2 アシュタマンガラ

 自分が自分の体にまとわりつく大気を鮮明に知覚している事に気が付いた。体温が38.5度、心拍数もあがっているとの通知がインターフェースから網膜、つまり目の前に飛び出して来たので、ウェラブルデバイスを自閉モードに変える。

 窓はあからさまに聳え立つビルの腰で右半分がいっぱいになっているが、左手前のマンションとその間には辛うじて空がある。車や電車、人が歩く音でさえ一様に機械的で、景色とそのままに足繁くごっちゃになっている。そのごった煮が灰色の色を持ち、渦になった。それを黒い鳥が横断しながら、夏が焚き付けるコンクリートに向かって鳴き声を叩きつけた。いつからだったか、季節を忘れてしまったのは。

 "アシュタマンガラ"と呼ばれる小さな独立したネットワークにウェラブルデバイスを接続して"オレンジ"と名のついたデータをインストールしたのが四十五分程前。この時、改めて自分は所謂電子ドラッグをデバイスを通して神経に直接摂取した事を実感した。外に出て川まで歩く。右と左の建物が一直線に川の方まで並んでいる。電線はその上を血管のように張り巡らされていて、街に大きな蓋をしているように見える。それらに右斜めから照った日光がそのまま目を刺し、それぞれの光が紋になり、回り始めた。この街に残った最後の草むらも、産まれ持った緑を日に照らすことで踊っているのだとわかる。そして自分もその空間を隅々まで認識し、自らの重力に押される肉、血の流れと骨の軋み、さらにそれを感じとっている全身の神経の形まで感覚している。すれ違う人は紫だったり、黒っぽかったりする。目の前にある情報を、統一された五感でぴったりインプットしている。それらが全て踊っているのは、感情があるからだ。感覚器官に情が挟まっていて、この現象のさらに内側に入っていくと、人生が、自分という歴史と、それに伴うまごころがある。言葉はそれにまとわりついているだけだった。そして国が、人類が紡いできた文明が、灰色の科学が、膨大な電子的情報が、人という生命に重くのしかかって圧迫しているんだ。行かなければ。"アシュタマンガラ"へ。

 自らの生命を直観し、自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する。新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある。正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことであったはずだ。我々は最初から生きていた!


 頬を二、三発叩かれて目が覚めた。薄暗い白の天井と、こちらを覗き込む吉田の顔があった。

「大丈夫ですか?」

「ああ。」

 部屋を見渡して、自分が誰なのか思い出した。俺はさすがに頭の整理がつかず、一旦休むことにした。皆を解散させ、明日までに情報をまとめて共有すると伝えた。

 この事件の発端は、"アシュタマンガラ"という独立したネットワークと"オレンジ"という電子ドラッグ。久森はその電子ドラッグによって、意識が覚醒してしまったのだ。俺以外誰もいない静かな部屋に、どこからかハエが飛んできて、電気の周りをぐるぐる回っている。

 強い生命の目覚めを感じた。久森の感覚はもはや手に取るようにわかる。

「"When the music's over"で検索、該当する楽曲を再生しろ。」

 俺の神経デバイスは間髪入れずにインターフェースを通じて音楽を再生した。

 実に八十年も前の少し歪んだオルガンが小気味悪いシュールなリズムで流れ始めた。煙草の煙は密室で流れを無くし、漂っている。その中を飛んでいるハエが少し必死に見える。俺はなぜか口元が緩んでしまっていた。



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