彼女の涙と恋の終わり

「雨、上がったな……」


 リュウトは腕枕した彼女の髪を撫でながら、ポツリと呟いた。


「うん……」


 彼女はうつむいたまま、小さく返事をする。


「……帰るか?」

「うん……」


 服を着て荷物を持ち、部屋を出ようとした時、リュウトは彼女を抱きしめた。


「さっき言った事……本気だから」

「……うん……」


 リュウトは涙の跡が残る彼女の頬をそっと両手で包み、唇にキスをして、頭をポンポンと優しく叩く。


「行くか」


 そして、リュウトは彼女の手を握り、彼女の住むマンションまでの道のりを歩いた。


「ホントは言わねぇつもりだったのにな……」


 歩きながら、リュウトがポツリと呟く。


「でも、後悔はしてねぇ。あれがオレの……ずっと隠してきた本音だ」

「うん……」

「どうするかは……オマエが決めろ。どっちと一緒にいたいか……ちゃんと考えて決めればいい。オレは……待ってるから……」


 彼女はリュウトの言葉を、黙って聞いていた。


「ところでさ……」

「ん……?」

「オマエ、名前なんて言うんだっけ?子供の頃ずっと酒井って呼んでたから、よく考えたら名前覚えてなかった」

「私、今は酒井じゃないよ」

「そうなのか?」

「小学校卒業前に両親が離婚して、中学からは山代になったから。今は、山代 歩美」

「そっか……アユミか。そう言えば確か、そんな名前だったな」

「ひどいな……。名前も覚えてないのに……」

「ん?」

「……なんでもない」


 またマンションの手前でアユミは立ち止まる。


「ここで、大丈夫」

「今日も、ここまでしか送らせてくれねぇんだな……。まぁ……仕方ねぇか」


 リュウトは握っていたアユミの手を離し、頭を撫でた。


「じゃあ……またな」

「……ありがとう」


 リュウトはいつものように右手をあげ、背中を向けて歩き出した。

 そして別れ際の彼女にどことなく違和感を覚え、思わず振り返る。

 しかし、彼女の姿はもうそこにはなかった。


(気のせいかな……)




 トモキは朝日の眩しさに目を覚ました。

 一晩中、手にスマホを握りしめたまま、アユミからの電話を待っているうちに眠ってしまったようだ。

 夕べ、バイト先から帰ったトモキは、どうしてもアユミともう一度話し合いたいと、祈るような思いで電話を掛けた。

 でも、呼び出し音が虚しく響くばかりで、アユミの声を聞く事もできなかった。

 アユミからの着信も、メールの受信もない事をスマホの画面で確認すると、トモキはため息をついた。


(アユちゃん……電話に出てもくれなかった……。もう声も聞きたくないくらい、オレの事、嫌いになったのかな……)


 あの日から、何日が経ったのだろう?

 バイト先で姿を見ても、トモキのいる厨房とアユミのいるホールでは、なかなかまともに顔を合わす事もできない。

 トモキのバイトが終わる頃にはいつも、一足先にバイトが終わったアユミはもう帰った後だった。

 付き合い始めた頃は、トモキのバイトが終わるのをアユミが待っていてくれて、帰りに二人で食事をしたり、手を繋いで帰り道をゆっくり歩きながら、おしゃべりをしたりした。

 大好きなアユミと一緒にいられるだけで嬉しくて、胸がドキドキして、とても幸せだった。

 それなのに、いつの間にか一緒にいるのが当たり前になっていて、アユミのすべてを自分に縛り付けようとしていたのかも知れない。

 トモキは今、アユミと離れてみて、声を聞く事もできなくなって、アユミがどれだけ大切な存在だったのか、自分がどれだけ身勝手に愛情を押し付けていたのかに改めて気付いた。

