第6話 雨点

 本来の散歩の仕様に戻らなければ実際、進めない。足に意識を集中してみた。所詮ここは一本道で、貧乏くさい小道であり、真っ直ぐ歩いていれば、馬鹿が目をつむっていても、必ずどこか大通りに出るだろう。いや一本道なのだから馬鹿のみならず、アホも秀才も同じ所にしかたどり着けないはずだ。大通りは豊かで贅沢に満ちている。そのほうがいい。自分がその豊かさに紛れもするだろうと回りを見れば、まただれが植えたか知らないが、咲いているのだ、紫陽花が。花びらに雨粒あまつぶを点々と載せている。


 この時季、人の世を飾れるのは紫陽花だけだと言わんばかりに、さほどの想いも意味も無く植えられたに決まっているが、咲いている。貧乏くさい小道にさらに貧乏を重ねるが如しだ。


 しかしそんなふうに、そこにいるべき理由もない紫陽花も、他の花でも、色とりどりに咲けば、色々な意味をく。そしてまた時がきたら、後のことも考えず種をくのだ。



 飼っていたねずみがったとき、児童公園の紫陽花の葉で包んでやったことがある。

 故郷の母が死んで一ヶ月が経った頃、寂しさからか、消えてしまった支点がまた欲しかったのか、小さなハムスターを飼った。小さな小さなねずみに過ぎないものだ。そいつとしばらく暮らしていたのだ。小さな体でこちょこちょと動き回り、手に乗ってはヒマワリの種などを欲しがったものだ。だがそいつも中年無職の飼い主の臭いをぎ取ったのか、それをみ嫌ったのか、悪運とやらがうつったのか、私が失職してしばらくして死んだ。

 病気にかかったようで、最後は歩くのもままならず、片目は目やにで開かなくなっていた姿を思い出す。痛みもあっただろう。


 好きなように逝け。もう迷う道じゃない。つまずく道じゃない。痛い道じゃない。そうでなければ、死ぬ意味がないじゃないかと人並みに私は涙を流し、土に埋めた。

「死ぬのは、一回だけでいいんだ」と答えていたような気がする。



 皆、いつか必ず死ぬ。言い換えれば、いつか必ず死ねる。そう教えられたが、私はまだ生きてふらついている。

 仏にうては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ。父母に逢うては父母を殺して、始めて解脱を得るなどと禅定ぜんじょうから言われても、殺す仏も仏祖も見つからない。父もなければ母ももういない。ましてねずみも、もういない。紫陽花の葉に包まれて、土の中でゆっくり眠っている。解脱してからでないと仏にも仏祖にも逢えない。父や母の本当の姿もねずみの真意も判りはしない。

 ただまた言おう。く道に苦しみや痛み、迷いやつまずきがあってはならない。それでは死ぬ意味がないじゃないか。それでは悲しすぎるじゃないか。涙ばかりで、流されるじゃないか。


 つぶやく思い出の一つひとつはきっと、このかなり痛い小道に、それぞれとりどりに咲く紫陽花のせいだろうと歩を進めるが、意識はまた足から離れていってしまう。


 自分ごときの思い出もさかのぼれば遡るほど、他人の記憶と一緒くたになり、ごちゃ混ぜになってゆき、人間すべての記憶は一つに収まるのだろうか。すべての人々の思い出の始発点か、そこは。記憶の遠く、とてもとても遠い記憶の発火点にまで、行かねばならんのか。戻らねばならんのか。


 たかが人類ごときだけではない。生き物すべてが、同じ点から始まり、その地点と時点は同じで、場所と時間の区別もまだなされていない。それが花びらの上の雨点。過ぎた今からいえば生き物の記憶の源、かつ終点。始まったことからいえば心の起点がたぶんある。そこにおいて一体、いま歩くこの道は何かと、貧しい散歩者の夢想が、中学の夏休み明け直前以来だろう、こんな野暮な理屈は、しかしそれが激流のように、こちらに向って迫ってきたのだ。


 ならばいっそ、どうなろうとも心に意識を集中してやる。

 かかる火のを浴びにいく、心の般若はんにゃの照れ笑い、世をいとい世間を憂うも、野暮の種。木の下ごとに立ち寄りて、歩く小道に降る雨は、淋しさになり点灯す。歌に風、言葉は、リズム取るのがとくれば、詠ずるは興、形は雅で、音はしょうだ。正にいま、ここに仏仏祖祖、面授めんじゅ般若の心門、現成げんじょうせりと。


 遠い記憶の源で、みんなすべてに逢っている。美の分けも愛おしさの理由もそこにある。




(つづく)

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