及び腰と勇み足

 ある雨の月曜日。

 店の定休日で仕事が休みだったリュウトは、自分の部屋でベースを抱えてぼんやりしていた。

 曲を作るわけでも演奏するわけでもなく、ただの気休め程度に時々、無造作に弦をはじいてみたりはする。


(なんだかな……)


 リュウトはタバコに火をつけて、ため息混じりに煙を吐き出した。


(まわりにタバコ吸う人があまりいない……って事は、彼氏もタバコ吸わねえんだろうな……。メールとか電話とか……オレと違ってマメそうだったし……。アイツだって、付き合うならちゃんとした男がいいに決まってる……)


 彼女はどんな男と付き合っているのだろう。

 二人きりで、どんなふうに過ごすのだろう。

 彼氏の前で彼女は、どんなふうに笑って、どんな顔を見せるのだろう……。

 タバコを吸いながら、無意識に彼女の事を考えている自分に気付くと、リュウトは大きくため息をついて、タバコの火を灰皿の上で乱暴にもみ消した。


(バカか、オレは?一体何考えてんだ?)


 リュウトはベースを置くと、手足を投げ出すようにゴロリと床に寝転び目を閉じた。


(オレらしくもない……)


 もう考えないようにしようと思えば思うほど、その想いはどんどん大きくなって、リュウトを丸ごと包んでしまう。

 あの夜、『またな』と言って別れた。

 お互いに、住んでいる場所はわかっているけれど、電話番号も、メールアドレスも聞かなかった。

 次に会う約束もしなかったのに、彼氏でもない自分が突然訪ねて行くわけにもいかない。

 でも、会いたい。

 ただ会えるだけで……それだけでいい。


(情けねぇ……。人のもん欲しがってどうすんだよ……。アイツが好きなのは……オレじゃないのに……)


 閉じた瞼の奥には彼女の笑顔ばかりが浮かぶ。

『友達』だと思うからこそ、彼女は安心して笑うのだろう。

『友達』以上の感情を持っている事を彼女に知られたら……もう、会えなくなるかも知れない。


(オレの気持ちなんか……アイツには知られたくない……)


 リュウトは目を閉じたまま、ただ黙って雨音を聞いていた。

 気持ちが伝わることはなくても、『今頃何をしているのだろう』と思える相手がいる事は幸せかも知れない。

 胸に芽生えた密かな恋心を誰にも知られないように、心の奥に隠してしまおうとリュウトは思った。




 バイトの休憩時間、アユミは更衣室でスマホのメール受信画面を開いた。


【終わったら、一緒に帰ろ。

 夕方雨止んでたから学校に傘忘れてきた……。

 帰りにまだ降ってたら、傘に入れてくれる?】


 トモキからのメールを読んだアユミは、慌てて返信する。


【いいよ。

 トモくんが終わるまで休憩室で待ってるね】


 しばらく経った頃、休憩にやって来たトモキが慌てた様子で更衣室に駆け込んで、スマホの画面を食い入るように見つめた。


(アユちゃんからメール来てる……!)


 トモキはアユミからのメールを見ると、幸せそうに顔をほころばせた。


(雨……帰りも降ってるといいな……)



「お疲れ様」


 バイトを終えたトモキが休憩室に戻って来ると、一足先に終わって着替えを済ませたアユミが待っていた。


「お疲れ様。着替えてくるから、もう少しだけ待ってて」

「うん、待ってるね」


 トモキは急いで着替えを済ませ、更衣室の壁の姿見を覗き込んだ。


(よし、大丈夫……)


 二人でバイト先のレストランを出ると、雨は上がっていた。


(なんだ……雨、上がったんだ……)


 トモキは残念そうに小さく息をつく。


「あ……雨、上がったんだね」

「うん。そうみたいだね」


 しばらく歩いて店から離れたところで、トモキはアユミの手を握った。


「傘、一緒に入れなくて残念だけど……雨上がったから手は繋げるよ」

「うん……」


 手を繋いで歩き出すと、アユミは少し恥ずかしそうに笑ってトモキを見た。


「トモくん……傘、一緒に入りたかったの?」

「……うん」

「まさか、そのために傘、学校に置いてきたんじゃないよね」

「いや、忘れたのはホントだよ」


(嘘だよ……。わざとなんだ……)


 手を繋いで歩きながら、トモキはすぐとなりにある彼女の横顔にドキドキしていた。


(やべぇ……。マジでかわいい)


「腹減ったな……。どっかで食べてく?」

「うん」


 二人は少し先のイタリアンレストランで食事をすることにした。

 店に入って食事をしている間に、また雨が降りだした。


「また降ってきたね」

「うん」


 少し嬉しそうに返事をするトモキを見て、アユミはクスクス笑う。


「トモくん、なんか嬉しそう」

「えっ……ああ……うん」


(照れくさい……)