 何度も好きだと言って、抱きしめて、キスをした。

 自分の事をもっと感じて欲しくて、柔らかな肌に触れ、その温もりを確かめるように抱いた。

 初めて本気で人を好きになった。

 アユミさえいれば、他にはもう何も要らないと思うほど、いつも心の中はアユミでいっぱいだった。

 今もアユミを想う気持ちは変わらないのに、どこかポッカリと胸に穴が空いたようで、あんなにずっと一緒にいたのが、まるで嘘のようだとトモキは思う。

 アユミを離したくないと思いながら、トモキは心のどこかで、アユミとの恋が終わる事を感じていた。



 その日、バイトが休みだったトモキは、バイト先のレストランのそばで、バイト帰りのアユミが通り掛かるのを待っていた。

 あれからもずっと、アユミからの連絡はなく、バイト先で姿を見掛けても、声を掛ける事もできずにいた。

 せめてもう一度、きちんと話をしたい。

 このまま終わらせたくない。

 どんなにカッコ悪くてもいいから、アユミに謝って、好きだから、これからも一緒にいてくれと言いたい。

 アユミを誰よりも好きだと言う気持ちだけは、わかってもらいたい。

 そうすれば……もう一度、以前のように笑って一緒にいられるだろうか?



「アユちゃん」


 トモキは、目の前を通り掛かったバイト帰りのアユミを呼び止めた。


「トモくん……」

「久しぶり」

「うん……」


 アユミは、じっと見つめるトモキの視線から逃れるように目をそらした。


「ちゃんと……話したいんだ」

「うん……」

「とりあえず、歩こうか」


 トモキが手を取ると、アユミはピクリと肩を震わせた。


「……行こう」


 そのまま、トモキはアユミの手をしっかりと握って歩いた。

 笑いながら手を繋いで、何度も二人で歩いたこの道を、こうして二人で手を繋いで歩くのも、これで最後かも知れない。

 そんな事を考えながら、トモキはアユミの手を握る手に力を込めた。


(これで最後になんか……したくない……)


 いつもの帰り道で、よく二人で立ち寄った公園に足を運んで、トモキはアユミの手を引いてベンチに座る。

 しばらくの沈黙が流れ、トモキはアユミの手をそっと離した。


「この間は……ごめん」

「うん……」

「オレ……アユちゃんの事でいっぱいになり過ぎて、全然周りが見えなくなってた……。だんだんアユちゃんがどう思ってるかなんて考える事もできなくなって……アユちゃんもオレと同じ気持ちでいるんだって、勝手に思い込んでた……」


 アユミは目を伏せたまま、黙ってトモキの言葉を聞いている。


「ずっといろいろ考えたけど……オレは、やっぱり……アユちゃんが好きだよ。本当に好きだから……これからもずっと、アユちゃんと一緒にいたい。ちゃんと大事にするから……一緒にいて欲しい……」


 アユミは膝の上でギュッと両手を握りしめた。


「アユちゃんは……オレの事、もう……嫌い……?」


 トモキの問い掛けに、アユミは静かに首を横に振った。


「トモくんの事……好きだよ……」

「じゃあ……」


 トモキの言葉を遮るように、アユミは小さく呟いた。


「ごめんなさい……。もう、トモくんとは……一緒にいられない……」

「なんで?今、オレの事、好きだって……」


 アユミはうつむいたまま、手の甲にポトリと涙を落とした。


「ごめんなさい……。私は……もう、トモくんだけが知ってる私じゃない……」

「えっ……?」


 アユミの言った言葉の意味がわからなくて、トモキはただ、アユミの手の甲に落ちた涙を見つめていた。

 考えるほどに頭が混乱する。


「それって……」

「私……優しくて、私の事を大事にしてくれるトモくんが、大好きだった……。一緒にいられて幸せだって思ってたのに……トモくんの事が大好きなはずなのに……トモくんが私さえ居ればいいって言うようになって……このままでいいのかなって、ずっと不安だった……。私の世界はあの部屋とトモくんだけになったような気がして……周りから切り離されていくようで、怖かった……」

