ある雨の日

五月タイム

短編1/1話

「いらっしゃいませ」


 五十路の渋い声だと、自分では思っている。声というのは、喫茶店のマスターとして重要な要素ではないだろうか。この店の落ち着いたたたずまいに合うのは、俺のような声だと自負している。


 いま入ってきた女の子2人組は一番奥のテーブル席に腰を下ろした。これからデスティニーランドに行くらしい。秋の催しが見所だそうだ。1人はデートの下見を兼ねているんだとか。普通は男の子がすることだと思うのだが、きっと彼女は如才ない性格をしているのだろう。


 ところで、その2人の声は小さくて聞こえてこない。それでも会話が分かるのは、俺が読心術を会得しているからだ。ちょっとした事情によるもので、それゆえについつい話を盗み見てしまう。職業倫理のうるさくくがなり立てる声は、元々あまり聞こえなかったものだ。


 それにしても、こんな雨の日に屋外施設へ遊びに行くのは残念なことだろう。天気予報では一日中雨だ。通りの落ち葉がしっとりと濡れる今日のような日は、街を散策するほうが楽しめると思う。それは俺が雨の日を好いていることが一因なのかもしれない。雨の日を気に入っているのは、ちょうどいま扉を開けた彼女が決まってやってくるからだ。


「いらっしゃいませ」


 雨の降る日は、決まって彼女がやってくる。背まであるつややかなロングヘア。この時期なら秋色をまとったブラウスにベスト、ロングスカート。すっきりまとまってご令嬢とでも言うような上品さと可憐さをした少女だ。


 彼女はいつも窓際の同じ席に着く。あの席はなぜか、雨の日には必ず空いているのだ。そして夕暮れになるまでそこで過ごす。本を読んだり、何かしら手帳に書き込んだり、合間に紅茶を楽しみ、昼にはサンドウィッチ。正直、利益の出るお客様ではない。それも窓際という一等席で、だ。しかし彼女は、店にとって、他のお客様にとって、幸福をもたらす存在だった。


 彼女が来店すると、間もなく客足が増える。そしてなぜか皆、普段には見られないほど幸せそうに時を過ごすのだ。悲しげにしてやってきた人たちも、店を出るときには悲しさよりそれに抗うことを知った凛々りりしさが見える。彼女が幸福の女神でなければ説明が付かないだろう。


 そんな思いがあるからなのか、彼女の入店に少し遅れて入ってきた野暮ったいワンピースの女性を見過ごすところだった。これも馴染なじみのお客様だ。


「いらっしゃいませ」


 前の彼女が幸福の女神なら、後の彼女は疫病神。とても失礼なことだがそう呼ぶしか説明が付かないのだ。この疫病神の彼女が来店すると店内で不幸な出来事が相次いで起こる。滑って転ぶお客様は後を絶たず、また他のお客様がうっかり飲み物を服にこぼしてしまうのもいつものことだ。中にはかかってきた電話に出ると近親者が事故に遭った知らせだったなんてこともある。


 しかし、疫病神の彼女が、女神の彼女と同じ日に来店するのは初めてだ。いったいこの店で何が起ころうとしているのか。思いのほか退屈しないこの仕事にあって、しかし今日は見物というやつだろう。自身の不謹慎さについ渋い表情をしてしまうが、野次馬の素質を持った俺には仕方ないことと言える。


 女神の彼女がいつものセイロンティーに口をつけたところから新規のお客様の入店ラッシュが始まった。瞬く間に席が埋まっていく。満員御礼といったところで客足が途絶えた。満席で引き返すお客様が出ないのも幸福の女神の力だろう。さすがの貧乏神の彼女も形無しに思える。いや、思えた。そう、しばらくすると不幸に見舞われるお客様が出だしたのだ。


 例のごとく滑って転倒、飲み物をこぼし、中にはいさかいを始めるお客様まで。なんということか、貧乏神の力も健在だった。自身の事情しか気にしないお客様たち個人ではそれほど感じないかもしれないが、店を仕切る俺はひどい有様に頭痛を催す。いっそ店を閉めてしまいたい。


 おや、そうこうしているうちに一組のお客様が退店し、すぐ入れ替わりに他のお客様の来店だ。幸福の女神の力はまだ発揮され続けているらしい。


「いらっしゃいませ」


 それから、だろうか。幸運に巡り会うお客様が出始めた。何かのコンクールで入賞を果たしたらしい男性は、その報を受け取り満面の笑みにガッツポーズだ。他には自然体で穏やかなプロポーズが実を結ぶ。お腹の大きな女性が急に産気づき、苦しみつつも嬉しげな目元で救急車に乗り込んだ。


 さて、お客様は入れ替わり立ち替わり来店される。その人たちがまた悲喜こもごもの出来事に巡り会う。店内では幸福と不幸が入り交じり、すれ違い、また鉢合わせし、一種独特の世界が出来上がった。あまり広いとは言えないこの店だが、そこあるのはまさに人生だ。いつになく力強い活気が満ちている。


 いいものを見せてもらった。表には夕闇がそっと降りてきた。疫病神の彼女は既に退店し、今は女神の彼女が会計を済ませている。それにしても彼女たちは本当のところなんなんだろう。本人が女神だというのなら素直に信じられるところだ。尋ねてみたいが、それは明らかに異常だ。できるわけがない。


 おかしな物思いにかすかな苦笑がにじみ出る。と、レジの前から去り際に女神の彼女がこちらに振り返った。いたずらっぽい笑みを浮かべる。無音のままに唇がつづった言葉は――

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ある雨の日 五月タイム @satsuki_thyme

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