 食事を終えて店の外に出ると、アユミが傘を広げる。


「オレ、持つよ」


 トモキが傘を持ち、二人で傘に入って歩く。


「さっきより雨脚強くなってきたね」


 アユミの左肩が濡れている事に気付いたトモキは、左手でアユミの肩を抱き寄せた。


「アユちゃん……肩、濡れてる」

「うん……」


 トモキは右手で傘を持ち、左手でアユミの肩を抱いて歩いた。


(やべぇ……めっちゃドキドキしてる……)


 アユミのマンションの前に着く頃には、雨は更に強くなっていた。


「よく降るね。うちにもう少し大きい透明の傘があるから、貸してあげる」

「いや、でも悪いし……」

「傘、これだと小さいし……ピンクの傘じゃ、恥ずかしいでしょ?」

「……確かに」


 トモキは傘を借りるために、アユミの部屋の前までついて行った。

 部屋の鍵を開けると、アユミはトモキを玄関に入るように促す。


「トモくん、私が濡れないようにしてくれてたから、肩すごく濡れてるね。タオル持ってくるから、待ってて」

「あっ、うん……」


 トモキは玄関とは言え、思いがけずアユミの部屋に入っている事に、急にドキドキし始めた。


(二人っきりだ……)


 部屋からタオルを持って玄関に戻ってきたアユミが、タオルでトモキの濡れた肩を拭く。


「風邪ひかないでね」


(ち……近い……!!)


 じっと見つめるトモキの視線に気付いたアユミが、トモキの顔を見上げた。

 至近距離で、二人の視線が重なる。


「アユちゃん……」


 トモキは思わずアユミを抱き寄せ、柔らかそうなアユミの唇に、自分の唇を重ねた。


「……!!」


 驚いて身動きもできないアユミの唇に、トモキは何度も唇を重ねる。


(好きだ……)


 トモキはそっと唇を離すと、アユミを抱きしめて、切なげに呟いた。


「オレ……アユちゃんが好きだ……。ずっと、こうしてたい……」

「トモくん……」


 トモキはアユミの頭を引き寄せるようにして、また何度もキスをした。


「んっ……」


 さっきより激しいキスに、アユミが小さな声をあげる。


(かわいい……。このまま……オレのものにしたい……)


「アユちゃんが……欲しい……な……」


 トモキが耳元で囁くと、アユミは慌ててトモキを押し返す。


「あの……待って、トモくん……。私、まだ心の準備ができてない……」

「あ……」


 アユミの言葉に我に返ったトモキは、慌ててアユミから手を離した。


「ごめん……急に……」

「……うん……」


 少し気まずい雰囲気になって、トモキは急いで玄関のドアノブに手をかけた。


「ごめん……オレ、帰る……」

「うん……あっ、傘、持ってって」

「ありがと……。じゃあ、また……」


 アユミに差し出された傘を受け取り、トモキは慌てて玄関を出た。

 雨の中、アユミに借りた傘をさして歩きながら、大きなため息をついた。

 トモキは思わず自分の唇に触れて、さっきまで触れていたアユミの唇の柔らかさを思い出す。


(……オレ……アユちゃんと、キスした……。アユちゃんの唇……すげぇ柔らかかった……)


 二人っきりになって、すぐそばに大好きなアユミがいると思うと、衝動が抑えきれなかった。

 アユミの気持ちも確かめないで、いきなりキスをして、あんな事を言って驚かせてしまった事が気にかかる。


(アユちゃん……オレの事、嫌になってないかな……。軽いヤツとか、勝手なヤツだって……嫌われたらどうしよう……)


 家に帰り自分の部屋に入ったトモキは、スマホを握りしめて考えていた。


(なんて送ろう……)


 メール作成画面を開き、何度も文章を打っては消して、ようやく送信した。


【さっき家に着いたよ。傘ありがとう。

 それから……急にごめん】


 程なくしてアユミからの返信が届く。


【うん、ビックリしたけど……大丈夫……】


 アユミからの返信を読んで、トモキはまたメールを打つ。


【大好きだよ】


 照れくささを抑えて、たった一言のメールを送信すると、またアユミからの返信が届く。


【ありがとう。私も、トモくんが好き】


 トモキはアユミからの返信を見て、嬉しさで叫びたい衝動を堪えながら、思いきりベッドにダイブする。


(アユちゃん……私も好きって……!!初めて言ってくれた……!!)


 メールとは言え、アユミが初めて好きだと言葉にしてくれた事に、トモキは感激で胸がいっぱいになる。


(このメール、絶対消さねぇ!!)


 アユミからのメールを誤って消さないように、スマホの画面の保護ボタンをタップして、トモキは幸せそうに何度もその短いメールを読み返す。


(幸せ過ぎる……!!)