「うん……」

「トモくんに付き合おうって言われてすぐの頃に、偶然小学校の同級生と再会して……何度か食事をして、どうでもいい話をして……。口は悪いけど、無理しなくてもいいって……私は私のままでいいって言ってくれた……。トモくんが好きなのに、トモくんとは正反対のタイプのその人に……いつの間にか、会いたいって思うようになってた……」

「……オレより……そいつが好きなの?」

「わかんないよ……。トモくんにはあの人にはないトモくんだけの良さがあるし……あの人にもトモくんにはないあの人だけの良さがあって……。好きだって言われたけど……どっちがいいかなんて……決められない……」

「だったらオレを選んでよ。アユちゃんが今のオレにないものを求めてるなら……オレは、アユちゃんのために変わるから。アユちゃんのためなら無理だってなんだってするよ?」


 トモキはアユミの肩を掴み、必死でアユミを引き留めようとした。

 しかし、アユミはうつむいて首を横に振る。


「どうして?なんでオレじゃダメなの?オレはアユちゃんの事、他の誰よりも好きだよ」

「ごめんなさい……。私は……トモくんを裏切って……あの人と……。だからもう……トモくんとは一緒にはいられない……」

「えっ……?」


 アユミの言葉に、トモキの頭の中は真っ白になった。


(オレを……裏切った……?アユちゃんが……他の男と……?)


 アユミは泣きながらトモキに頭を下げて謝る。


「ごめんね、トモくん……。ホントにごめんなさい……」


 確かに、裏切られたのかも知れない。

 でも、アユミを不安にさせて心を傷付け、その原因を作ってしまったのは、不甲斐ない自分自身だ。

 トモキは悔しさと情けなさで唇を噛みしめる。


「それでもオレは……アユちゃんが好きだよ……。全部忘れて……もう一度、オレを選んで。オレ強くなるから。今度こそアユちゃんを不安にさせたりしないから……」

「ごめんなさい……。私は……トモくんにそんなふうに言ってもらう資格なんてない……」

「あるよ!!オレがアユちゃんを好きだから!!」


 トモキはアユミの体を強く抱きしめた。


「好きだ……離したくないよ……。このまま終わりになんてしたくない……」

「トモくん……。ありがとう……。でも、もう……私自身が、耐えられないの……。トモくんを裏切った事、ずっと後悔しながらこのまま一緒にいても、お互いにつらくなるだけだと思う……」


 どんなに好きだと言って引き留めても、アユミの決意は変わらない。

 トモキを裏切ってしまった事に、誰よりも胸を痛めているのはアユミなのかも知れない。


「オレと別れて、そいつと付き合うの?」


 アユミは首を横に振った。


「ズルイと思うけど……どっちも選べない……」

「オレたちもう……ホントに、終わるの……?」


 アユミが小さくうなずいた。


「こんなに……好きなのに……?」

「ごめんなさい……」


 トモキは静かにため息をついた。


「アユちゃんの気持ちは……もう、変わらないんだね」

「うん……」

「家まで送らせて。せめて最後くらい……彼氏の役目、きっちり果たさせてよ……」

「うん……」


 トモキはアユミの手を引いて、ベンチから立ち上がった。


「行こう」


 アユミがうなずくと、トモキはアユミの手をしっかりと握り、ゆっくりと歩き出した。

 しばらく黙ったまま、手を繋いで歩いた。


(これで……最後なんだな……。もう、こんなふうに二人で手を繋いで歩く事もないんだ……)


 マンションが近付いて来た頃、トモキは静かに話し掛けた。


「オレ……アユちゃん好きになって、良かったよ……。自分がこんなに……カッコ悪いくらい人を好きになれるなんて、知らなかった」


 アユミは黙ってトモキの話に耳を傾けていた。

 マンションに着いた二人は、付き合い始めて間もない頃に、よくおやすみのキスをした場所で立ち止まった。


「バイト先でアユちゃんと知り合って……ほとんど一目惚れで……思い切って告白するまでに1年間片想いして……。アユちゃんと付き合う事になった時は、嬉しくて死にそうだった」

