思った記憶がある。
その後、藤原季範の義子として熱田社で育てられた姉は、尾張源氏の棟梁である浦野重直の子である足助重長に嫁ぐこととなる。
藤原季範のもう一人の義子である尾頭次郎は、熱田社で育てられた後、姉の嫁ぎ先である尾張源氏たちの薫陶も受け、立派な武者へと育ったそうだ。
こうして、尾頭次郎は成長し、尾張にて豪傑として名を轟かせる様になる。
尾頭次郎の名は都にまで聞こえ、土御門天皇から召し出され、紀州の「鬼党」と称する悪党を討伐する様に勅命を賜ったのだ。
尾頭次郎は喜び勇んで勅命を奉じ「鬼党」を討伐して見せた。
そして、「鬼党」の首領の首を持ち帰り、土御門天皇へ討伐の報告をしたのである。
尾頭次郎は、土御門天皇から恩賞として古渡の地を安堵され、鬼の首を討ち取ったことから「鬼頭」の姓を賜った。
その後、鬼頭氏は古渡の地を安堵され、代々領している。
古渡近郊の那古野荘は、尾頭次郎の腹違いの姉が嫁いだ足助氏が領していた。
その後も、鬼頭氏は足助氏との通婚関係を維持し、古渡一帯での地位を確固たるものとしている。
しかし、鬼頭氏と足助氏に受難が訪れることとなった。
尾頭次郎は、初代鎌倉殿である源頼朝公の従兄弟であり、義理の叔父(源頼朝の生母が藤原季範の娘の由良午前)である。
その嫡男であり第二代鎌倉殿の源頼家は尾頭次郎の従甥孫であるが、その正室として姉の娘で姪の足助重長の娘が嫁いだのであった。
第二代鎌倉殿の下で、足助氏や鬼頭氏が英達するかに思われたが、源頼家は後ろ楯の比企氏と北條氏の対立に巻き込まれ、鎌倉殿の地位を剥奪されてしまう。そして、源頼家は北條氏によって殺害されてしまったのであった。
しかし、足助氏も鬼頭氏も鎌倉での地位を失うことは無く、第三代鎌倉殿の源実朝に仕えている。
だが、第三代鎌倉殿である源実朝が甥の公暁に暗殺されてしまう。その公暁の生母が、足助重長の娘とされており、斯くして親族である足助氏と鬼頭氏は失脚することとなった。
しかし、鬼頭氏は足助氏と違って失脚することが無かった。
第四代将軍に選ばれた藤原頼経の両親は源頼朝の同母妹である坊門姫の孫であることから、摂家将軍として選ばれる。
藤原頼経が坊門姫の子孫と言うことは、鬼頭氏にとって本来の家系としても義父の家系でも近しい親族であるとともに、この頃の九條家は熱田社を熱心に信仰していた。
そのため、熱田社と深い関わりを持つ鬼頭氏が藤原頼経に重用されることとなる。
鬼頭氏三代目の鬼頭兼信は藤原頼経に仕え、尾張国長岡荘を給わることとなった。
その後、宮騒動によって摂家将軍方に付くことになるが、摂家将軍方が敗れ、失脚することになる。
だが、鬼頭氏は宮騒動の際に、共に摂家将軍方に付いた名越流北條氏と縁を結び、北條光時の弟である北條時章に、鬼頭氏の領地に接する闇之森八幡社の社司である粟田氏に子が無く断絶しそうであるから、養子を出してはどうかと話を持ち掛けた様だ。
こうして、粟田氏に名越家から養子が送られ、後に権宮司家の名兒耶氏となる。
その後の鬼頭氏は名越流北條氏と結び付くことになり、名越家が得宗家に従うことで、鎌倉方に与する様になった。
そして、霜月騒動で足助氏や尾張源氏の嫡流である山田氏は失脚し、那古野荘を含めた所領は取り上げられてしまう。
鬼頭氏は足助氏と通婚関係にあり、深い仲であったことから、所領を取り上げられるかと思われたが、所領を取り上げられることは無かった。
それは、鬼頭氏は北條氏の有力分家である名越流北條氏と結び付いており、熱田社の権宮司家である名兒耶氏とも通婚関係にあったからである。
こうして、足助氏の所領であった那古野荘は、北條家の有力分家であった名越流北條氏に与えられることとなった。
名越流北條氏は尾張守を代々輩出しており、鬼頭氏はそれも折り込み済みで名越家に取り入っていたのかもしれない。
那古野荘の新たな主となった名越流北條氏とその親族である名兒耶氏と深い関係になることで、鬼頭氏は所領を維持し、生き残ることが叶ったのだ。
また、名兒耶氏との通婚関係から、熱田社とも深い関係になっており、鬼頭氏と領地を重複する熱田社神領の境は曖昧なままとで維持される。
鬼頭氏は足助氏が那古野荘を治めていた頃の様に、名越流北條氏とも深い関係を築いていく。
その後の鬼頭氏は鬼頭倫光の代に、名越高家とともに北條高時に従ったため、所領を失い、大和国へ逃れることとなった。
今川那古野氏は、元々は名越流北條氏であり、鎌倉幕府執権である得宗家と嫡流を争うほどの家柄であった。
名越流北條氏は得宗家と対立するものの、何度かの討伐を経て、得宗家に従うこととなる。
名越流北條氏が那古野荘に関わるのは、霜月騒動で尾張源氏の足助氏が、那古野荘を取り上げられ、那古野荘が名越家に与えられたことから始まる。