【めちゃくちゃ嬉しい!!】


 素直な気持ちをメールで送ると、トモキは喜びが抑えきれずベッドの上でバタバタと手足をバタつかせた。


(嫌われてなくて良かった!!オレの事、好きだって!!オレも好きだ、大好きだー!!)


 全世界の人に大声でこの喜びを伝えたいと思うほど、トモキはアユミとキスした事や、初めてアユミが好きだと言ってくれた事に浮かれていた。


(今度、一緒に写真撮ろうかな……。考えたらまだ1枚も写真撮った事ない……。今度のデートはどこに行こうかなぁ……)


 トモキの頭の中は、大好きなアユミでいっぱいになっていた。




 その日、バンドの練習のために集まったリュウトとバンド仲間のアキラ、マナブは、いつものスタジオで呆気に取られていた。

 妙にテンションの高いトモキが、ドラムセットの前に座り、上機嫌で乱れ打ちをしている。


(彼女となんかあったな……)


「トモ、どうしたんだ?」

「なんかこえーよ……。毒キノコでも食ったのか?」


 アキラとマナブは、不思議そうに小声でリュウトに尋ねる。

 リュウトはやれやれとため息をついて、二人をスタジオの外に出るよう促した。


「とりあえず、タバコでも吸おうぜ」


 スタジオの外に出た3人は、喫煙スペースの長椅子に座ると、タバコに火をつけた。


「なぁ……トモ、なんかあったのか?この間トモんちに行った時は、ボーッとしてため息ばっかついてたし」

「アキも見たのか……」


 リュウトがため息をつくと、マナブが不思議そうにリュウトの方を見る。


「何?どういう事?」

「恋煩いだよ。アイツ、彼女ができたんだと。死にそうなくらい好きらしい」

「怖っ!!」

「マジかよ……」

「アイツ素直だろ?わかりやすいんだよな……。初めて自分から好きになって告白して付き合ってるらしい。思いきって告白するまで、1年くらいかかったんだってよ」

「なんだその純情ぶりは……」

「トモってそんなんだっけ?」

「モテるけど奥手だな。これまでは、付き合ってくれって言われたら、断るのも悪いかなーとか思って、とりあえず付き合ってたんだろ。でもアイツが一向に手ぇ出さねぇから、女がしびれ切らして離れてくんだよな」


 リュウトの言葉に、マナブが妙に納得してうなずく。


「だから長続きしなかったんだ」

「真面目なんだよ。いい加減な気持ちでやりたくないらしいから。ちゃんと付き合ってお互いの気持ちを確かめた上で、段階を踏んで進みたいんだろ」

「ふーん……」


 リュウトはタバコの煙を吐きながら、トモキの事を、自分とは本当に正反対だと思って苦笑いした。


「あんだけ惚れられて大事にされて、彼女は幸せなんじゃねぇの?アイツ優しいし」

「頭もいいしな。大学卒業したら、結構いいとこに勤めるんだろうな」

「旦那候補に最適な人材じゃね?」

「それは言えてる。さ、そろそろ戻るか。アイツの暴走止めねぇと、練習にならん」


 3人はタバコの火を消して、長椅子から立ち上がる。


「でも、いいよなぁ……。恋愛であんだけ幸せになれるなんて、オレ、ちょっと羨ましい」


 マナブがそう言うと、アキラがうなずいた。


「オレもそこまで女に本気になった事ねぇなぁ……」


 リュウトはスタジオに向かってアキラとマナブの後ろを歩きながら、二人の言葉を黙って聞いていた。


(本気の恋愛……か……)


 きっとトモキみたいなまっすぐな恋愛は、どんなに頑張っても自分には一生できないとリュウトは思う。

 たった一人を信じて愛し続ける自信も、愛し続けてもらえる自信もない。

 そんな自分が、誰かを幸せになんて、できるわけがない。


(それにオレは……アイツに愛してもらえるような男じゃない……)


 無意識のうちに彼女の事を思い浮かべている自分に気付くと、リュウトはその想いを打ち消そうと首を横に振ってため息をついた。


(そもそも、これは恋なんかじゃねぇ……)



 練習を終えてスタジオの外に出ると、リュウトはタバコに火をつけた。


「腹減ったな……。飯、どこ行く?」

「ハイ、オレ、ハンバーグがいい」


 アキラが手を挙げる。


「マナは?」

「オレもハンバーグがいい」

「なんかオレも食いたくなってきた。トモもハンバーグでいいか?」


 リュウトが声を掛けると、スマホの画面をじっと見ていたトモキが顔をあげた。


「オレ、帰る」

「そうか……」


(彼女が待ってんだな……)