「死にそうなんて……大袈裟だよ……」

「ホントだよ?名前呼んだだけでドキドキして……手を繋いでドキドキして……毎日すっごいドキドキし過ぎて、心臓もつか心配してたくらいだから。今思うと、オレすっげぇカッコ悪い」


 トモキが笑うと、アユミが微かに笑みを浮かべる。


「やっと笑った」

「え……」

「最後くらい、笑ってよ。オレ、アユちゃんの笑った顔が大好きだから」

「トモくん……」


 またアユミの目から涙が溢れてこぼれ落ちた。

 トモキはアユミの涙を指で拭って微笑んだ。


「だから……泣かないで……。ハンカチ、持ってないから」


 そう言ってトモキは、涙が溢れそうになるのを見られないようにアユミを抱き寄せ、胸に顔をうずめさせた。


「トモくん……ありがとう……。私も……トモくんが大好きだったよ……」

「うん……。一緒にいてくれてありがとう……。つらい思いさせてごめん……」

「私こそ……ごめんね……」

「……好きだよ……アユ……」


 トモキはアユミの唇にそっとキスをして、愛しそうに髪を撫でた。


「……最後の、おやすみのキスだね」

「うん……」

「じゃあ……おやすみ」

「おやすみ……」


 トモキはいつもそうしていたようにアユミの頭を撫でると、寂しげに微笑んで、背を向けた。


「最後くらいは……ちょっとはカッコつけられたかなぁ……」


 誰にも聞こえないような小さな声でそう呟き、トモキは堪えていた涙をこぼした。


「サヨナラ……アユちゃん……」


 トモキは、つらくてどうしても言えなかったアユミへの別れの一言を、空に向かって呟いた。

 胸が痛くて、甘くて苦い、トモキの初めての本気の恋が、静かに幕を閉じた。





 ハルを保育所まで迎えに行ったリュウトは、小さな手を引いて家までの道のりを歩いていた。


「とーちゃん、ハルの事好きー?」

「あー、ハイハイ……」

「ハルがおっきくなったら、絶対結婚しようねー!」

「もういいって……」


 大好きなリュウトのお迎えにハルは上機嫌で、手を繋いで愛の言葉を語るその様子は、まるで恋人のようだ。


(これ、あと何年続くんだ?)


 ハルを連れて帰宅すると、リュウトは店の前に彼女が佇んでいる事に気付いた。


(あ……酒井……じゃなかった。……アユミだ)


 リュウトとハルに気付いたアユミは、小さく微笑んだ。


「……よぅ」

「こんにちは」

「あー、お友達のお姉ちゃんだ」


 ハルがアユミを見て大声をあげる。


(もうただの友達じゃねぇよ……)


