第10話

## 10


「ひぃっ」

 縦笛を吹いたような、甲高い悲鳴を男は発した。

 男の顔に異様なものがくっついていた。男の首から上が、不気味な形になっている。

 事前に知っていたからクラゲが男の顔にくっついているのだと理解できるが、何も知らなかったら目の前の男を人間だとは思わなかっただろう。いや、知っていても、もはや人間には見えない。

 男の顔にくっついているものは、月の光を浴びて青くきらめいている。サファイアのようだ。美しい。

 こんなに綺麗な生き物は見たことがない。地球上でいちばん美しい生き物なのではないだろうか。触手さえ見なければ。

 男の顔から長い触手が伸びている、ように見える。一本一本の触手はムカデが何十匹も前後につながっているかのようだ。その触手が何本もある。それが男の顔を中心に男の首、肩、胸と、這ってうごめいている。

 男は気をつけの姿勢になって身体を真っ直ぐに伸ばした。そして、何度か小さく跳ねた。

 男は身体を真っ直ぐに伸ばしたままの姿勢で、ゆっくりと後方へ倒れた。

 仰向けに倒れた男の顔には、クラゲが載っていた。


 僕は紳士の腕を掘り出そうと、紳士の首のまわりを素手で掘りはじめた。

「もうその必要はなさそうですよ」

 砂に埋もれている紳士は僕の顔を見上げて言った。

「見てください」

 紳士は目の動きで、僕の注意を倒れている男のほうへと促した。

 倒れている男はぴくりとも動かない。クラゲの触手ではっきりとはわからないが、よく見れば、男の胸が動いていない。息をしていないように見える。

 死んだのだろうか。

「ええ、彼は死んでいます」

 砂に埋もれている紳士は穏やかに微笑む。

 複雑な気持ちだ。

 助かったことは素直に嬉しい。しかし、死ぬ必要があっただろうか。もちろん当然の報いだとは思うが。


 倒れた男をぼんやり眺めていたら、月の光が暗くなった。

 月が雲に隠れたのだろうかと、振り返ってみると、砂に埋もれていた紳士が立っていた。

「助かりましたね」

 紳士は僕を見下ろして微笑む。

 紳士は砂に埋まっていたのではなかったか?

 紳士が埋まっていたはずの場所を見ると、そこに紳士はいなかった。

 周りと同じ砂浜の砂があるだけで、人が埋まっていたような形跡は見当たらない。

「自分で出たんですか? というか、動けたんですか?」

「ええ、おかげさまで。もう充電は終わりましたので」

 そう言うと、紳士は僕の隣にきて砂の上にすわった。僕も砂の上にすわる。二人で海に向かって並んですわった。そして、満月を見上げた。

 充電、していたのか。砂に埋もれて? 電気を? どこに?

「これで先ほどよりも、さらに長く時間を巻き戻すことができるようになりました。今なら、あなたの記憶を、死を経験する以前の状態にリセットすることも可能です。どうされますか?」

 どうしよう。

 時間を巻き戻せば、あの男も死なずにすむのだろうか。しかし、今夜の体験は貴重だ。誰もが経験できるものではない。忘れてしまうのはもったいない気がする。あの男は、まあ、自業自得だろう。

「いえ、いいです。記憶はこのままで。時間はもう巻き戻さなくていいです」

「そうですか。わかりました。ちなみに、あちらの生き物はカツオノエボシというそうです」

 紳士は、倒れた男の上に乗っているクラゲに顔を向けて、そう言った。

「電気クラゲと呼ばれてはいますが、電気を持っているわけではないようですね。猛毒を持っていて、刺されたときに感電したかのような痛みを感じることから電気クラゲと呼ばれているようです。さらにちなみに、電気クラゲと呼ばれてはいますが、ほかの一般的なクラゲとは違う種類の生き物のようですね」

 タラバガニみたいなものか。

「わたしたちを助けてくれたヒーローですからね、海に帰してあげましょうか」

「そうですね。そうしましょう」

「触手には触らないでください。危険ですので」

「でも、触らないと運べませんけど」

「倒れている彼の身体に載せたまま、彼の身体ごと運びましょう」

 なるほど。いや、しかし、それは死体遺棄という違法行為にあたるのではないだろうか。

「まだ生きている命と、もうすでに死んでいる命だったものと、どちらを優先されますか?」

 紳士は穏やかに微笑む。

 なるほど、確かに。しかし、それでもなんとなく抵抗を感じるのはなぜだろう。

 クラゲはまだ男の顔にくっついていた。

 僕と紳士は倒れている男の足を引っぱって、男の身体を海へと引きずっていく。

 男の身体が海の中に沈んでいくと、電気クラゲは男の顔から離れていった。


 砂浜に戻ると、紳士は僕を見て言った。

「ありがどうございました。あなたのおかげで助かりました。お礼に何か差し上げたいのですが」

「え? いえいえ、そんな。僕のほうこそ助かりました。というか、僕が助けられたわけですから。お礼なんてそんな」

「そうですか。残念ですが、もうすぐ迎えが来ますのであまり時間がありません。ですので、また時間ができたときにでも、そうですね、今夜わたしたちが出会った記念として、プレゼントを差し上げに参ります。それならば受け取っていただけますでしょうか」

「いいんですか? そういうことでしたら、せっかくですので、ありがたくいただきます」

「それでは、今夜はお別れです。また会う日まで、お元気で。さようなら」

「どうも、ありがとうございました。お元気で。さようなら」


 僕は道路へと続く短い坂を登る。振り返ると、紳士は砂浜にすわって月を見上げていた。

 今夜起こった出来事の中で、いちばんの疑問がまだ残っている。

 月を見上げている紳士は、本当に宇宙から来たのだろうか。

 もうすぐ来るらしい月からの迎えを僕も待って、確かめてみたい気持ちもあった。それはしかし、他人のプライベートをのぞき見するような、卑しい行為であるような気がした。

 僕は自転車にまたがると、もう一度だけ満月を見上げてから、そして自転車を漕ぎ出した。

 いつも以上に、今夜は眠れないかもしれない。



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頭頂部にも魚は集まる つくのひの @tukunohino

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