その後、鎌倉府は倒れることとなったが、名越流北條氏の当主である名越高家は今川氏から妻を迎えており、妻との間には名越高邦と名越高範の二人の子がいた。
名越高家は元弘の乱で討ち死にし、中先代の乱で北條氏の残党が蜂起すると、長男の名越高邦は、北條時行軍として挙兵する。
名越高邦は、今川頼国と戦いで討ち死にし、他の名越氏も中先代の乱で討ち死にしていった。
今川頼国は、名越高邦の弟であった名越高範を引き取り、養子とする。
名越高範は、名越流北條氏の嫡流の血筋であったが、母親が今川氏の出身であったため、今川氏の祖である今川国氏の外孫として、今川頼国の養子となることで生き残ることが出来たのだ。
今川一門となった名越高範は、名越氏から那古野氏に改姓する。
足利尊氏からも、引き続き那古野荘を領すること認められ、今川那古野氏は、足利将軍家の奉公衆一番衆として足利将軍家に代々仕える事となった。
ここで、再び鬼頭氏が現れることとなる。
所領を失った鬼頭氏の当主である鬼頭光雄は、縁の深い今川那古野氏に与し、足利尊氏方に属して戦うことなったのであった。
その後、鬼頭光雄は戦功を上げ、足利尊氏公より父祖の所領復帰と帰参を許す御墨付きを給わる。
この御墨付きには、足利家宗家二代目である足利義兼が、源為朝の子で足利義康の養子であると言う伝承も影響しているのかもしれない。
旧領復帰以後、鬼頭氏は那古野今川氏に属することとなったのであった。
尾張国長岡荘は父祖の旧領と認められず、復すことは無かった様である。
那古野今川氏の家臣であった水野氏も今川那古野氏が証伴者となって感状を給わった様なので、鬼頭氏の旧領復帰の戦功も那古野家が証伴者になってくれたのかもしれない。
名越流北條氏としての所縁と養子入りした今川氏の所縁が絡み合っているからな。
その後、鬼頭氏は今川那古野氏と通婚関係を築き、次第に那古野家の重臣となっていった。
足利将軍家の御世が下ると、足利一門筆頭である斯波氏(尾張足利氏)が尾張国守護となる。
斯波氏にとって、尾張国は尾張足利氏として重要な領国であり、尾張国内の荘園である那古野荘を領する奉公衆の今川那古野氏とも深い関係であった。
奉公衆は、足利将軍直属のため、守護の指揮下には入ることは無く、奉公衆の領地には守護の権限が直接及びにくいと言う点がある。
しかし、斯波氏は元々、足利氏に嫁いだ名越流北條氏の娘との間に生まれた男を祖としており、家祖以来の血縁と言うこともあり、互いに親しみを感じていたのかもしれない。
斯波氏は女方で血縁関係にあった名越流北條氏の子孫である今川那古野氏が奉公衆として尾張国に所領を有していたが、両者の関係は良好であった。
しかし、今川那古野氏は、その複雑な立ち位置のため、翻弄されることとなる。
斯波氏の領国である尾張国の那古野荘を治め、今川氏の一門であり、足利将軍家の奉公衆であったことから、応仁の乱以降、様々な戦に巻き込まれることとなり、今川那古野氏の勢力は徐々に弱まっていった。
そして、駿河今川家の先代当主である今川氏親が尾張国を攻めた際に、足利義政公に仕えた那古野蔵人高重様が、駿河今川氏の一族である今川左馬助(氏豊)様を養子として受け入れる様に強要されることとなったのである。
そして、那古野蔵人様は、今川左馬助様に家督を奪われたのであった。
同時期に、今川那古野氏家臣で那古野の南西に所領を持つ我が鬼頭氏も、わしが父から家督を譲られることとなる。これも駿河今川家の前当主である今川氏親の命であった。
こうして、今川那古野氏の当主は名越流北條氏嫡流の血筋では無くなってしまう。今川那古野氏の家督を駿河今川家に奪われてしまったのだ。
本来の嫡流である前当主の那古野蔵人様の御子息たちは、今川左馬助様の一門として家臣となっている。
名門である名越流北條氏が今川那古野氏の当主でなくなり、駿河今川家に奪われてしまったことは、那古野家の方々にとっては口惜しいことであろう。
今川那古野氏の家臣たちは、今川左馬助様に服しているとは言い難い。今川左馬助様は、駿河国から連れてきた家臣たちを重用しておるからだ。
本来の嫡流である那古野蔵人様や御子息たち一門と譜代の家臣たちは、今川左馬助様から冷遇されている。
やはり、八幡様が仰る様に今川左馬助様を見限り、織田弾正忠殿に寝返った方が良いやもしれぬ。
今川那古野氏の家中には、今川左馬助様に不満を持つ者も多いから、織田弾正忠殿に那古野城を取らせる味方に引き込める者もいるだろう。
もしかしたら、今川左馬助様に家督を奪われた那古野蔵人様や御子の那古野高義様も取り込めるかもしれないな。
そんなことを考えつつ、平手五郎左衛門殿の居城である志賀城へと向かうのであった。
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