 なんとなく気恥ずかしくて、リュウトはハルを店の中へと促した。


「ハル、ママ待ってるぞ。早く中に入れ」


 リュウトに促されると、ハルは笑ってアユミに手を振る。


「はぁい。お友達のお姉ちゃん、バイバイ」

「バイバイ、ハルちゃん」


 アユミもハルに笑って手を振った。

 ハルが店の中に入ってルリカに抱きつくのを見届けると、リュウトはアユミの方を向いた。

 この間の夜の事を思うと、まだ返事を聞いていないので、照れくささと不安が入り交じったような、妙な気持ちになる。

 リュウトは落ち着かない気持ちを悟られないように、できるだけいつも通りの自分を装った。


「……今日は早いんだな。どうした?」

「予約してないけど……髪、切ってくれる?私に似合うめんどくさくない髪型にしてくれるって約束だったでしょ?」

「おぅ、いいぞ」


 店の中に入ると、気を利かせたのか、ルリカは既に家の中に入ったようだった。

 丁寧にシャンプーをして、タオルで髪を拭き、カット台にアユミを座らせる。

 リュウトは、また彼氏のキスマークでもついているんじゃないかと、髪を上げたアユミの首筋を、思わずじっと見てしまった。


「……もうついてないよ、何も……」


 鏡越しにリュウトの様子を見ていたアユミが苦笑いをすると、リュウトはバツの悪そうな顔で目をそらす。


「そうか……」


 リュウトがハサミを動かしてアユミの髪を切っている間、二人は何を話すでもなく、ただ黙っていた。

 リュウトはアユミの髪を切りながら、もしかしたらアユミは今日、この間の返事をするために来たのかも……と思ったりする。

 返事がどちらなのかも気になったが、それでもやっぱり、いつもとどこか違うアユミの様子が気になった。

 カットをしていると、アユミがポツリと呟く。


「彼と……別れた……」


 アユミの頬に、一筋の涙が流れた。


「彼の事……すごく、好きだった……」

「そうか……」


 アユミの涙を見てすべてを察したリュウトは、それ以上何も言わなかった。

 きっと、随分悩んだのだろう。

 彼氏との関係に悩み始めたアユミの心にできた隙間に、割って入ってしまったのは自分だ。

 その結果、アユミは彼氏の元に戻る事も、自分の元に来る事も選べなかったのだろうと思うと、リュウトの胸がしめつけられるように痛んだ。


(オレの勝手な想いが……オマエの幸せな恋を壊してしまったんだな……)


 カットを終え、シャワーで髪を流してトリートメントをした後、タオルドライした髪をドライヤーで乾かしながらセットした。

 セットを終えると、アユミが鏡越しにリュウトを見て、静かに呟いた。


「宮原くん、ごめんね……。私……」

「わかってるよ……。悪かったな……」

「宮原くんは悪くないよ……。迷ってたのは私だから……」

「この間は後悔してねぇって言ったけど……やっぱ、オマエの事なんて好きになるんじゃなかったな……。そうすりゃ……オマエにつらい思いさせなくて済んだんだ……」

「でも、宮原くんは口は悪いけど……いつも私の気持ちをわかってくれて、嬉しかったよ……」

「オレはオマエに礼を言われるような事なんてなんもしてねぇよ」


 それから、ほんの少し沈黙が流れた。

 リュウトは、アユミを後ろから抱きしめた。


「オレじゃ……ダメか……?」

「私は……彼にないものを持ってる宮原くんに惹かれてた……。彼を裏切って傷付けたのに……宮原くんを選ぶ事なんて、できないよ……」

「……そうか……」

「ごめんなさい……」

「謝んな、バカ……」


 リュウトはアユミから手を離して、静かに呟いた。


「もっと早く会えてれば……なんてな……。こんなのオレらしくねぇな。全部忘れろ、オレの事なんて……」

「宮原くん……」

「今日は送って行かねぇけど……気をつけて帰れよ」

「うん……」


 アユミがバッグから財布を出そうとすると、リュウトはそれを手で制した。


「金はいい。約束だったからな」

「……ありがとう」

「……じゃあな」


 リュウトはアユミに背を向けたままで、鏡越しにその背中を見送った。

 ゆっくりとドアが閉まり、鏡越しの彼女の姿が見えなくなると、リュウトはため息をついた。


「終わったな……」


 初めて切なさに胸を焦がした片想いの恋が、叶う事なく終わりを告げた。

 一度はこの手を伸ばして捕まえたはずの恋が、サヨナラの一言も言えないままで、指の間をすり抜けて行く。

 リュウトは精一杯の強がりで、いつもの別れ際と同じような顔をして、『じゃあ、またな』とは言わず、『じゃあな』と言った。

 自分らしくはなかったかも知れない本気の恋を、せめて自分らしく終わらせたかった。


「アユミ……。ホントに……好きだった……」


 一度も呼べなかった彼女の名前を口にして、もうアユミに届く事はないその一言を、リュウトは噛みしめるように、静かに呟いた。


 誰も幸せになる事はなかった苦い恋。

 目の前にある幸せに気付かずに、手に入らないものを求めた。

 失った恋は、もうこの手に戻る事はない。

 いつかこの恋が、穏やかに話せる思い出になるまで、どれくらいの時間が必要なのだろう?

 その頃には、今よりもっと、大人になれているだろうか?

 ──大切な人を、この手で守れるくらいに。




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