「じゃあ、オレはトモ送ってから行くわ。アキとマナ、先に行っといてくれよ」

「わかった」


 リュウトが、短くなったタバコを水の入った灰皿に投げ込む。

 ジュッと音をたててタバコの火が消える。

 タバコの煙を吐き出して、リュウトが静かに立ち上がった。


「行くか」


 駐輪所でトモキはいつものように、リュウトからヘルメットを受け取った。


「うまくいってんだな」

「えっ?!」


 リュウトが呟くと、トモキは驚いてリュウトの顔を見た。


「いや、なんもねぇよ。ノロケ話ほどアホらしいもんはねぇからな」

「なんだよ……」

「死にそうなくらい幸せなんだろ?」

「……うん」

「なら良かったじゃん。さ、帰るぞ。どうせ、彼女がトモからの電話でも待ってんだろ?」

「……うん」


 リュウトはバイクの後ろにトモキを乗せて、家まで送り届けた。

 バイクから降りたトモキがヘルメットをリュウトに渡す。


「なんか悪かったな……」

「気にすんなよ。これからかわいい彼女と激甘トークすんだろ。お幸せに」

「リュウ……!!」


 冷やかされて赤くなったトモキを見てニヤッと笑うと、リュウトは軽く右手をあげた。


「じゃあな」

「うん、ありがとな」


 リュウトはトモキを送り届けた後、アキラとマナブの待つハンバーグレストランに向かった。

 店内に入ると、先に到着していたアキラとマナブが、飲み物とフライドポテトで空腹をしのいでいた。


「オマエら待っててくれたのか」

「まぁな……。腹減った、早く注文しようぜ」

「おぅ、そうしよう」


 お気に入りのハンバーグのプレートをそれぞれ注文した後、3人は飲み物を飲みながら、自然とトモキの話をしていた。


「3人は中学から一緒なんだろ?トモって、昔からあんな感じ?」

「そうか、マナは高校からだっけ」

「いやー、高校って言っても卒業間近だった。高3の終わりに進路決まってすぐ。うちのボーカルやらないか、って声掛けてきた。クラスも全然違うし面識も全くないのにさ、ニコニコしながら普通に話し掛けてくんの。オレが前に別のバンドでボーカルやってたって、なぜか知っててさ。どこで情報仕入れんだろ?」

「オレの時もそんな感じだったな……。ベースやらないかって」

「トモって勇気あるよな。リュウ、仲間内でもかなりビビられてたのに、トモは普通に話し掛けてたもんなぁ」

「断っても断っても、しつこくてな……。でも、なんか嫌じゃないんだよな。ニコニコしながら普通に話し掛けてきた。アイツ、全然ヤンキーでもないし、むしろ優等生だったのになぁ……。そんで、いつの間にか、気が付いたらいつもそこにいるみたいな」

「ヤンキーの先輩からもかわいがられてたもんなぁ」

「アキは?」

「まぁ……リュウとトモが仲良くなって、溜まり場になぜかトモがいるみたいな?そんで、自然と友達になったような。リュウたちの前のバンドが解散した後、一緒にやろうってトモに誘われた」


 3人が話し込んでいると、注文していたハンバーグプレートが運ばれてきた。

 かなりお腹が空いていたので、食べ始めた時は無言で黙々と食べていた3人だったが、しばらくすると、それぞれ箸を進めながら、やっぱりトモキの話の続きをしていた。


「ここにいる3人みんな、トモに招集されたんだ。アイツ、社交的なのかな」

「レストランでバイトしてるんだけど、最初は接客してたのに、今は調理場にいるらしい」

「なんで?」

「逆ナン凄すぎて。バイト終わるの待ってる子とかもいて、身の危険を感じたんだってよ」

「なんでそんなにモテるんだろう……?」

「見た目はまあ、いい方か……。女好みの顔なのかなぁ。背はそんなに目立って高くもなく、低くもなく」

「174って言ってたぞ。せめてあと1センチ欲しいって牛乳飲んでた」

「まだ成長期なのか……?バカなのか……?」

「人当たりがいいから誰からも好かれるんだろうけど……。考えてみたら、面識もないヤツに割とグイグイ来るよな」

「女には奥手だけどな」

「それを言ってやるなよ、それもアイツの良さのうちなんだから……。アイツなりに頑張ってるみたいだし……」


 リュウトはさっきから、なんとなくトモキのフォローばかりをしているような気がする。


「一生懸命さが空回りしなきゃいいけどな」

「彼女と二人っきりの時とか、かなりテンパってんじゃね?」


 マナブの言葉を聞きながら、アキラがプレートに残った米粒を集めながらふざけて言う。


「一途なヤツが本気になると、まわりが見えなくなっちゃうじゃん。それがちょっと怖い」


(……確かに……)


 マナブの言葉に、リュウトは軽く眉を寄せた。




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